その日、私が拾ったのは小汚い犬っころと、小汚い美少年だった。
消えゆく君へのラブコール
ザァザァと。
土砂降りと言って過言じゃない、それはご機嫌な空の下。
よりによってバイトが入っているせいで、外に出なければいけなかったある日。
アパートの階段部分に、ぐしょ濡れのガキが一人、雨宿りをしていた。
いきなり降られたのだろう、もう見るも無残な濡れ鼠。
俯いているせいで表情は碌に分からないが、きっと苦虫を噛み潰したようなそれか、諦観に似たものを浮かべているに違いない。
斑に脱色して意気がっている子どもも、自然の猛威にはまるで無力だ。
それは、きっと心優しい親友であればすぐさま部屋に取って返し、タオルでも差し出すであろう憐れな姿だった。
「…………」
もちろん私は即行で見なかったフリだが。
こんなものにかかずらって、バイトに遅れる道理があるか?
答えは、否。
淡白な現代人の習性にしたがって、あたしはあっさりとその場をあとにした。
だから、だろう。
あたしは数時間後、その姿を遠巻きに目にしてしまったその時、一瞬だけ驚きに目を見開いてしまった。
労働をして戻ったそこに、まだそのガキが座っているなんて思ってもみなかったのだ。
雨はまだ降っているものの、さっきの土砂降りとは違い、ごく普通のもので。
すでにずぶ濡れなのだから、今更濡れるのを躊躇する道理もない。
なにを待っているのかはさっぱり分からないが、いい加減帰って風呂にでも入れ、と思う。
もちろん、そのガキがこのアパートの住人、ということはない。
10ある部屋の内3つは開いているし、住んでいるのは若い女の子か家族連れだと管理人も言っていたはずだ。
それよりなにより、こんな目立つ頭の人間を今まで見た覚えはない。
っていうか、住人だったらさっさと部屋に入るだろう。
もしや風邪でも引いて動くこともままならないのか?という考えが頭をかすめるが、
自分の知ったこっちゃない、と結論付け、さっさとその横をすり抜けることにする。
がしかし、その表情が見てとれるほどガキに近づいたその瞬間、彼はその幼げな面を上げた。
目が、合う。
合ってしまう。
「あ」
我ながら、間抜けな声が出たものだと思う。
それは、少年の顔面に施された禍々しい刺青に驚いたのでもなく。
それは、少年の瞳に例えようのない不吉な虚無を感じたのでもなく。
ごくごく単純に。短絡的に。
その可愛らしい、ちっとも笑っていない笑顔に、魅せられてしまったからだった。
所謂、ひとめぼれ。
おいおい、よりによってこんなんか、と自分自身につっこまずにはいられない。
引く手数多と巷で噂のこのあたしが、よりによってこんな頭とっぽそうなガキ相手とか。
こんなんで良いのか、あたしの人生初体験!
思わず、頭痛を堪えるように頭を押さえてしまう。
がしかし、残念ながら飛び跳ねてしまった鼓動という事実は消しようもないし、
その笑顔が目に焼き付いてすでに離れなくなっている現実も変えようがない。
間違いなく私にショタの気はなかったはずなのだが、これは一体どうした珍現象だろう。
と、目が合った途端に頭を抱えるという、世間一般の常識から鑑みても失礼極まりないことをしでかした私に、
その彼はどういうワケだか興味を抱いてしまったらしい。
空気が抜けるような、それは特徴的な笑い声を上げながら、彼は私に話しかけてきた。
「……かはは。かっくいーお姉さん、ここの人か?」
「……可愛い少年、その通りだけどそれがなにか?」
冷静な声でそれに応じながら、私はその声と視線に、ある確信を抱いた。
これは、多分、あたしと同じタイプの人間だ、と。
追われれば追われるほどに逃げる、束縛を嫌う自分本位な人間だ、と。
それはまるで気まぐれな猫のように。
「悪ぃんだけど、タオルかなんか貸してくんないか?見ての通り風邪引きそうなんだわ」
「初対面の相手にくれてやるタオルも慈悲も生憎持ち合わせてないの。ごめんなさいね」
だから、あたしは敢えて彼を突き放した。
わざと、迷惑そうに。
心の底から鬱陶しそうに。
無視するワケではなく、わざわざ対峙して。
この、警戒心が薄く偽善者の多い日本で、殊更、彼に冷たく接する。
そこにほんの少しの期待と策略を込めて。
興味を持たれなかったら持たれなかったで良い。
さっきのアレは気の迷いで気のせいだと思えば良いだけなのだから。
でも。
でも、偶にはあたしからなにか仕掛けるのも良いと、その時はそう思えた。
すると、案の定、その反応は予想していなかったのか、彼はきょとんと目を丸くした後、
それはそれは楽しげに笑い声を上げた。
さっきまでとは違い、それはごく普通の笑い方だった。
「かはははは!そりゃあ、そうだ!いやいや、謝るには及ばねえよ?
