++++++++++++++++++++++ 騒がしい夏・幕間 中編 ++++++++++++++++++++++ 『試験』と名の付くものは、入試だろうと学期末毎のものだろうと、総じて緊張するもんである。 シン―――、と静まり返った大教室の中。 カリカリとシャーペンを走らせる音。 カチカチと秒針が時を刻む音。 空調の音。 誰かが身じろぎする気配。 ギシッと椅子が音を立てる。 パラリと用紙を捲る音。 自分の解答用紙の空白を埋めることに集中しているつもりなのだが、余りにも静か過ぎて些細な音が耳につく。 粗方埋め終えた解答用紙を眺め、は軽く息を吐いた。 手元の腕時計を見ると、試験の終了時間まで大分間がある。 終わったらチャイムを待たずに抜けても構わないのだから、早めに切り上げて図書館へ行こう。 入学早々長期延滞などしてしまったせいで、は読みたい本があってもペナルティを科せられてしまっていて借りることが出来ない。 ――よし。後もう一息。 問題用紙の最後の問いと向き直り、は再びシャーペンを握り直した。 解答用紙を提出して、大教室を出て。 別段、急ぐ理由も無いのに廊下を早足で通り過ぎて外に出た。 得も言われぬ開放感に、伸びをすると声が出てしまった。 思わず周囲をきょろきょろと見てしまったが、幸い、半ば夏休みに入っている構内はいつもより人気が無い。 ほうっ、と息を吐いて歩き出す。 行き先は第二図書館。 と悟空との待ち合わせまで、作った空き時間に何を読もうかと考えながら歩いていると、視界の隅をきらりと光る何かがよぎった。 ――玄奘先輩? 目を向けると、男性だろうか。 白いシャツの長身の背中を豊かに流れる金色の長い髪の後姿があった。 「…何だ。違うじゃん」 とはいえ、三蔵に勝るとも劣らない見事な金糸の持ち主だ。 見間違えるのも無理はない。 「あれ?ちゃんじゃん」 響きのいい低音。 誰だろうと振り向くと、日焼けした逞しい肢体を惜しげもなく晒したランニングシャツにジーパン姿の深紅の青年がこちらに向かって歩いて来る。 しなやかな長い腕を上げて今日は縛っていない、風に泳ぐ長髪を掻き上げて笑う。 「よぉ」 「こんにちは、さん」 「こんにちは、悟浄先輩。八戒先輩」 悟浄の後ろから歩いてくる、翡翠の瞳に柔らかな笑みを湛える青年にもはペコリと頭を下げた。 今までは、数えられる程しか彼等の姿など見たことがなかったというのに、昨夜の今日とは、何という偶然だろうか。 「ドコ行くの?」 と目線の高さを合わせるように上半身を折り曲げ、笑みを含んだ切れ長の瞳が覗き込んでくる。 「第二図書館です」 「第二図書館ー!?」 悟浄の素っ頓狂な声に、は小首を傾げつつにっこりと頷く。 「って、アソコは古臭ぇモンばっかなんだぜ?な〜にしに行くのよ?」 片眉を持ち上げる悟浄は、ふと何かに気付いたように顔をしかめた。 「もしかして、クソぼーずントコ?」 何でそんなに嫌そうな顔をされるのかわからないは、訝しげに眉を顰める。 「は?クソぼーずさんって、どなたなんですか?私はただ、本を読みに行くだけですけど」 の発言に、今度は悟浄が訝しげな表情になり、傍らに立つ八戒と顔を見合わせた。 暫しの沈黙。 「…もしかして、さんって三蔵の本職をご存じないんですか?」 「んだよ。猿も三蔵もちゃんに話してなかったのかよ」 八戒にはまじまじと凝視され、悟浄は呆れたように空を仰ぐ。 はきょとん、とした顔で素直に「はい」と頷いた。 「まあ、あの人達らしいですけどね」 優しげな面立ちに微苦笑を浮かべ、八戒がに優しく問う。 「知りたいですか?」 穏やかな口調は、とても静かで、改めて聞かれたは戸惑う。 動揺する自分に対する戸惑いを隠して首を傾ける。 「どうして、ですか?」 てっきり、が素直に『はい』と頷くと思っていた八戒と悟浄は目を丸くして、また、顔を見合わせてしまった。 二人に意外そうな表情をされて、はじーっと長身の二人を見上げる。 細いフレームの中で瞬くの薄茶の猫目は、純粋な疑問をしか宿していないように見えた。 八戒がかけた鎌はどうやら半分失敗してしまったようだ。 『興味津々という顔をしていたから』 そう、一言、言ってやればいい。 