不意に右手の指先に触れた感触に、三蔵は微かに眉を寄せた。 視線をやってみれば、両足を横に流して所謂女座りをして悟空に身を寄せているが、左手を彼の背後に着いている。 悪友、と呼べなくもない男の面白くもない軽口に付き合って、これ以上余計な事を口走る前に煙草を銜えた。 は、三蔵の手に触れていることなど全く気にも留めぬ様子で悟空に綿飴を強請っている。 ―― ………。 人懐こい養い子が時折口にする少女の名は、自分が留学している間彼を預かって貰っていた従兄弟の青年は「耳にタコが出来るぐらい聞かされた」と言う。 悟空は、学校や部活、バイト先であった出来事、悪友達との他愛もない日常を聞いてもいないのに自分に話して聞かせる。 自分と違い、人懐っこく、屈託のない明朗闊達な少年の交友範囲は実に広い。 けれど不思議なことに、話に出てくる少女の名は一つだけ。 だが、三蔵にとってみればそれだけの名だった。 三蔵が留学する前、雨の日に悟空に頼まれて車で自宅に送り届けてやった少女。 顔を合わせたのは、その一度きり。 悟空にとってもその少女との出会いとなった出来事は、三蔵の記憶の中にすぐに埋没してしまった。 帰国して休学していた大学に復学してすぐの四月、悪友どもに引っ張り込まれて所属したサークルの新歓コンパに騙まし討ちの様にして参加させられた。 其処で見つけた見覚えのある顔。 三蔵がその少女を見つけることが出来たのは、傍に居た、少女と呼ぶのが憚られるほど大人びた、人目を惹く美人の女性のせいだった。 手元に置かれた中ジョッキには殆ど口がつけられておらず、注ぎに来る人間を全て断り、料理ばかりを口に運ぶ少女は酔いに任せて騒ぐ連中から明らかに浮いていた。 その少女と、悟空が時折口にしていた『 』という名が結びついたのはそれから三ヶ月も後。 つい、最近のことだった。 ++++++++++++++++++++++ 騒がしい夏・幕間 前編 ++++++++++++++++++++++ 引っ切り無しに打ち上がっていた花火が止み、辺りが暗闇に包まれた一瞬。 重なっていただけのの手が、暗闇に怯えるように三蔵の指をぎゅっと握り締めてきた。 三蔵の紫暗がすっと横に流れ、己の指に絡んだ細い指から浴衣に包まれる腕を辿って悟空に向いている彼女の横顔に行き着いた。 は悟空と笑顔で会話を交わしている。 悟空はの右手を引き寄せ、大切なものを扱うかのように両手で綿飴の棒ごと彼女の白い手を包み込んだ。 まだ目が薄闇に慣れないのか、微妙に焦点が合っていない眼差しで微笑んだの顔に、驚愕が浮かぶ。 「…えっ!?」 小さく声を上げる。 薄茶の猫目が大きく瞠られ、次いで強く細められた。 「?どうかしたのか?」 悟空が怪訝そうに首を傾げ、瞬きを繰り返すを覗き込む。 「あ…うん…」 の視線が泳ぎ、悟空の肩越し、三蔵の紫暗とぶつかった。 決して明るくはない深い紫は、薄闇の中、漆黒にも似て。 ぼんやりと見える口元にある煙草の白が動く。 ぴくり、との指が震えた。 「悟浄。火ぃ貸せ」 四人の一番右端に座る悟浄が、面倒臭そうに左端の三蔵を横目で捉える。 「あぁ。ほらよ」 悟浄の手から鈍色の塊が放たれ、大きく弧を描いた。 ドン、ドン、ドン、ドドン―――― 花火の連打が大気を震わせ、バチバチと眩い光が散った。 思わず頭上を振り仰いだと悟空を超えて、山なりに宙を飛ぶジッポーがキラリと光を弾き、 紫暗を眇めた三蔵の左手を擦り抜けて胡坐を掻いた浴衣の膝の上に落ちた。 チッ、と舌打ちを一つ。 「うわー、すごーいっ!!」 「すっげぇな…」 と悟空が歓声を上げる。 三蔵は膝の上からジッポーを拾い上げて銜えていた煙草に火を点けた。 フィナーレに相応しく、色取り取りの花火が次々と上がり、爆音と共に漆黒の夜空に様々な色を添える。 途切れることなく、惜しみなく、連発でどんどん花火が打ち上げられていく。 先程までの薄暗さと一変して真昼のような明るさに包まれる屋上。 