俺が風邪引こうが人殺そうが、確かにアンタには一切関係ない」
「でしょう?分かったら早くここからいなくなってくれるとありがたいんだけど。
流石に子どもが凍死してたアパートなんて取材されるのはごめんだわ」
「そりゃあ、そうだ。でも、姉さんは間違っているな。まず俺はガキじゃないし、
いくらなんでも、この程度で凍死するほどやすい鍛え方もしてねぇよ」
「でも、風邪は引くのよね?」
「いんや、引くのは俺じゃない」
「見る?」とでも良いだけな表情で、彼はその物体を私に指し示した。
ひょいっと気軽な動作で懐の中から出てきたのは、明らかのノラと思しき一匹の犬っころだった。
もちろん、彼と同じくずぶ濡れで、それはそれは憐れな姿で「きゅーん……」とかアピールしてくる、ケダモノだった。
犬好きには堪らない光景だろう。
きっと、一も二もなく「待ってて!」と駆けだすシーンに違いない。
……残念ながら私は犬より猫派だけど。
「……で?私にその犬のためのタオルを貸してくれ、と?」
物凄い勢いで彼の言いたい事が分かったのだが、敢えて問いかける。
すると、彼はそれは良い笑顔で頷いた。
「子犬が濡れて困ってるんだゼ?普通放っとかないだろ」
「普通そこは放っておくわ。人間ならともかく」
「かはは!俺相手にも放っておこうとした人間のセリフじゃねぇな、それ」
「私はガキと男を理性ある人間として認識していないのよ」
「おわかり?」そう言えば、彼の笑顔が性質の悪い、にやにやとしたそれに変貌した。
「俺がそうかどうか、姉さんに分かるのか?」
「そうね、見た目は間違いなくガキだと思うけど。
そうじゃないっていうんなら、証明してくれないと分からないわね」
くすり、と挑発するように笑みをひらめかせる。
「証明できるのなら、部屋に入れてあげるわ。その犬も一緒にね」
「……物好きだな、アンタ」
それに対する返答は、「かはは」という、素敵過ぎる笑みだった。
結局、あの後部屋できっちりと『証明』をされたあたしは、
その日からその少年――零崎 人識の来訪を、ぼんやりと待ちうけることとなる。
付き合っているのとは違う。
けれど、それでも彼は時折思い出したかのように私の部屋を訪れ、一時の熱を残して去って行く。
それが、すでに何年も続いていた。
根なし草のように生きている彼が、一体なにをして日々暮らしているのかは知らない。
ただ、体中に刃物を仕込んでいて、「俺はいつ死んだっておかしくないようなもんだ」などと嘯く彼がまともな人種でないことだけは承知している。
承知していながらも、受け入れている。
ずるずる、ずるずると。
まるで、馬鹿な男に身を捧げる、馬鹿な女のように。
その心が、自分にはないことを知りながら。
それでも、人識が来るのを待つあたしがいた。
こんなことは、真面目な友人が訊いたら目を釣り上げて怒りそうなことだ。
だから、人識のことは誰にも言わない。
相談もしない。
彼にとって自分は一体なんなのだろう、と思わなくもなかったけれど、それは先に惚れてしまったあたしの負けだ。
こんな関係でもないよりはマシ、と思いながら日々を過ごしている。
少なくとも、度々来るのだから、そこそこには気にされてるのだろうし。
そして、その日も、どうせ来たりはしないだろうな、と思いながら仕事から帰宅した。
長時間のサービス残業は体もそうだが、心をなによりも消耗させる。
こういう時、ペットとかがいれば心が和んだりするらしいんだけれど、と小さく嘆息した。
人識が連れてきたあの小汚い犬を、やっぱり知人から引き受けようか、とさえ血迷いかける。
冷え切った部屋でも、きゃんきゃん尻尾振って出迎えられたら、きっと嬉しいだろう。
幸い、ここの管理人はずぼらで、隠れてペットを飼っている家が何件もある。
独りよりも、一人と一匹の方が、ただただ待ち続けるには心易いだろう。
もしかしたら、自称犬好きも今以上にやってくるかもしれないし……って、嗚呼、女々しい発想だな。
どうせ、世話が面倒で生き物なんて飼えるはずもないのだけど、まぁ、気の迷いという奴だ。
と、そんなことを沸いた頭で考えている内にアパートの階段を上りきり、自室の前に辿り着いた。
「電気つけっぱだし……」
