。二十三歳独身。 職業、フリーアルバイター。 現在地、骨董アパート3階、石凪・闇口兄妹の部屋。 現在、君のいないこの場所で、君の不在を知らされています。 十月も中旬に入って数日。 萌太と逢わなくなって、二週間。 今まで逢わなかったのは最長で三週間で。 それよりは一週間も短いけれど。 そろそろ心が乾いてきた、そんなある日。 病院を退院してきたいーさんが、私の事を尋ねてきた。 すでに電話である程度の用件は告げられていたので、私はあっさりとそれに応じた。 なんでも、二人の不在について私に言いたい事があるらしい。 ならば、と私は管理人代理の権限を濫用して、その話の舞台に二人の部屋を指定した。 そろそろ、掃除をしなきゃなーと思ってたの。 だって、家って人が住まなくなると途端に痛んでくるものじゃない? だから、もう彼女ではないけれど。 アパートの管理人代理として、掃除をしなきゃなって。 そして、掃除がひと段落してきた頃、時間ぴったりにいーさんは萌太たちの部屋にやってきた。 それで言ったの。 ――萌太くんは死にました。 そんな、馬鹿みたいな一言を。 「さん、本当に萌太くんはもういないんです」 そう告げたいーさんは、珍しくも痛みに耐えているかのように表情を歪めていた。 嗚呼、この人も最近は表情豊かになってきたなぁ……。 アパートに来たばかりの頃は、本当に表情が動かなかったのに。 生きているか死んでいるか分からない眼だなんて思って、失礼だったかもしれない。 でも。 「もう、いーさんったら。私知ってますよ?」 それとその話を受け入れるかどうかっていうのは、別次元のお話で。 だから、私は彼の言葉を拒絶する。 「いーさんって『戯言遣い』って呼ばれてるんでしょう? 確か、『舌先三寸口八丁――。立てば嘘吐き座れば詐欺師歩く姿は脆道主義』でしたっけ? そんな人の言葉を真に受ける訳がないじゃないですかー。 あ、もちろん、いーさんが人を騙してお金儲けしてるとかそんな風には思ってませんよ」 ぺらぺらとよくもまぁ、舌が回る。 自分の事ながら、いや自分の事だからこそ、頭の回っていないこの状態でここまで言えるのにいっそ呆れる。 しかし。 口が回るというなら、まさに目の前の彼の方が一枚上手で。 「さん」 私の空言など。 「本当は、もう理解してるんじゃあ、ありませんか?」 彼の戯言の前には通用しない。 「出かける前に、僕は萌太くんと話をしました。貴女との事はどうする気かと。 五体満足で戻ってこれる保障のない、旅路でしたから。 そうしたら、萌太くんはこう言ったんです。『姉とは別れて来ました』って。 何をどう言って別れたのか、詳しい事は僕も聞いていません。 でも、萌太くんは貴女に対して自分が戻れなくなる事を言って行ったんじゃありませんか」 止めて。 「萌太くんの事です。貴女を傷つけたくなくて、でも、貴女と別れる事は貴女を傷つけてしまう。 そんな葛藤をした上で出した答えに、抜かりなんてあるはずがない」 やめて。 「直接的でないにしても、貴女に対してだけは言っていったはずです」 ヤメテ。 「自分がもう戻らない可能性を」 「やめてっ!!」 悲鳴のような叫びが、思わず喉から漏れた。 そんな淡々とした口調で、なんて事を言う人なんだろうと思う。 萌太が?死んだ? 抜かりのないあの子の事だから、自分がそうなる事を暗に告げて言ったはず? 何よ、それ。何なの? 萌太は確かに、貴方の周りで起こったトラブルの為に出かけて行って、まだ戻らないよ。 崩子ちゃんといーさんと三人で出て行ったのに、まだ戻っていないよ。 でも、何で死んじゃったなんて言うの? 私は、そんなの見てないのに。 萌太が死んじゃったなんて証拠、見てもないのに。 分かってる?人一人が居なくなる事ってすっごい一大事なんだよ? 足し算引き算で考えられる事じゃ、ないんだよ? 「簡単に言わないでよっ!」 気持ち悪いきもちわるいキモチワルイ! 「萌太が死んだ!?一体どこでどんな風に死んだって言うの? だったら、警察が来るなり、遺体の確認をするなりするはずじゃない! どこに萌太の遺体があるっていうの?ねぇ、どこ? 口で『死んだ』なんて聞かされるだけで、誰もがそれを受け入れられるなんて思わないで! 私は他の人みたいに、察しも良くないし、聞き分けだってよくないのよ!!」 薄い壁だ。きっとこんな風に騒いでいたら、誰かが来てしまう。 けれど、止まらなかった。 来たいのなら来れば良い。 そうしたら、私は貴方たちの不自然さを声高に叫ぶだけだ。 「大体、変な人に目を付けられたって何なのよ! 人が死んじゃうようなゴタゴタって一体何なの? どうして警察に頼らないの?どうしてあんな小さな兄妹に頼るの?」 「……それは」 「おかしいじゃない。あんな子供に何ができるっていうのよ。 そりゃあ、萌太も崩子ちゃんも普通の子供より大人びてるし変わってるわよ。 でも、どうしてそれであの子達を巻き込んで良い理由になるのよっ!」 「…………」 いーさんは、それに対して答えない。 答えられなかったのかも、しれない。 でも。 例え、萌太や崩子ちゃんが望んでいーさんについて行ったのだとしても。 