「綺麗だねぇ」 うっとりと細められた淡い茶色の瞳に、夜空の光輪が映り込んでいた。 薄化粧の横顔、白い頬が花火に映える。 グロスの艶を纏ったふっくらとした唇が、笑みの形に綻んでいる。 「おっ、おう。きれーだな」 悟空が立ち上がり、前にある転落防止の柵まで行って両手を着いて背を反らし、空に向かって大きく身を乗り出した。 「た〜まやーっ」 お決まりの掛け声を上げる悟空に、がクスクスと笑う。 「か〜ぎやーっ」 の笑い声を聞いた悟空が更に戯ける。 「悟空。玉屋と鍵屋はライバルなんだよー。だから、両方言うのはおかしいよ」 笑みを含んだの声はとても楽しそうだ。 「そっか。んじゃ、た〜まやー!!」 また叫ぶ悟空に、もまた、クスクス、クスクスと笑い声を上げる。 笑って、身じろいだ拍子に、左手が引っ張られたような感覚がして、は自分の状況を思い出した。 「あ………」 悟空が席を立ってしまって、広くなった左脇。 打ち上がる花火の灯りに照らし出された自分の左手が握るのは、濃紺の絣の浴衣の袖から伸びた、男性にしては細い、けれど節くれだった白い指だった。 の上げた声は小さく、花火の爆音に掻き消されてしまうほどのものだったにも拘らず、濃紺の浴衣に身を包んだ三蔵はすっと視線だけを夜空からに向ける。 華やかな金糸の下から鮮やかな紫暗がを射抜いた。 パッ、とは放り出すように三蔵の指を離した。 三蔵は、そのままの姿勢で、また夜空へと視線を戻した。 何も語らない横顔に、ホッと胸を撫で下ろす。 何も言ってくれない横顔に、寂しいと思う。 ドォ―――ン。 腹に響く爆音にバチバチバチッと激しい音が重なり、の視界の端を、彼の髪と同じ色の光の糸が連なって、滝のように流れ落ちる様がよぎった。 「うわっ、ナイアガラだ!」 凄ぇ凄ぇ、と無邪気に連呼する悟空の声が聞こえた。 先程まで花火が打ち上がっていた位置から少し下、川面のすぐ上の辺りから水面に向かって、金色の光の雫がバチバチと音を立てて流れる。 「………最後、なのかなぁ」 思わず漏らしてしまった呟きは、が自分で思うよりも酷く寂しげに聞こえてしまって、焦った。 「綺麗ですね!凄くっ」 本音の後のその言葉は、心からの感想なのに、どこか白々しい。 「寂しい?」 の内心を見透かしたような悟浄の言葉に、の口元に苦い笑みが浮かぶ。 「…少し」 「俺はとぉ〜っても寂しいけどな」 ストレートな言葉に、が右隣を見ると、悟浄は名残惜しむように夜空をじっと眺めていた。 「もう少し、ちゃんとこーしてたかったな」 悟浄がこちらを振り返る気配がして、は慌てて花火を見上げる。 擦れ違った視線に、悟浄はひっそりと笑った。 「ちゃん」 「…なんですか?」 音は止み、静寂が訪れる。 夜空の灯りは消えてしまった。 花は散り終えた。 「降りましょうか」 悟浄の言葉をが聞く前に、八戒が素っ気無いほどにあっさりと今夜の集まりの解散への合図を口にした。 エレベーターホールの人工的な青白い照明に、暗がりに慣れた目を細める。 ビルを出れば、其処にはまだ喧騒が溢れていて、少しだけ安堵する。 足元までは届かない、提灯や屋台の橙色の灯りにまた、目を細めた。 「これからどうします?」 祭りの後の空気を惜しむの耳には、八戒の声は柔らかなのに酷く硬質なものに響いた。 「あ〜あ。終わっちゃったなー」 両腕を頭の後ろで組んだ悟空が、漆黒の空を見上げて詰まらなそうに呟く。 「終わっちゃったねー」 悟空と並んで頭上を振り仰げば、あれほど近くに感じられた空が今はとても遠い。 来た時とは逆に流れる人ごみ。 早く駅に行かねば、切符を買うことすらままならないだろう。 急がないのなら、人が粗方掃けるまで此処でのんびりしていた方がいい。 悟空の何気ない一言に、キッカケを失った形で佇む六人。 腰の重い面々を動かしたのは、やっぱり翡翠の率無い青年だった。 「僕はさんを送って行きますけど、貴方達はどうします?」 