はぁ、とますます気が重くなる。
けれど、真っ暗い中帰るよりはマシかも、と考え直す。
そして、外気にさらされて氷のようになったドアノブを回し、ドアを開けた瞬間温かな空気が流れてきた。
そう、予想に反して、あたしの部屋に出迎えてくれる誰かはいた。
「…………。……あれ、人識来てたんだ。なにか用?」
その意外な人物に反応が少し遅れる。
出迎えるのはいつものことだが、出迎えられたのは初めてのことで、少し驚いてしまった。
それも、その寛ぎ具合から、彼が長時間そこでまったりと過ごしていたのは事実なようで。
なんであたしの部屋なのに、人識の方が似合ってたりするんだろうか、と首を傾げたくなる情景がそこにはあった。
と、あたしの帰宅を見て、人識はアイス片手にごく気軽に笑った。
(いやいやいや、それあたしのとっておきのゴディ○のアイスなんだけど)
「おう。も元気そうな。相変わらずで嬉しいぜ。用がなかったら来ちゃいけねぇってか」
「別にそういうワケじゃないけど。平日にいるのは珍しいわ」
そう、曜日なんて本来関係のない生活をしているはずなのに、人識は私の仕事のない土日にしか来ない。
そういう、細々としたところ、彼は至極、常識人だ。
来たとしても、精々が金曜日である。
がしかし、今日は金曜日どころか、週が始まってまだ2日の火曜日……。
土日が待てないほどあたしに逢いたかった、だなんてことはないだろうし。
はて、まさか盛りでもついたのだろうか?と、オヤジのような発想しか出てこない自分は、女失格な気がする。
と、あたしの訝しげな視線がよっぽど気に食わなかったのか、人識は、彼にしては珍しくも眉を寄せて渋面を作った。
それに対して、上着をハンガーにかけながら、あたしは首を傾げる。
「って、ちゃんよぉ、ひょっとして今日がなんの日か分からないのか?」
「新作ポッキーの発売日じゃないことだけは確かだけれど」
「……それ、本気の本気で言ってる?」
「もちろん。あたしはいつでも素敵に本気なさんよ?」
胸を張ってそう言えば、人識はさっきまでのあたしのように重苦しいため息を吐き出した。
「まともな反応をに期待した俺が馬鹿だったぜ……」
「まともな反応ねぇ?」
突然、平日の夜に知人に不法侵入をされていた女子に、まともな反応をしろという方が無茶だ。
まともな人間であれば、まず最初から人識となんか関わらないに違いない。
がしかし、そんなことをつっこんでいれば、人識の機嫌が更に急降下することは間違いないので、
仕方がなしにあたしはそらとぼけた台詞を口にしながら、ひとつの包みを取り出した。
本当は、もう少し焦らしてやっても罰は当たらない気がするのだが、へそを曲げられては本末転倒だ。
「実は人識が今日来てくれるのをずっと待ってたの これ受け取ってくれる
こんなことするの初めてだからあんまりうまくないかもしれないけど
でも味見してみてそこまで食べられない味じゃなかったから大丈夫だと思うの
あ でも気にいらなかったら無理しなくて良いからね はいどうぞ」
「…………傑作だ」
かはは、と人識はそれは呆れたような微妙な表情で苦笑した。
「こういうものはもっと心を籠めて渡してもらうもんだと俺ぁ思ってたんだがな。
まさかノンブレスで棒読みのセリフ付きとは思いもよらなかったぜ」
「心なら籠ってるわよ?同じ職場のうざ子ちゃんの恋心がね」
「が作ったんじゃないのかよ!!」
「ありえねぇありえねぇありえねぇっ!」という怨念の如き呟きが部屋を満たした。
……人識が普通にキレた。
がしかし、いつ来るともしれない男のくせして、意中(?)の相手から手作りチョコを貰おうだなんて、
どう考えても虫が良すぎる話だと思うのはあたしだけだろうか。それもバレンタイン当日に。
チョコが貰えるだけありがたいと思って欲しい。
「っていうか、なんでそんな奴のチョコをが持ってるんだよ!?」
「あら。あたし、これでも職場でモテモテなのよ?今年の戦果はそうね、15個だったわ」
「じゅうごっ!!?」
一気に顔色が悪くなった人識に、「あれ、こいつもモテそうな可愛い顔してるのにな」と首を傾げる。
よっぽど女に縁がなかったか、それとも女運が悪かったかどちらかだろうか?
