Butterfly Effect、46







賢者の石を狙う輩がいる、それは、教職員全てが知っている事実だ。
だからこそ、闇払いのブラックなんて男が校内を巡回しているのだし、
4階に禁じられた廊下などという物が存在する。

しかし、新学期が始まっても平和そのものの学校に、皆少し気が抜けそうになっていた。
ハロウィンの夜、トロールの暴走などという事件はあったが。
それでも、まだ、闇の帝王の影は、はっきりとしていなかったから。

が、自分だけは、警戒を緩めることなど、出来ない。してはいけない。
それは、学校の誰より、闇の帝王の身近にいたせいもあれば、
腕に刻まれた、決して消えない刺青が疼くせいもある。

そうして、何時間も、何日も。
逸る胸に、居てもたってもいられず、管理人と同じように校内に目を光らせ続ける。
それは恐らく、己に出来る最善だった。
だが、最善を尽くしても、足りなかったのだと、
ぼろぼろと目の前で泣く少女に、気づかされる。



「……もちろん、状況をご説明願えるでしょうな?」
「す、スネイプ先生!あ、いや、これは、だな……」



最初は、挙動不審なハグリッドとブランデー塗れの現状に、
闇の帝王の『や』の字も浮かんではこなかったのだが。



「なんか、この子が急に走って来たもんで、ぶつかっちまってっ」
「……それで?何故ブランデーなどという物を、巨大なバケツ一杯持っていたのかね?
まさか、ミス サカジがこれを持っていた、などとは言うまい?」
「あー……こりゃあ、あれだ。そのぅ……畑!ちょいと畑に撒こうかと思ってな!?」
「ほぅ……?畑にブランデーとは、これまた奇っ怪な」
「あーえーと、図書館で借りた本にな?書いてあったんだ!」
「……まぁ、良い。ミス サカジ、まずはその服を……」



それにしても、少女の顔色が悪すぎた。
走ってきた、という割にはその頬は青白く。



「…………っ」



なにより、その瞳が恐怖を浮かべていたから。

ツカツカと近寄り、その濡れた細い肩に手を置く。



「どうかしたのかね?怪我でも?」
「……あ……い、え……怪我は、特に……」



さり気なく少女が手を後ろに回すことに目を細める。
そして、なおも言い募ろうとすると、
彼女は意を決したように、自身の背後を振り返った。



「……いない



そして、漏れる、安堵の吐息。
その様子に自身の眉間に皺が寄ったのがよく分かる。
それは、まるで逃亡者のそれだ。

今までも少女が生徒やどこぞの馬鹿に追いかけられていたのは見たことがあるが、
それとはまるで反応が違う。

そこで、思わずよぎってしまうのは、つい先日、ミス サカジが生気なく抱かれていた、あの姿。
一角獣ユニコーンの保護に付き合わされている時に謎の男に襲われた、という事実。
……とても、嫌な予感がした。



「……誰かに追われていたのかね」
「っ」



ぴくり、と肩が僅かに強張る。
少女は、やがて少し躊躇いがちに、「気のせいかも、しれないんですけど」と呟いた。
とても気のせいなどではなさそうな様子に、
自身の足が思わず彼女の見ていた先へとのびる。

と、その瞬間。


はしっ。


「あ……」



離れていく体を引き留めるかのように、ミス サカジの手が、私のローブを掴んでいた。
自分でも思いがけなかったのか、戸惑う声が聞こえる。
と、私が少女の手と自身のローブを見つめると、彼女はぱっとその手を放し、
謝りながら項垂れた。



「…………」



本当は、すぐに走り出し、一応でも確認をすべきところなのは、分かっている。
しかし、追跡者が存在していたとしても、もう消えている時分だろうということと、
なにより、縋るような、その瞳がどうしても残していけなくて。



「……顔を上げたまえ」



まずは、少女に纏わりつく、アルコールを蒸発させることにした。
ぶわり、と、その場にカカオのようなビターで甘い香りが充満する。



「!げほっ!」「どわっ!?」



どうやら反応できなかったらしく、アルコールを吸い込んで少女と森番がむせたが、
まぁ、仕方がないことだろう。
(ハグリッドに至っては自業自得だ)
そのおかげか彼女の頬に赤みが差したのだから、問題ない。

