人が堕ちるのは、どんな時だと思う?
Phantom Magician、124
たったったっ
針の落ちる音さえ響きそうな静かな廊下に、自分の靴音が反響する。
本来なら騒がしい喧噪で溢れそうなくらい、素晴らしく陽気の良い休日のホグワーツ。
しかし、今は先を急ぐ俺以外の人間はまるでいなかった。
「ち……っ」
その事実に盛大な舌打ちを放ち、俺はクィディッチ競技場までの最短経路を頭に思い浮かべつつ、
自身の左腕
――腕時計を確認して、走る足に力を込めた。
とうとう始まったクィディッチシーズン。
グリフィンドールの今季最初の試合が、もう間もなく始まってしまうという時間だった。
自分では出場しないものの、いつも良席を確保して欠かさず観ていたというのに。
それもこれも、
「あのセイウチがっ!!」
全てはあの魔法薬学教授のせいである。
ホラス=スラグホーンという人物は、有能な人間、有望な人間を見ると、
相手の都合などまるで考えずに、お茶会だのパーティだのに誘ってコネクションを拡げる男だった。
で、今回もこっちは早く話を切り上げたいのに、
ぐだぐだと俺の成績を褒め(言われなくても知ってる)、自分の交友関係の広さを自慢し(少しも羨ましくない)、
挙げ句、まだ先のクリスマスパーティに来て欲しいと鬱陶しい位の勧誘をしてくる始末……。
一応、そこそこの影響力を持つ年長者だからと、
ぎりぎり失礼にならないレベルで相手をしてしまった俺だが、
その判断をしてしまったさっきの自分を呪いたい気持ちで一杯だ。
さっさと見切りをつけて逃げれば良かった。いや、本気で。
なんだって、一度も誘いに乗ったことのない俺を誘い続けるのか理解に苦しむ。
ましてや、そこにはあのスニベルスも最近顔を出している、なんて聞かされて、
俺が行くとでも本気で思ったのだろうか?あのセイウチ髭は。
冗談じゃない。
そんな所に行くくらいならセーザで足の痺れを我慢した方がよっぽどマシだ。
どうやら良い子のレギュラスやらエバンズやらは奴の誘いに応じているらしいが、
相手の機嫌を伺って媚びを売って……なんていう、
貴族のサロンとなんら変わりない関わりなんて、考えるだけで不愉快である。
嗚呼、思い出しただけで苛々してきた。
特に、プラチナブロンドでやけに意味ありげなマルフォイ家次期当主なんかを思い出した辺り。
同じスリザリンでも、弟やらスニベリーとは違う、
得体の知れなさのある男が、俺は嫌いで。苦手で。
奴が卒業した時は、情けない話ではあるが心から安堵したものだ。
「……そういえば」
ソウも確か奴が苦手だったな。
ふと、いつだったか、マルフォイの奴の話題が出た時、
見事に奴の表情が凍り付いたのを、思い出した。
どういう関わりだか知らないが、妙に怯えていたというかなんというか。
大抵の人間に対して物怖じしないような所のある、奴にしては珍しい反応だったのでよく覚えている。
そう、あの馬鹿は、スネイプの野郎にも、引かないのに。
『え、セブルスのどこが良いのかって??』
ついこの間。
エバンズの見舞いから談話室に戻ってきたあいつがスネイプの話題を出した時。
ジェームズがなにを思ったか、尋ねた言葉が不意に耳に蘇る。
『そう。君、他に友達が出来ても、あいつのこと見放さないじゃないか。
正直、理解に苦しむなーって思って?』
それに、言葉にしないまでも俺も同意した。
陰険で。根暗で。
闇の魔術に傾倒しきっている最低の人間。
けれど、こいつはそんな男と楽しそうに一緒にいるから。
気に入らない、そう思う。
俺たちと仲良くしたいというその口で。
俺たちと真逆の人間を庇うのは、どうなんだ。
どちらとも仲良くしたい、なんていうのは、虫が良すぎるんじゃあ、ないのか。
そして、ジェームズの問いに、ソウは苦笑しながら答えた。
『なんで、何もないのに友達を見放す、見放さないなんて話になるんだよ?
前から思ってたけど、お前らマジでセブルスのこと嫌いすぎじゃねぇ?』
『んー。僕も前から思ってたけど、君は本気でスニベリーが好きなんだねぇ。
なんで?どうして?どう考えたって僕たちの方が君と馬が合うと思うんだけど』
『鹿と馬が合ったら、馬鹿になっちゃうじゃんよ』
『は?』
『ああ、いや、単なる漢字の話。
なに?ジェームズたちと友達になったら、セブセブと縁切らなきゃいけないの、僕??』
『強制じゃないけど、普通そうなるんじゃない?』
まるで、下手な芝居のように。
俺たちかスニベリーかどっちかを選べ、プロングズは言外にそう告げた。
初めて見かけた時から、不思議と奴に懐いているソウだ。
悩むに違いないが、最終的には自分たちを選ぶという確信から発した問いなのだろうと思う。
だって、そうだろう?
