。二十三歳独身。 職業、フリーアルバイター。 現在地、京都府郊外の無人駅。 現在、君のいないこの世界に、ヒトリ生きています。 「…………」 泣き疲れて、転寝をしていたらしい。 閉じていた瞼を開いて、見上げた空の色にそんな事を思う。 透き通る蒼色から藍色混じりの茜色。 感覚としては一瞬なのに、思った以上の時間が経過していたようだ。 夢を、見た気がする。 起きた瞬間詳しい事は忘れてしまったけれど、楽しくて。 泣きたくなるほど切なくて。 呆れるほどに優しい、夢。 萌太がいた。 ただ、それだけの夢。 「…………」 声が嗄れるまで、いや、嗄れてもなお叫び続けた喉は、もう掠れた声すら出てこない。 気付けば、私は一人、どこかうら寂れた無人駅のベンチに腰掛けていた。 自分がどうしてこんな所にいるのか、自分の事であるにも関わらず記憶はおぼろげだ。 ただ、歩き疲れて。 ただ、嘆き疲れて。 虚ろな瞳が捉えたベンチに腰掛けただけ。 あとは、ただただ声の限りに、魂の限りに声を上げた。 そんな事をしても何の意味もない事は知っていたけれど、止まらなかったから。 でも、もう体中の水分は流れ出て。 涙は枯れ果てた。 「…………」 ぼんやりと、立ち上がる。 久しぶりに歩き出した足には、じんわりと血の巡る感覚が気持ち良かった。 一直線に白線に向かって歩き出す。 夕焼けの中覗き込んだ線路は、鈍い光を放ってそこに横たわっていた。 線路。電車。 身近なそれらが、萌太の命を奪ったなんて信じられない。 線路は、嫌いではない。 あの、何の変哲もない鉄の棒が、何故か郷愁を誘って。 でも。 それが、萌太の命を奪ったというなら。 私はきっと、二度と線路を見て、それに心躍らせる事はないのだろう。 ここが萌太が死んだ場所でない事は分かっていた。 場所も何も聞いていないそこに、偶然辿り着くなんてあるはずがない。 それでも、都合の良い脳は、此処が萌太との別離の場所だと告げている。 萌太とのさよならには、此処が相応しいのかもしれない。 理屈なき根拠で、そう思う。 君との出逢いは、ある電車の中。 君が覚えているかは知らないけれど、私はそこで眠る君と出逢った。 君との未来は、すべての日常の中。 君が知っているかは知らないけれど、私はそこで笑う君に魅了された。 君との毎日は、夢のような現実の中。 君が願ったのかは知らないけれど、私はそこで恋する君と手を繋いだ。 君との別れは、雨のそぼ降る傘の中。 君が気付いたかは知らないけれど、私はそこで泣いている君の手を離した。 出逢ってからの日々に、君のいないときはなかった。 たとえ傍に居なくても。 萌太はいつも私の心に、勝手に住み着いていた。 今だって、他の全部を押し退けて、自己主張ばかり。 いつもは自分のことなんか後回しな子なのに。 そうじゃないのは、本物でない、その証。 心の中にいたって、触れなければ。 抱きしめられなければ。 キスできなければ。 私は満足なんてできないのにね。 「ねぇ、萌太……」 だから、私は。 君との別離を選んだ。 「私ね、言わなきゃいけなかったことがあるんだ」 私は。 君の事がスキでした。 「私は、萌太がスキでした。 優しい眼差しも、柔らかい声も、身に纏う煙草の匂いも。 でも。 それよりなにより。 私がスキだったのは、萌太自身でした。 ちょっとヤキモチ焼きなところも。 本音を笑顔でごまかしちゃう気ぃ遣いなところも。 妹想いのシスコンなところだって。 萌太であれば、全部スキ」 普段とは比べられない位、掠れた声で愛を謳う。 「そう、思ってた」 でも。 ――自分を省みない君は、大嫌いでした。 「ごめんね。私、嘘吐いてた」 全部スキなんて、嘘。 私は君の、自己犠牲を是とする態度が嫌いだった。 「自分でない誰かに向けられる優しい眼差しも、柔らかい声も。 自分の本音を言わないところも。 彼女よりも妹を優先するシスコンなところだって。 全部全部嫌いだった」 もっともっと、自分を大切にしてほしかった。 もっともっと、私を優先してほしかった。 言わなかったのは、年上だという小さな矜持。 言えなかったのは、年下だという小さな遠慮。 「言えば良かった。言ってあげれば良かった。 萌太がどれだけ頑張ったって、世界は変わらないよって。 萌太がどれだけ頑張らなくたって、世界は裏切らないよって」 そうすれば、何かが変わっていたかもしれないのに。 それをすることのできなかった自分が、本当に悔しくてたまらない。 