惚けたつもりでいる可愛らしい彼女は、そうしなければならない自身の気持ちの正体にどこまで気付いているのやら。 ちょっと吊り気味の子猫のようなその瞳が、誰を追いかけて、誰を映そうとしているのか。 どうやらまだ無自覚らしい少女に、そうと教えてやるほど、この二人の青年はお人好しではない。 「クソぼーずってのは三蔵のコト」 深紅の双眸に浮かぶ、愉快そうな笑み。 翡翠の双眸も、クスリと笑う。 「よく悟空があの人に向かって噛み付いているでしょう?『クソぼーず』って」 「そういえば………」 悟空と三蔵の軽快な怒鳴り合いの中で、そんな単語も飛び交っていたような気がするである。 それにしても、悟浄や悟空なら兎も角、いかにも上品な八戒の口から出てくると物凄い違和感を感じるし、より下品に聞こえる。 「でも、どうして玄奘先輩がそこで出てくるんですか?」 そんな内心の感想はさておいて、不思議に思ったことのみを口にしたに、八戒が今度はきちんと教えてくれた。 「三蔵と僕は、偶に第二図書館で司書のバイトをしてるんですよ」 「ああ、それで」 初めて構内で三蔵と言葉を交わした時のことを思い出す。 あの時、は彼に本の返却手続きをして貰ったのだ。 「公になったら何かと拙いんで、ここだけの話しにして下さいね」 声を潜めて、八戒は長い人差し指を己の唇に押し当て、しーっというジェスチャーをする。 悪戯っぽく笑んだ翡翠の双眸が、間近でを覗き込む。 額がくっつく寸前まで近付いて留まった端麗な顔。 「僕等だけの秘密ってコトで、ね?」 にっこりと微笑まれて、は彼の子供っぽい仕草と表情に吹き出してしまった。 「あはは。わかりました。内緒、なのですね!」 クスクスと八戒と笑い合いながら、ふとは思う。 昨日、一緒に帰っていった八戒とは、あの後どうだったのだろう。 が見る限りでは、二人はイイ感じだったように思える。 ――と八戒先輩が付き合うようになっちゃったら、もう、しょっちゅう一緒に遊べないのかもしれないなぁ。 一番の親友と呼べる友人が、想う人と結ばれるならこんなに嬉しいことはない。 昨夜の彼女は、本当に綺麗で可愛くて楽しそうで。 と居る時とは全然違う顔をしていたから、少しだけ焼き餅を焼いてしまった。 きっと、ああいうのを恋愛小説なんかに書いてある『恋する女の顔』というのだと思う。 二人が上手くいくといい。 には少し、寂しいことだけれど。 「もしも〜し、お二人さん?いつまでイチャついてンの」 後ろから降ってきた低い声に、が振り返るより先に背後から回された長い腕に腰を攫われた。 肩越しに、覆い被さるように身を屈めた深紅の双眸と目が合う。 同色の長い髪が一房、前に流れてTシャツから伸びるの腕を擽る。 「イチャついてなんていませんよ〜」 不機嫌そうに片目を眇めた悟浄は何だか拗ねているように見えて、は笑いを堪えるのに苦労する。 彼女の正面では、八戒が軽く握った拳を口元に当てて遠慮なく肩を震わせていた。 「僕達も丁度第二図書館に行くところだったんですよ」 「じゃあ、一緒に行きましょうか?ね、悟浄先輩!」 は彼の腕の中から抜け出し、向かい合って笑いかける。 「そぉーね」 こんなに無邪気な笑顔を見せられてしまっては、苦笑するしかない。 お返しとばかりに、前を歩き出したの肩に腕を伸ばして傍らに抱き寄せた。 「きゃ…」 少々強引だったせいでよろけたが小さく声を上げて悟浄のシャツに縋る。 「一緒にイこうぜ、ちゃん」 耳朶に唇を寄せ、吐息に乗せて囁きを流し込むとボンッとの顔が真っ赤になった。 「〜〜〜っ」 クックと意地悪く笑う悟浄をは恨めしげに睨む。 「貴方って人は…子供ですか?」 煉瓦造りの建物の前で、八戒が呆れてこれ見よがしに溜息を吐いた。 「此処はラブホテルじゃねぇぞ」 悟浄に肩を抱かれ、八戒に手を引かれて。 両手に華、状態で館内に入ったを迎えたのは、不機嫌そうでいて、どこか面白がるような響きのある口調だった。 男性にしては高く、女性にしては少々ドスの効いた声。 受付のカウンターの向こうで、腕組みしてこちらを軽く睨んでいる女性が居る。 紅をひいた鮮やかな唇の片端が吊りあがっていた。 