同じ質問を100人にしたら、100人が俺たちを選ぶに決まってる。
けれど。
ソウはそんなジェームズの予想を裏切った。
『そんなら、僕、普通じゃなくて良いや』
その表情は不機嫌そうとも、複雑そうとも、どちらともとれる感じに歪んでいて。
醜いはずなのに、不思議と目が離せなかった。
ソウの訳の分からない発言は今に始まったことじゃないけれど。
その言葉の意味が、俺には未だに分からない。
そして、いよいよ試合の時間が迫る中、俺は正面玄関の大ホールまでようやく辿り着いた。
開け放たれた扉から指す陽光が酷く眩しい。
「……あ?」
と、俺はそこにまるで染みのように一点の黒色を見つけた。
なんだろう、と思ったが、なんのことはないそれは落とし物。
不自然なほどに真っ黒いノート。
燦々と照る太陽の中、消えることのない闇のように、それはあった。
今は急ぎなのだ。
そんなものを拾っている時間も、余裕もあるはずはない。
それなのに。
それを見ると胸がざわついて。
見覚えは、あるような、ないような。
なんだろう、無視してはいけないような。
拾わなければいけないような、錯覚が……。
「…………ちっ」
「!」
自分でもほとんど無意識に足を緩めたその瞬間、
背後から聞こえた舌打ちに、とっさに後ろを振り返る。
そして、そのことを後で盛大に後悔した。
「……今の舌打ち、手前ぇか」
「その問いに答える義務はないな」
嗚呼、さっきまで、こいつのことを考えていたせいだろうか。
こんな時に、こんな不景気な面を見る羽目になるなんて、今日は厄日に違いない。
と、似たり寄ったりのことを考えているであろう、セブルス=スネイプの眉間に、皺が寄った。
「何故まだこんなところにいる。
さっさとポッターの激励にでもなんでも行けば良いだろう。
そして、その無様な負け姿を目に焼き付けてくれば良い」
「はっ。僻みか?スニベリー。
お前、箒もまともに乗れないもんなぁ?」
こんなことをしている場合じゃない、とは思うものの、口が勝手に動き出す。
…………。
……………………。
悪い、ジェームズ。ついでに言うとソウ。
お前らの試合開始には間に合いそうもない。
「だから、お前はジェームズが憎くて憎くて仕方がないんだろう?
あいつはあれでも学年主席で、寮の代表選手で、おまけにお前と違って社交的だ。
妬ましいんだよな」
「…………」
図星を指されたせいか、奴は眼を細めるようにして俺を睨み付ける。
最近、尻尾を巻いて逃げ出すことの多いこいつを逃がすまいと、俺はなおも言葉を続けた。
「俺にしたってそうだ。
お前が後生大事に持ってる純血の看板を俺は苦もなく手にしていて。
おまけに頭も魔法も、顔の造作だってお前よりよっぽど出来が良い。
そりゃあ、羨ましいよなぁ。
まぁ、俺はそんな看板、心の底からいらないけど」
眩しい眩しい外の世界に背を向けて、俺はスネイプと対峙する。
すると、黙って俺の言葉に耳を傾けていた奴は、凄まじい侮蔑の視線をこちらに寄越した。
奴に相応しい、醜悪な表情と共に。
「……羨ましい、だと?」
「ああ。目は口ほどに物を言うよな。
『シリウス様の持ってる物全部羨ましいです妬ましいです』って書いてあるぜ」
「
……手は出すなと言われていたから、我慢していれば。
図に乗りすぎだな。ブラック」
合図はなかった。
けれど、示し合わせるでもなく、互いの魔法が相手を狙って放たれる。
「
麻痺せよ!」「
切り裂け!」
バチバチ、と互いの魔法が衝突し、鮮やかな火の粉を散らした。
思った以上の威力に一瞬だけ意表を突かれたが、
なにしろ最近、奴は更に闇の魔術にのめり込んでいるらしいとの噂を聞いている。
相手にとって不足はないのだろう。
暗い愉悦に、ぺろりと唇を湿らせ、俺は不敵な笑みを浮かべる。
「腕を上げたじゃないか、スニベルス!
これも『スリザリンの継承者』とかいう馬鹿のおかげか!?」
「知りもしない相手のことを馬鹿呼ばわりの貴様の方がよほど愚かだな!