悟空とは顔を見合わせ、三蔵は吸っていた煙草を下駄の底で踏み消した。 口元に煙草を銜えたままの悟浄が、長い腕を伸ばしての肩を攫った。 「俺等はもうちょっとこの辺ブラつくわ」 な?と深紅の双眸に同意を求められ、もう少しだけこの会場に居たいと思っていたはこくりと頷いた。 「え!?」 それにはが酷く驚いた声を上げてを困惑させた。 「じゃ、俺も一緒に行くー」 当然のように名乗りを上げた悟空がの腰を抱き、悟浄から引き離す。 金晴眼と深紅の眼差しが、を挟んで真っ向から交錯する。 八戒の傍らで、が安心したように笑った。 「じゃあね、」 「うん。またね、」 笑い合う二人。 「それじゃ、また。気をつけて帰って下さいね」 にっこりと爽やかな笑顔を残し、八戒はと連れ立って一行から離れた。 「じゃーなー、、八戒!」 「またな、お二人さん」 悟空と悟浄が二人の背中に手を振り、二人は人ごみに紛れながらも肩越しに振り向いて手を振り返してくる。 三蔵はチラリと視線を遣っただけだった。 「気をつけてねー!」 最後にまたが声を張り上げて、手を大きく振って見送った。 「んじゃ、行きますか」 漸く煙草を捨てた悟浄だったが、その足は駅の方角とは反対に向かおうとしている。 悟空とが促されるまま、彼に付いて歩き出そうとした。 「馬鹿言ってんじゃねぇ。ガキどもは帰って寝る時間だ」 仏頂面で三蔵が低く言い放ち、悟空の奥襟を乱暴に引っ掴んだ。 複数形というところに、悟空だけを示して言った訳ではない事に気付き、は自分の草履に目線を落とした。 夜風に揺れるの後れ毛。 「別に今日が今年最後の大会ってワケじゃねぇんだ。花火が見たきゃ、これから幾らでも機会はあるだろうが」 焦れたような乱暴な物言い。 それが、この男なりの気遣いであることを男達は知っていながら、敢えてそれを口にしなかった。 「大〜丈夫だって。ちゃんはちゃあんと俺が責任もって家まで送るからさ」 三蔵の眉間に皺が寄ったが、悟浄は鼻で笑った。 不敵な笑みを浮かべる深紅の青年に、三蔵は大きな溜息を一つ。 何の感慨も無い一瞥を悟浄とに向けただけで、三蔵は悟空を引き摺るようにして踵を返した。 「帰るぞ、悟空」 「え"ーっ」 有無を言わせぬ力で引っ張られ、じたばたと悪足掻きをしていた悟空だったが。 「行こうぜ、ちゃん」 「はい」 何の疑問も持たず、素直に悟浄に付いて行こうとするの姿を目にし、ぎりっと奥歯を噛んだ。 「ああ、もうっ。三蔵のバカっ、とーへんぼく!!」 切羽詰った悟空の叫び声に、は振り返ろうとしたが、悟浄の腕がそれを阻んだ。 「あの…」 「ん?」 悟浄に肩を抱かれるのは、何だか落ち着かない。 それをが口にする前に、小柄な小豆色の塊が長身の悟浄の背中に飛び付いた。 「ちょっと待った!!」 ひょこっと悟浄の肩越しに顔を出したのは悟空。 「てめっ、重てぇんだよ!降りろ、猿!」 「!ちょっとこっち来て」 悟浄の禁句にも反応せず、彼の背中から身軽に飛び降りた少年は、珍しく真面目な顔での手を強引に引いた。 「え?ちょっと、悟空!」 悟空に連れられて行くを、悟浄も三蔵も呆れ顔で見るばかりで追いかけようとはしない。 「なぁによ、小猿ちゃんってばムキになっちゃって。まるで毛を逆立てた小動物みたいよ?」 「自覚がなきゃ、世話ねぇな」 「あぁ?ナニよ、それ」 「わからなきゃそれでいい」 「ふ〜ん」 面白くも無さそうに素晴らしく冷え冷えとした声音を交わし、二人はそれぞれ煙草に火を点けた。 少し離れた場所では、悟空が何やらに一生懸命に話しているようだ。 「どうしたの?悟空」 確かに悟空は多少強引なところのある少年だが、こんな風にの意思を無視することは無い。 少なくとも、今までは無かった。 いつもとは違う雰囲気にが戸惑っていると、悟空はクルリと振り返った。 「隙が有り過ぎんだよ!はっ」 びしっ、と人差し指を突きつけられ、は眉を顰める。 