とりあえず、私はミス サカジの腕を掴み、
ハグリッドにその場の片付けを厳命すると、廊下を歩き出した。



「せ、先生!?」
「ひとまず、医務室に寄ってから夕食にしたまえ。
……寮監として、送ろう」
「!」



前を向いていたため、その時、少女が花咲くように笑ったことを、私は知らない。










思えば、少女は自分と会う時によく怪我をしたり、具合が悪くなっている気がする。
いや、もちろん統計をきちんと取ればそんなことはないだろうし、
授業で顔を合わせているのをカウントすれば、更に頻繁とは言えなくなるだろうが。
感覚的な問題で、だ。

と、そんな他愛のないことを考えながら歩いていた私だったが、
ハグリッドから離れ、その姿が見えなくなったあたりで、
ボスっと腰にミス サカジの頭突きを喰らった。



「「…………」」



分かるだろうか?
ソウではない。
ミス サカジの、頭突きである。

もしくは、タックルと言っても良い。

未だ嘗てなかった行為に、内心ぎょっとしながら背後を首だけで振り返る。
すると、顔を真っ赤にした少女が、慌てて抱き着いていた腰から離脱する。



「す、すみませんっ」



その姿に、足でも縺れたのか、と納得する。
ところが。
また数歩、歩みを再開したところで。


ポスっと。


再度同じ場所に、衝撃が発生する。



「……ミス サカジ?」
「ごごご、ごめんなさい……っ」



少女はもはや泣きそうである。
もしや足に怪我でもしているのかと問えば、真っ赤な少女は無言で首を横に振る。
が、二度も人に抱き着いてぶつかってくるなど、彼女らしからぬ行動だ。

これはマダムに診てもらうことが増えたなと思いつつ、
医務室まで歩かせて良いか判断するために、試しにその場を2mほど歩かせてみる。
と、



「「…………」」


ふらり、ふらりと、少女は真っすぐに歩けず、
まるで雲の上を歩いているかのように、足元が覚束なかった。
が、頭を打って意識が朦朧としているのとも、足に怪我をしているのとも、もちろん違う。
それより、寧ろ……



「……ブランデーが口に入ったのか?」



ぶんぶんと首を振って本人は否定するが、どう見てもそれは、所謂、千鳥足という奴だった。
しかも、羞恥によるものにしては、いつまでも顔が赤い。
さっきまで血の気がなかったことなど嘘のようだ。
年齢を除けば、どこからどう見ても、酔っ払いにしか見えない。

しかも、頭を動かしたのが悪かったのだろう、
徐々に、少女の瞳が焦点を失い始めるっ

目の前の少女の外見年齢と、急性アルコール中毒、という言葉が走馬灯のように頭に閃いた。

確か。
アルコールは。
年齢が低いほど害になる、のでは?



「っミス サカジ!指輪を外したまえ!」
「っ!?」



突然の大声に、少女が一瞬だけ正気を取り戻す。
そして、条件反射のように指輪を外すと、
一気に変わった視点に耐えられなくなったのだろう、ぐらり、とその肢体が傾く。



「〜〜〜〜っ!ミス サカジ!?」



慌ててその体を受け止め、名前を呼びながら、仰向けにする。
が、しかし。



「…………?」



ぼうっと、熱に浮かされているような少女から、まともな返答は最早なかった。
僅かに立ち上る、フルーティなアルコール臭は、錯覚だろうか。

盛大に、大きなため息が漏れる。
受け止められた安堵からなのか、それとも呆れからなのかは、自分ですらも判然としない。
そして、目的地を医務室から自室へと変更し、
私は大きくなってもなお軽い少女を抱き上げると、足を速めた。



「アルコールは皮膚からは吸収されないはずだが……本当に飲んでいないのかね」
「…………」


こくこく。


「ちなみに、普段、酒は飲むのかね?ワインでもエールでもなんでも良い」


ふるふるふる。


「飲まない?それは弱いから飲めない、ということか?それとも……」


こくこく。


「……弱い、と?」


こくこく。



話すのが億劫なのか、呂律でも回らないのか、少女は仕草だけで会話を成立させる。
それは、その姿も相まってか、出会った当初を思い起こさせて。
けれど、ふにゃりと見せるその笑みが、
あの時とは違って、どうしようもなく無防備で。



「〜〜〜〜〜っ」



心の底から、一分一秒の長さに、奥歯を噛みしめた。










数分後、幸いにも誰とすれ違うこともなく、
私は自身の研究室へと、無事にたどり着くことが出来た。
(誰かに見られたらと思うと、考えただけで杖を構えそうになる)