ミーハーな子は男だろうが女だろうが、格好良いもの、可愛いものには群がる生き物だったはずだけど。
まぁ、良いか。別に人識がチョコを数多くもらっていようがなにをしようが、あたしにはどうしようもない。
とりあえず「食べないなら返して」と手を突きだすと、人識は渋々その包みを剥がし始めた。
(どうやら人が貰ったものであれなんであれ、チョコは食べたいらしい。現金な男だ)
「……これはあれか、俺の日頃の行いが悪いのか?彼女にチョコ貰いに来ちゃいけないのか??
それともなにか、俺はひょっとしてに彼氏として認識されてないのか?そんなことがありえるのか??」
「なにか言った?人識」
「いんや、別に……」
「?」
その、案外丁寧な仕草をいつまでも見ていたい気はしたが、気恥ずかしさを感じて飲み物を入れるべく席を立つ。
と、あたしがキッチンに姿を消したその直後、人識があたしを呼ぶ声がした。
「!っ!!」
「……はいはい。今度はなにかしら」
その喜色満面といった声色に、あー、と嫌な予感しかしない。
がしかし、せめてもの抵抗として振り返らずに作業を続行する。
すると、
「こういうのはちっと反則だと思うんだけどな、俺は」
音もなく気配もなく殺意もなく、人識が背後からあたしに抱きついてきた。
その声はどこまでも甘く甘く甘く。
今入れようとしていたココアよりも甘ったるくて胸やけがするそれに違いない。
「こういうのを、本気で戯言っていうんだよな……」
「なんのことかしらね」
にやにやしているであろう人識の台詞を軽くいなす。
反則だなんて言われる筋合いはない。
なにしろ、あたしは一言だって嘘は言っていないのだから。
「なぁにが、『同じ職場のうざ子ちゃん』なんだか。
この字、のじゃねぇか。さてはさっきの口上も実は本音だな」
自分なのだから職場が一緒なのは当然だし、別に「誰かに貰った」とあたしが直接言ったワケではない。
ああ、確かにこれは、戯言だ。
「生憎、あたしは人識なんかのためにチョコをわざわざ用意しているうざい女なんかじゃないわ。
あたしの可愛い友達のチョコ作りに付き合ってあげただけで、それはその成果よ。
チョコが貰えなくて可哀想な人識に恵んであげたんだから、味わって食べなさい」
そう、わざわざ用意なんてしていない。
偶々。
偶々。手作りチョコを作ろうという友達の誘いに乗って、
偶々。そのチョコを糖分補給のために持ち歩いていただけだ。
だって、そんな執着心を見せたら。
見せたら。
きっと人識はいなくなるでしょう。
「かはは!照れなくて良いぜぇ?そうかそうか。なら俺はそんないじらしい想いに応えなきゃだな」
「応えなくて良い応えなくて良い。あたし明日仕事なんだから、チョコ食べたらささっと帰りなさい。
大丈夫、貴方の素敵なお兄さんはきっと貴方を両手放しで迎えてくれるわ」
だから、良い。
「うげ。兄貴のことなんか思い出させるなよな。話しててうっかり湧いて出たらどうするんだよ」
「丁重に人識の素行の悪さを報告させて頂くわ」
こうして、人識が今ここにいるだけで、十分。
例え友人のように、見ていて微笑ましく思えるような清いお付き合いじゃなくても。
例え運命のように、決して別れることのない、永遠に続く関係じゃなくても。
例えドラマのように、劇的で、激しくて、燃えるような愛じゃなくても。
「……傑作だな。じゃあ、俺はそんなことを報告されないようにの口でも塞いどくか」
「気軽になに言ってくれちゃってんのよ。あたし明日仕事だって……ぅん……」
いつか別れる恋に、今は唯、酔いしれよう。
「……ふ……ん……あたしを…窒息死させる気、ね。このスケコマシが」
「やっぱり、日頃の行いか……」
―作者のつぶやき♪―
えー、という訳で、バレンタイン設定で人識君の夢をお届けしました。
実は、結構前からこの話自体は考えてあったのですが、なかなか書けず。
ようやく日の目を見ましたよー。
前に書いたバレンタイン夢がそれは可愛らしい感じだったので、
内容似た感じで雰囲気真逆を敢えてやってみました。
フリーにするにはちょい暗めな話?なんですが、どうでしょうね?
実はヒロインさん、そこらへんきっちり割り切って、それなりに楽しくやってる感じなんですが。
テーマはそれこそ太宰治の「人間失格」。
期間限定(2/11〜2/18)でフリー配布です。
ご希望の方は、topメールフォーム又は拍手にてご一報下さると管理人小躍りします。
*現在、配布はしていません。
以上、バレンタインフリー夢『消えゆく君へのラブコール』でした!
実はこのヒロインさん、例の連載の彼女っていう裏設定あり(笑)