「だから、さっきも変なのに引っ掛かっちまったんじゃねぇか!!」 苛々と怒鳴る悟空。 その剣幕に、はたじろいだ。 「何、怒ってるの?」 の困惑する表情を目にし、悟空は「はあーっ」と大きく息を吐いた。 「あのさあ…。自分が、どんな風に周りから見られてんのか少しは自覚しろって」 何で俺がこんなこと言わなきゃなんねぇんだよー。 悟空はがしがしと頭の後ろを掻く。 「つうかさぁ。と悟浄は今日、会ったばっかじゃんよ?」 「うん」 「なのに、ほいほい付いてっちゃうワケ?」 「え?だって、悟浄先輩は悟空のお友達なんでしょう?さっきの変な人とは違うじゃない」 無邪気に小首を傾げる。 悟空はがっくりと肩を落とした。 「悟空?大丈夫?」 心配そうに覗き込んでくるに、悟空は本気で頭を抱えたくなった。 「だーっ。違うけどっ。違うんだけど、そーじゃないんだってば!」 「何が?」 わかってない。 は、本気でわかってないのだ。 「アイツは、っていうか、アイツに限らず、さっきの変なヤツも含めて男が女と二人っきりになろうとするのは何かしら下心があるんだよっ」 「下心………」 そう、と悟空は大真面目で頷く。 「だから、無闇に男と二人っきりになっちゃダメなの!」 俺にここまで言わせるって、ある意味凄い。 鈍いを通り越して無知と言いたくなってしまう。 うーむ、と考え込んでいるを眺め、コレで少しはわかってくれただろうかと悟空は淡い期待を抱く。 「でも、悟浄先輩に限ってそんなこと…」 「ねぇって?マジでそう思う?」 悟空に真顔で聞き返されて、は否とは即答できなかった。 悟浄という男が纏う色香を思い出したせいだ。 「………」 「………」 何ともいえない空気が、二人の間に流れた。 「ああっ」 唐突にが叫び、驚き仰け反る悟空の肩を掴んだ。 「どうしよう………」 「えっ、なになに!?」 先程までほんのりと赤らんでいたの頬は、今はやや蒼ざめている。 「私、もしかして、家まで悟浄先輩と二人っきりになっちゃうんじゃ…」 「………………もしかしなくても、そうだって」 とは反対に、間近に迫る浴衣姿の彼女に悟空の頬が染まる。 とはいえ、彼の心境は非常に微妙だ。 漸く彼女が抱いてくれた悟浄への危機感は、自分に対しては相も変わらず全く感じられない。 異性として見られていないのだ、と図らずも証明されてしまった形だ。 面白くない。 全くもって、面白くない。 ついつい視界に入ってしまう、浴衣の襟元から覗く白い柔肌から必死に目を逸らしながら、悟空は口をへの字に曲げた。 「ちょっと待ってろよ。…エロ河童には俺から上手く言っとくから」 肩からの両手を離させ、悟空は小豆色の浴衣の裾を翻して遠目にもとっても目立つ二人連れに走り寄っていった。 悟空が二言三言話すと、長身の二人の視線が悟空の頭越しにを見た。 何となく、ペコリとお辞儀をしてしまうである。 すると、何故か悟空と悟浄が喧々囂々のいがみ合いを始める。 流石に今夜は人手が多く賑やかなので、の居る場所まで二人の怒鳴り声は届かない。 だが、悲しいかな。 何となく内容が想像できてしまい、は思わず額に手を当て、背中を向けてしまった。 きっと、今夜も衆目を集めまくっているのに違いない。 三蔵より頭一つ高く、燃え立つような深い紅という珍しい色の髪を持つ悟浄は目立つ男だ。 こうして少し離れて見てみると、それが良くわかる。 彫りの深い精悍な顔立ちや派手な浴衣を無理なく着こなす男振りもまた、彼を周囲から際立たせる一因だ。 には少々度が過ぎるスキンシップや返事に困るような軽口を除けば、素直に格好いいと思える。 手持ち無沙汰で視線だけをぼんやりと人波に向けていると、この短期間のうちにすっかり覚えてしまった低い抑揚の無い声に名を呼ばれた。 「」 ドクン――――と心臓が跳ねた。 「はいっ」 振り向いたの横を濃紺の浴衣姿が擦り抜ける。 擦れ違ってしまった視線を前に戻せば、金糸の髪と広い背中が目に入った。 