「ねぇ、萌太……」 こんな私だけど、スキでいてくれた? ――はい。愛していますよ、姉。 不意に、透明な声がした。 「……え?」 思いつめていたからだろうか。 ふと顔をあげて見た、線路の向こう――樹木の陰に、萌太がいた。 それは、穏やかに、優しげに。 でも、ちょっと照れたような微苦笑で。 記憶そのままに、萌太がそこに立っていた。 「…………ふ」 ふいに笑えてきた。 馬鹿な子。 また、自分のことを後回しにして。 こんなところまで心配してきて。 「本当に、馬鹿だね。萌太は」 死んでも治らない、大馬鹿だ。 「でも、そんなところが嫌いで、大スキだったよ」 萌太らしくて。 そんな愚かしさが、たまに可愛く思えて。 「折角来たのに、告白を聞き逃してる辺りが、本当に萌太らしいよね」 まっすぐに萌太を見ながら、私は笑った。 そして。 もう二度と戻らない、優しい世界に終わりを告げる。 あの世界はもうここにはない。 あるのはただ、君のいない世界だけ。 君のいない、真っ白な世界。 それは酷く静かで、綺麗で。 歪なそれだ。 そのことに、段々と嫌になってくるけれど。 ……萌太の世界が壊れたのなら、続きのないまま終わってしまえば良いというのに。 終わらない世界は、理不尽で、少しも凡人であるところの私の思い通りになんかなってくれないのだ。 だったら、仕方がない。 いつだって、笑って愚痴を聞いてくれた奴相手に、不平不満は全てぶつけてしまえ。 「私は、萌太が好きだったよ。 今も大好きで。大好きで。 大好きでどうしようもないんだよ? なのに、置いてくなんて酷いよ、萌太。自分は死神だとか訳分かんないこと言ってたくせに。 死神が先に死んじゃったら、私のお迎えは誰が来てくれるっていうの?」 こんな人間相手に、天使が来てくれるわけもないし。 悪魔なんか願い下げだし。 どうしてくれるのよ。私、これじゃ安心しておちおち死ねもしないじゃない。 「萌太の後を追って死んじゃおうかなって思いもしたけど。 痛いの嫌だし。死んで逢えるとも限らないし。 大体。そんなことしたら、多分二度と萌太に胸張って逢えない……」 だから、追いかけないよ。 萌太がどうでも良いワケじゃない。 萌太がスキだから、追わないんだよ。 「でも、ずっとスキで居続けられるほど、私強くもないの。 絶対、この気持ちを覚えてる、なんて言えない。 だから、言っておくね。私、萌太のこと、きっといつかスキじゃなくなるよ。 好きって気持ちは変わらないけど、でも、恋する気持ちはなくなるよ」 ――それでも、良い? 身勝手なその問いに、萌太は微笑でもって答えた。 いつも通りに。いつかと同じように。 やがて、プラットホームに、滑るように電車が入る。 私は、やがて、萌太のいた場所に背を向けて、その電車を迎える。 振り返りは……しない。 「ああ、そういえば言い忘れてた」 美少年のひとり旅は危ないから気をつけてね。 ばいばい。 だいすき。 あいしてた。 萌太からの返事は、扉が閉まる音に掻き消された。 他に客のいないワンマン電車に一人、ぼんやりと座って瞳を閉じる。 開いていても意味のない瞳なら、同じように閉じていても意味がない。 なら、どちらでも同じこと。 なら、現実より、夢が見たい。 萌太のいない現実より、いるかもしれない夢が良い。 だってきっと。 もう君は逢いに来てくれさえしないのだろうから。 「…………」 私は君を忘れていく。 君を忘れて新しい私として生きていくのでしょう。 ならば、少しでも君を覚えているうちに。 覚えているうちだけでも、君を想う。 「……幸せは祈らないけどね」 だって死んでしまったら幸せも何もないでしょう? だから。 だから、君は私の幸せを祈っていて。 勝手に置いていったのはそっちなんだから、それ位のわがままには応えなさいよ。 君の分までとは言わないけど。 それを糧に自分の分くらいは幸せになってみせるから。 だって、そのくらいはしてくれないと。 君のいない世界はまるで霧がかかったかのようで。 どんな標も見えはしない――…。 君 は 里 き 五 霧 な 世 界 中 君は知らないかもしれないけれど。 君を忘れるのは私にとって人生最良にして最悪の選択でした。 ......This is the DEAD END.She walks in fog.
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