扉が乱雑な蹴破り方になったが、それは些細な問題だ。
それより遥かに問題なのは、



「ミス サカジ。とりあえず、君はここで待ち……!」
「や。です……」



いつのまにやら、ひしっと私から離れようとしない、優等生の壊れた姿である。
仮眠用のソファに下ろそうとしても、少女は頑なに手を放さない。


「や」?今、嫌だ、と言ったのか……?
…………。
…………………………何故っ!!?
運んでいる途中から、居心地の良い場所を探してもぞもぞ動くな、とか、
ローブの肌触りが気に入ったのは分かったから頬ずりしないでくれと、散々心の中で叫んだが!
今ほど叫びたい気持ちになった時はない!

な ぜ は な さ な い っ!?

教師に言いつける訳でも(というか、私が教師だ)、罰則を与える訳でもなく、
この面倒……ごほごほ!大変な状態の君を、君の親友に迎えに来てもらうだけだがっ!?


幼子のように、人の腹から胸にかけてのローブを手に握りこんで、
少女はいやいやと首を振る。
その度に、少女の髪から花のような、少し甘い香りが鼻腔をくすぐった。
その香りに、自分の方こそ酔ってしまいそうだ。



「ミス サカジ!!」



普段の少女ならまずない行動に困惑しつつも、
どうにかまた正気に戻そうと強めに名前を呼ぶ。
すると、ぱっと至近距離から見上げて来た少女の目には、
うっすらと涙の膜が張っていた。



「ぐぅっ」



潤んだ瞳で。
頬を染めた少女が。
自分の腕の中から離れようとしない。

流石の自分にも、これはかなりの攻撃力だった。



「〜〜〜〜っ」



直視することの危険性を感じ、
音を立てそうなほど勢いよく、顔を背ける。
落ち着け自分。
こういう時は、あれだ。
魔法薬の作り方でも反芻するべきだ。

まず、大鍋に3計量の満月草を入れ、ニワヤナギ2束を入れる。
4回時計回りにかき回した後、杖を振り、薬を80分醸造する。
次にヒルを4匹入れ、再度ニワヤナギ2束を入れる。
また4回時計回りにかき回した後、杖を振り、薬を80分醸造する。
その間にクサカゲロウをすり鉢でペースト状にしておき、
醸造後の大鍋に、2計量を入れ、30秒弱火で熱する。
杖を振って、最初にポリジュース薬の第一段階が終了。
続いて、毒ツルヘビの皮を千切りにし……――

現実逃避と言われようがなんだろうが、知ったことではない。
酔って正常な判断力を失った人間相手に、理性を手放すくらいなら、
三つ首の大犬と対峙する方がよっぽどマシである。

薬に集中すれば、少女の甘い匂いも、
柔らかな手足の感触も、
全て頭から消すことが……――

と、意識を完全に現状から切り離すことに成功しかけたその時、



や、です…………こわいっ



今にも消えてなくなりそうな、湿った声だけは、
何故か耳に滑り込んできた。
その瞬間、妙に茹っていた思考に、冷や水を浴びせられた心地がした。

少しでも想像してみればわかることだった。
森の中だけでなく。
己の生活空間で、何者かに追われることの恐ろしさを。
しかも、その何者かは、得体が知れず。
あの闇の帝王の気配がしたというのならば。



「…………っ」



それからは、一気に視界が開けたかのようで。
僅かに震える少女の背に、腕を回す。
そして、宥めるように、慰めるように、二度三度と軽く背を撫でた。



「!」
「……分かった。君が落ち着くまでは、ここにいよう」



身じろぎ一つしないまま、少女は体を強張らせていたが、
やがて、私の言葉に嘘がないと感じたのだろう、
小さく息を吐く音をさせながら、全身の力が抜けていく。
気が付けば、皺になるほどの力で掴んでいたローブも、いつの間にか、彼女は手放していた。










その静かな時間の終わりは、唐突だった。


ばんっ!


「おーい、セブセブー。なんかハグリッド→ハリー経由で聞いたんだけど、
ぐりさん医務室に連れてったんじゃないの?いないんだけ、どー……?」
「「…………」」
「……え」
「「…………」」
「ごめっ!!?お邪魔しましたぁああぁあぁー!!」
「!?待て!行くな、ソウっ!戻ってこぉおぉいっ!!」



















......to be continued