こそこそ人のことを嗅ぎ回って、案外暇なんじゃないのか!?」
「そういうお前は暇がないらしいな!
普通の神経してれば、我先に席取りするクィディッチの試合を観ようともしないで!
部屋に内職でも溜まってるのか?お前の作った物なんて、売り物になるか知らないが!」
「ふん!自寮の試合ならともかく、
知り合いもいない試合を観ているほど、僕は確かに暇じゃないな。
やるべきこともやりたいことも山ほどあるんだ。貴様のような下衆には理解できないだろうがな!」
「!」
『知り合いもいない試合』
その言葉に、胸が冷える。
嗚呼、ソウ。
やっぱり、お前は報われない。
『友達に優劣付けるような“普通”なら、僕はいらない』
お前が『友達』って呼ぶ男は、お前のこと、知り合いでもなんでもねぇって。
真っ直ぐな言葉も。
慈しむような笑みも。
コイツには、届いてねぇよ。
今の言葉でそのことが痛いくらいに分かってしまって。
そんな義理はないと知りながら、俺の心はドス黒く染まっていく。
「下衆はお前だろうが……っ」
そして、握り込んだ杖に渾身の力を込め、俺は魔法を放つ。
「
麻痺せよ!」
「
護れ!」
がしかし、すぐさまそれを相殺されて、痛烈な舌打ちが漏れる。
魔法を使っては防がれ。
使われては、防ぎ。
嫌になるほど、堂々巡り。
ぐるぐると、一定の距離を置いて互いの足が動き、まるで円を描くようだ。
前はもっと簡単にケリが付いたというのに、何故だか上手く行かない現実に苛々が募る。
そう、今までと違い、すぐにスネイプの奴を仕留められなかった理由。
それが理解できなかったのは、油断というものでしかなかったのだろう。
「……こんなものか」
「あ?」
だから、俺は。
「
身体浮上」
「!?」
奴が俺より先に魔法を発したことも、景色が突然ひっくり返ったのも、最初理解できなかった。
突然、見えない腕に踵を強引に掴み上げられたかのような感覚の後、
当然の帰結として下がった目線に、一瞬対処が遅れる。
そして、俺はとっさのことに手を突くことも出来ず、顔面から床にダイブした。
「がっ!」
目の前に、星がちらつく。
なにかされたことには気づいたが、そのあまりの衝撃に目の前がゆっくり闇に沈んでいく。
けれど、なにより衝撃だったのは。
「…………」
醜く表情を歪めて喜んでいるだろうと思ったあの野郎が。
「……見るに堪えないな」
こともあろうに浮かべていた、静かなそれ。
憐れみという、感情。
瞼の裏が焼け付くような、屈辱だった。
自分より遙かに格下の相手。
人間的にも、あらゆる面で自分より下の人間。
それに、見下されたという現実が、なによりも俺を打ちのめしていた。
『何故?』
と、真っ暗な思考の片隅で、くすくすと密やかに笑う、声がした。
『何故、彼は君より下なんだい?』
氏も、育ちも。
そうだね、君は彼よりも恵まれているね。
でも、それは本当に『君』の物なのかな?
うるさい、とその耳障りな声に応える。
しかし、その声は止むことはなく、寧ろ勢いを増して俺を嘲笑う。
『頭が良い?小さな頃から家庭教師に英才教育をされていたんだから、当然だろう?
運動神経が良い?訓練をした訳でもないんだから、それはただ持って生まれただけだね。
金に不自由したことがない?自分で稼いだ物じゃないなら、それは親の脛齧りじゃないか。
ねぇ?それら全てなくなったとしたら、君の手元には一体なにが残るのかな?』
くすくす。
くすくす。
『何も残らないよ』
煩い。
『その点、セブルスはそれらを最初から持たない。
でも、彼は優秀で、こうして君を負かせることができる』
五月蠅い。
『自分より優れた人間を見下すのは、滑稽だねぇ?
シリウス=ブラック』
う る さ い !
心を抉るような言葉に、耳を塞ぐ。
聞こえないようにも、聞かなかったことにも、できやしないのに。
『妬ましかったのは、君だろう?
自分が持たない、何者にも寄らない力が、羨ましくて憎かったんだろう?
だから、いつだって執拗に彼を貶めて、自分の価値を確かめていたんだろう』
違う!俺は……!!
『俺は』その続きの言葉が出てこない。
ここで黙ることは、相手の言葉を肯定しているも同然だというのに。
渇いた舌は痺れたように空回る。
『憐れだね。君は本当に空っぽだ』
空っぽ。
その言葉に、音を立てて血の気が失せる。
もしかしたら、心の奥の、奥底で。
考えるともなしに、思っていたこと。
オレハ、ナニモモッテイナイ。
そう。俺は、今までずっと、シリウス=ブラックであることで、評価されてきた。
あのセイウチ髭も、俺に群がる女共も。
見ていたのは、名門ブラック家の長男で。
ただのシリウスを見てくれた奴が、一体どれだけいたというんだろう?