巻き込んだのは、貴方なんでしょう? だったら、私は貴方を詰る。 資格があるとかそんなんじゃない。 でも、責めを任される義務が、貴方にはあるでしょう。 「……すみません」 「謝って済む事じゃないでしょう!? 萌太はどこなの!崩子ちゃんは!?どうして!どうしてっ!」 どうして、私だけが蚊帳の外なの。 この人を責めて済む問題じゃない。 この人を責めて萌太に逢える訳でもない。 分かってるけれど。 理不尽だと思う。 いつだって、私だけが除け者。ひとりぼっち。 知ったからって何ができる訳でもない。 でも、だからって。 何も知らされないなんて、耐えられない。 耐えたくなんて、ない。 「…………」 そして、長い間、ただただ私の言葉に耐えていたいーさんは。 私が口を閉ざした瞬間を見計らって、口を開いた。 「萌太くんは……電車に引かれて死にました」 「…………っ」 「さん以外の人には、もう伝えてあります。 でも、さんにだけはぼくが伝えないといけないと思って。こうしてお時間を取って頂きました」 絶句した私に、しかし、いーさんは言葉を続けた。 ゴタゴタにひと段落ついて、帰る道すがら。 線路に落ちそうになった崩子ちゃんを庇って、代わりに落ちたのだと。 ……愛する妹を守って、笑って死んだのだと。 「……じゃあ、萌太の身体は」 「さんは見ない方が良いでしょうね。ぼくでさえ、見たいものではありませんでしたから」 その一言に。 私の身体は勝手に反応して。 ぱんっ 力の限りいーさんの頬を張っていた。 「……萌太に」 「……はい」 「約束してたの。帰ってきたら一発殴らせろって」 「……はい」 「なんだか、それは無理そうだから叩いてみたの。文句ある?」 「いえ……」 貴女にはぼくを詰る権利がある。 しかし、その言葉を言い終わる前に、私は再度彼の頬を叩いていた。 右と左。 往復ビンタの完成だ。 「くだらない事言わないで。 萌太が死んだのは自分のせいだとでも言いたいんでしょうけどね。 私がいる限り絶対に、そんな事言わせないわよ」 萌太を、貴方の犠牲になった可哀想な人にしないで。 萌太を、運命の被害者みたいに扱ったりしないで。 「萌太はいつだって『家族』が大切だって言っていた。 だから、それを守ろうとしたって、それだけ。自分の意思で。自分で考えてやった事なの。 誰に強制されたわけでもなく。貴方に強請されたわけでもない」 「ええ……そう、ですね」 ほんの束の間、いーさんは瞼を伏せた。 それは何かを思い出そうとするかのようであり。 誰かに黙祷を捧げる神父のように、静謐な動作だった。 その殊勝な態度を見たからといって、許すわけなんてないのだけれど。 けれど、ほんの少し、彼の頬を叩いた手が、痛んだ。 「貴方はただ……」 ごめんね、いーさん。 私は貴方から『逃げ』を奪う。 「萌太が守ろうとしたものを、命懸けで守り抜けば良いのよ」 「もちろん、そのつもりです」 「分かってるの?その『家族』には自分も含まれてるって事に。 細かい事情なんて知らないけれど。でも、死んだりしたら許さない」 貴方にとっては、生きていく事こそが償いなのよ。 そう言い捨てて、私はその場をあとにした。 いーさんは、そんな私を引き止めなかった。 それからの事は、正直覚えていない。 骨董アパートを出て。 ひたすらに郊外を目指して足を進めて。 気付けば、人っ子ひとりもいない、寂れた場所に出ていた。 周りには畑や田んぼばかり。 秋の虫がすでに鳴いていて、辺りはもう、暗い夜へと向かっていた。 「何、やってんだろ。私……」 ぽつりと、独り呟いた。 いーさんにしたのは、八つ当たりだ。 でも。 分かっていてもどうしようもなくて。 きっと、萌太が見ていたなら『止めて下さい、姉』なんて言って止めたに違いないと思う。 そう。 萌太が見ていたならば。 「……もえ……た……」 そう思ってしまうと。 「もえ……」 もう、気持ちが溢れてきて。 止まらなくて。 さっきまでの自分でさえも、冷静な部分があったんだな、と思えた。 だって。 独りで。 冷静さを強いる必要のない、この場所に来たら。 言葉など出てこない。 「も……え………」 わざわざ言われるまでもなく、萌太がもう私の所には帰ってこないんだろうな、と思っていた。 崩子ちゃんといーさんだけが帰ってきたのを知って、そう理解した。 だから、いーさんのお見舞いにも。 みい子さんのお見舞いにも。 崩子ちゃんのお見舞いにすら行かなかった。 「た……」 君にとって『家族』がどれだけ大切かなんて分かっていた。 「もえた……」 君にとっての一番が『家族』なのだと、知っていた。 「萌太……」 みい子さんも崩子ちゃんもいーさんも、皆守りたかったんでしょう? 「――――――――っ」 大事な大事な『家族』を、その手で。 でも。 それでも私は。 「萌太ああああああああああああああああああー!」 『家族』よりも『私との未来』を選んで欲しかったのに。 「ああああああああああああああああああああー!!」 本能をむき出しにした激しく長い私の嘆きは。 神様にだって届かない。 死神にだけは届けば良いのに。
|