その皮肉気な笑い方も。 明け透けな物言いも。 乱雑な口調も。 どこか、覚えがあるような気がして、は声を掛けてきた女性を凝視した。 緩くウェーブのかかった豊かな長い黒髪をポニーテールにした、妙齢の大層な美女だった。 胸元が大きく開いたデザインの白いスーツを難なく着こなすスタイルの良さに、何となく圧倒される。 「そんな事はわかってますよ」 には赤面モノの女性の台詞を、八戒が爽やかな笑顔で受け流す。 「上でもヤるなよ?」 ニヤリ、という表現がぴったりくる不敵でいて妖艶な笑みだ。 「何をですか?」 ピシリ、と固まる三人。 三人分の驚愕に満ちた視線を受けて、の方が驚く。 自分は、何か変な事を言ったのだろうか? きょとっとしたの顔。 「………本気…で聞いてるんですよね?」 念の為、確認する八戒。 コクン、と頷く。 「へぇ…そぉなんだ」 低く呟いた悟浄の眼が薄く細まる。 「なんなら、俺がオシエテアゲルけど?」 の肩を抱く腕にグッと力が込められ、は半ば悟浄と向かい合う格好にされた。 「え、本当ですか?」 悟浄の胸元から、は笑みに細まる深い紅の双眸を振り仰ぐ。 期待するようなの視線に、悟浄は笑みを深くした。 「もっちろん」 「何をしてはいけないんですか?」 の耳に、悟浄の薄い唇が触れる。 「あーんなコトや、こぉんなコト」 元々低い声が更に低まり、少し掠れた声と熱い息がの耳を擽る。 「ソファーの上で手取り足取り、ちゃんが満足するまでたぁっぷり、教えてやるよ」 悟浄に耳朶を軽く噛まれて、の思考は停止した。 「――」 悟浄を見上げた格好で硬直してしまった。 「あれ?ちゃん?おーい」 呆れ顔の八戒が、悟浄の腕からの躯を奪い取り、にっこり。 「彼女、貴方の様な人種には免疫がないんですよ」 「わーってるって、ンなこたぁ。俺を誰だと思ってンのよ?」 「だったら、二度としないで下さいね」 にっこり。 悟浄は凍える翡翠の双眸から逃げるように視線を天井に彷徨わせ、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。 「天然記念物並みのネンネだな」 一連の遣り取りを面白そうに眺めていた彼女が、うそぶいた。 パンッ。 眼前で爆ぜた景気のいい音に、はビクッと身を震わせた。 「あ………」 「戻ったか?」 中性的な声がの耳を打つ。 ゆっくりと瞬きを繰り返すの視界に、心底呆れきった紫暗の瞳が映った。 「えっ」 大きく眼を見開く。 「どうした?」 の正面で訝しげに柳眉を顰めるのは――女性、だ。 八戒と悟浄と顔見知りらしい、先程の女性。 カウンターの中から出てきて机の上に腰掛け、太股の辺りまであるタイトスカートのスリットを気にも留めず脚線美を披露し、長い足を高々と組んでいる。 近くでよくよく見ると、女性の瞳は漆黒ではなく、深い紫色だった。 ――玄奘先輩に、似てる………。 どうりで見覚えがある筈だ。 性別の違いはあれど、目の前の女性と三蔵の顔立ちは良く似ている。 「いえ。ちょっと、貴女が知っている人に良く似ていたもので…」 幾ら三蔵が美形でも、女である彼女が男に似ていると言われては流石にいい気はしないだろう。 そう思って言葉を濁したを、彼女は鼻で笑った。 「フン。玄奘三蔵にか?」 心底驚いた顔をしたを一瞥して、彼女はつまらなそうに言う。 「図星か」 三蔵のように眉間に皺こそ寄っていないが、不機嫌そうな様子に、は慌てて頭を下げた。 「すいませんっ。あの、男性に似てるなんて…。でも、少しですからっ。髪の色とかは違うんですけど、その、眼の色とか、雰囲気とか、言葉遣いとか…」 焦るあまり、余計な事まで口走ってしまっていることには気付いていない。 「それだけですからっ」 勢い良く捲くし立てたに、彼女はクツクツと笑った。 「それだけ似てりゃあ充分だろうが」 「うっ…そうですね」 しゅんと項垂れてしまったの頭上で、また、彼女が笑う気配。 「遠縁とはいえ一応親戚だからな。似てて当然なんだよ」 顔を上げな。 言われて顔を上げたをじっと見据え、紫暗の双眸が柔らかく細まった。 「玄奘先輩の親戚の方だったんですか」 思ったより気分を害しては居なさそうな相手に、の顔に笑顔が戻る。 