ただのシリウスを見てくれる奴が、一体どれだけいるというんだろう?
なによりも疎んだその血が、俺を形成する全てなのだと、俺は知っていなかったか。
『可哀想に。今更、気づいたんだね』
涼やかな声が指摘したのは、紛れもない真実。
そう思えてきて、ゆっくりと、頭に靄がかかっていく。
もし、これを言われたのがジェームズだったら、
それも自分だと寧ろ笑い飛ばすだろう。
もし、これを言われたのがリーマスだったら、
人から与えられた物でも、それを否定するなんて間違っていると諭すだろう。
もし、これを言われたのがピーターだったら、
そもそも、どうしてそんなことで悩むのか分からないと言ったに違いない。
でも、俺は。
今までの自信を裏打ちしてきた物が、本当は自分の物じゃないだなんて言われて、
平気な表情ができるほど無神経じゃないし、物わかりが良くもない。
『そうだね。悪いのは君じゃない』
そして、もはやまともに頭が機能しなくなった俺に、そいつは囁いた。
――悪いのは、セブルスだ。
甘い、甘い、毒のように。
『全ては目の上の瘤のように邪魔な、セブルスが悪い』
邪魔。
それは、確か前にも一度言われた言葉だった。
「あんな奴、いなくなってくれるのが一番良い」と。
同じ声で、言われた言葉だった。
『だから、いなくなって貰おう』
ふと、その男は明るい声でそんな提案をしてきた。
楽しそうに。愉しそうに。
これ以上の名案はないとでも言いたげに。
『君は、そのための手段をちゃんと持っているだろう?』
そのための、手段?
『そう。これ以上ないほどのカードじゃないか。 人 狼 な ん て 』
…………。
……………………。
全てが闇に犯されていく中、それはまるで救いのように俺の心を揺さぶった。
目を覚ますと、遠く離れた場所で興奮に満ちた歓声が響いていた。
嗚呼、どうしてオレハこんなところに倒れていたんダロウ?
分からない。
わからナい。
分かるのは、自分が競技場に向かっていたという事実だけ。
そう、行こうとしていたんだ。
クィディッチを観に?
「いや、チガう」
消してしまえ。
声が聞こえる。
消してしまえ。
イヤだ。そんナの、イやダ。
消してしまえ。
逃げたいのに、声は自分の内側から響いてくる。
消してしまえ。
逃げられない。
消してしまえ。
ダレカ。
消seけせケせ消セけせ消せ消せ消せ消せ!
誰カ、この声ヲ止めテクれ。
『だから、その差別発言がむかつくっつってんだろっ!
その無意識に持ってる優越感とっとと叩き売ってこい!!』
「!」
不意に、頭の霞が晴れる。
ソウ=タケイ。
唯一、俺を面と向かって批難した、奴。
ひょっとして、あいつは分かっていたんだろうか。
消してしまえ。
いつか、俺がこうなることを。
「ソウ……?」
助けて欲しい、と心が悲鳴を上げる。
どろどろと、真っ黒な闇が俺を飲み込もうとする中、
ほとんど無意識に俺は走り出していた。
ソウに、逢いに。
けれど。
走って走って。
辿り着いた競技場のどこを観ても、あいつの姿はなかった。
「ソウ、は……」
「ん?ああ、シリウスか。随分遅かったなぁ。もう試合終盤だぜ?」
「あいつは、どこに……」
「ソウのことか?いや、実は俺たちもさっき知ったんだけど、出ないらしい」
「出、ない……?」
誰かは知らないダレカの声で、ぽきり、となにかが折れた。
ぎりぎりのところで保っていた、なにか。
救われたい。助けて欲しいと訴えていた、心。
全てが全て、遠ざかっていく。
「そうそう。なんでもシーカー自身が出れるならそれに越したことはないとかで、
あいつの治療薬どこからか調達してきたんだと。
まぁ、確かにそうだよなぁ。俺としては貴重な写真を激写できなくて残念だったけど。
なぁ、シリウスもピンチヒッターとかで今度
――……」
一度鮮明になった意識は、その分深く沈んでいく。
俺は、しきりに自分に話しかけてくる相手を半ば以上無視する形で、フィールドに背を向ける。
消してしまえ。
「あア、そうだナ……」
乱された心は、もう、戻らない。
信じていた物が崩れた時に、堕ちるものさ。
......to be continued