「一応な」 彼女の短く簡潔な物言いは、やはりどこか三蔵を髣髴とさせる。 尤も、この女性の方が彼より遥かに年上のようだから、三蔵が彼女に似ている、と言うべきなのかもしれないが。 三蔵が聞いたら眉間に皺、どころではなく青筋立てて怒ること間違いなしのことを、は彼女を見つめながらぼんやりと思っていた。 「お前が、アイツが珍しく相手してる女か」 から視線を外さぬまま、ゆっくりと彼女は呟くように言った。 「まあ、小猿が懐いてんだ、無理ねぇな」 独り語ちて、楽しそうに笑う。 「悟空のことも、ご存知なんですか?」 彼女の言う『小猿』が悟空のことだとすぐに気付いた。 悟空がこの場に居たら、目くじら立てて怒ったに違いない。 三蔵や悟浄にそう言われる度に一々噛み付く悟空を思い出して、は少し可笑しくなる。 物静かな三蔵は勿論、彼等一人一人ならそれ程騒がしくないのに、三人揃うと途端に賑やか過ぎるほどの喧騒が巻き起こる。 それを収められるのは、の知る所では八戒ただ一人。 ちょっと見で全くタイプが違うとわかる四人なのに、案外上手く噛み合ってしまっているから不思議だと思う。 悟空以外とは数えるほどしか顔を合わせていないにも拘らず、はいつの間にか彼等に馴染み始めていた。 「元保護者。今は後見人だ」 「そうだったんですか」 は悟空とはそろそろ二年になる付き合いだが、考えてみれば悟空自身の生い立ちに関しては余り良く知らない。 三蔵と一緒に住んでいて、八戒とも知り合いで。 悟浄とも知り合いだったということは、昨日初めて知った。 悟空は隠し事を進んでするタイプではないから、聞けば答えてくれたのだろうが、の方が聞くことをしなかったのだ。 遠慮、というのとは少し違う。 興味が無いという訳でもなく、単に気にしていなかった。 「では、玄奘先輩と悟空が一緒に住むようになったのは、貴女が――」 の言葉を、彼女は片手を上げて押し留めた。 「その辺の経緯は本人から聞け。俺が一々説明するのは面倒臭ぇ」 台詞通り面倒臭そうな表情を浮かべ、彼女は足を組み替えた。 タイトスカートの生地が滑り、深く入ったスリットが割れる。 切れ込みから覗く白い肌は艶かしいが、細い足は女性にしてはやや筋肉質で過度の媚を感じさせない。 声が低いせいもあるのだろうが、彼女が使う分には"俺"という一人称も不思議と違和感がない。 素直に頷いて黙ったを、彼女は興味深げに眺める。 「アイツは、ああ見えて責任感が強い性質でな。てめぇの養い子の"お気に入り"がどんな女か、確かめるつもりもあったんだろうが。 昨日、アイツの口から花火大会なんぞに行くと聞いた時にはどういう風の吹き回しかと酷く驚かされたよ」 乱暴な言い草だが、紫暗の瞳に浮かぶ微笑は穏やかで優しい。 だが、その内容はを少しばかり落胆させた。 買い物も花火大会も彼は、あくまで悟空に付き添う形で来たのに過ぎなかったのだ、と。 「玄奘先輩って、花火お嫌いなんですか?そうは見えなかったんですけど…」 の言葉に、彼女は微かに眼を瞠る。 「ほぉ。ってことは、それなりに楽しんでたってことか」 「多分………」 自信無く曖昧に笑う。 「ココに、皺が寄ってませんでしたから」 が眼鏡の上の額を指で示すと、彼女はクックと笑った。 「そいつは偉く傑作だな。さては…ミイラ取りがミイラにでもなったか」 笑いを含んだ声も眇められた紫暗も酷く楽しげだ。 「それは、どういう意味ですか?」 が聞くと、彼女は「ん?」と片眉を上げる。 それもまた、にとっては三蔵を思わせる表情。 彼女の瞳の色は、三蔵よりも少し暗く黒に近い深い紫で、覗き込んだら吸い込まれそうな錯覚を覚える。 その瞳でじっと見据えられると、落ち着かない気分になる。 「自分で考えな」 僅かな沈黙の後、彼女は短くを突き放した。 けれど、秀麗な美貌に浮かぶ微笑は暖かく、子供を見守る母親のような慈愛に満ちていた。 はそれ以上聞くことが出来ず、ただ黙って頷いた。 謎掛けのような言葉の意味も、最後の一言の重みも、理解しないままに。
presented by ......羽柴あおい様(2004.11/25) |