「帰るぞ」 「はい。…あ、でも、あのっ、お二人は…」 上擦ってしまう声を宥めながら言葉を紡ぐと、素っ気無い一言が返ってきた。 「放っておけ」 「はあ」 スタスタと先を歩いて行ってしまう背中を慌てて追いかけながら、チラリと背後に視線を遣ると深紅の青年と小柄な少年と目が合う。 大柄な彼が小さい彼に背中から羽交い絞めされている。 そのままの格好で、少年がに大きく手を振った。 も笑って手を振り返した。 「、何をしている。行くぞ」 「はーい」 カラコロと、の足元で草履が華やいだ音を奏でた。 人の流れに乗り、駅への道を三蔵と歩く。 が三蔵の少し後ろを歩くのは、上気している頬を自覚しているからだ。 三蔵は、八戒のように手を繋ごうとしないし、悟浄のように肩を抱いてくることもない。 懐手で前を向いて、ただ足を進める。 「暑いですねー」 パタパタと手団扇で顔を扇ぎながらが背中に話しかける。 ――首、細いなぁ。白いし。 夜目だからなのか、浴衣の色が濃色だからなのか。 「花火綺麗でしたね」 祭りの夜独特の橙色の灯りが金色の髪に照り返す様がとても綺麗だ。 「悟空は途中まで食べてばっかりだったけど…」 ああいうのをきっと、花より団子、って言うんですよねー。 クスクスと、話す声に思い出し笑いが混じる。 「私、去年もこの花火大会来たんですけど余りイイ位置で見れなくて」 カラン、コロン、と草履が跳ねる。 男で長身の三蔵ととでは、歩く歩幅が大きく異なる。 自然、距離が開き、それを縮める為に時折小走りになる。 「あんなに近くで打ち上げ花火を見たのって初めてでした!」 弾む声が、少し大きくなる。 興奮交じりに、は話す。 「凄く良く見えて、すぐ傍で、まるで真上から降ってくるみたいで」 漆黒の夜空に咲いた刹那の華を思えば、自然と顔に笑みが浮かぶ。 「ホント、綺麗だったなぁ」 背中を追いかけて、話すのに夢中になって。 草履が何かに突っ掛かったのに気付いた時には既に遅かった。 「わっ」 ぼふっ。 振り返った三蔵の胸板と正面衝突した。 「………。お前の運動神経はどうなってやがんだ?」 腕の中に飛び込んできたを余裕で受け止めた三蔵が、心底呆れきった口調で呟く。 「あはは…」 は引き攣った笑みを浮かべる。 バクバクと心臓が煩い。 「有難う…ございます」 はにかむように微笑んで、は三蔵の腕の中から身を起こした。 彼に助けられたのは何度目だろう。 二度………ああ、とは思い出す。 三度目、だ。 初めて会った日にも確か泥濘に足を取られて転びそうになった。――――すっかり忘れていたが。 ――ん?バイキングに連れてって貰った時のも入れれば四度目だ…。 鈍臭い、のかな?これって。 すっかり火照ってしまった頬を照れ隠しに手団扇で扇ぐ。 「鈍臭ぇのに慣れねぇもん履くからだ」 再び懐手で前を向いてしまう三蔵。 だが、今度は先を行かずにの隣を歩く。 「でも、浴衣ですし」 「それですっ転んでりゃ世話ねぇな」 フン、と鼻で笑われて、は口を尖らせた。 「でもですよ?浴衣にスニーカーとか履いたら滅茶苦茶変じゃないですか」 やっぱり、浴衣には草履でなくちゃ! 風情が台無しだ、とうんうんと自分で言って自分で納得している。 そんなを横目で眺めていた三蔵だったが、ふっと眉を顰めた。 歩調を緩め、僅かに身を後ろに引いての方へと屈み込む。 肩に手を置かれ、うなじを擽るサラサラとした金糸の髪に、ドクン、とまた心臓が騒ぎ出した。 ――柔らかい髪の毛だなぁ。 「玄、奘先輩…?」 ぐっと後ろにかかる力は、三蔵が体重をかけてきたからだろう。 彼がしっかりと肩を押さえていてくれなければ、は間違いなく後ろに引っ繰り返っている。 「わっ!?あ、あのっ………」 すぐに三蔵はから離れ、何事もなかったようにまた歩き出すが、の方はそうはいかない。 「何を………」 心臓がバクバクいっている。 きっと顔は真っ赤だろう。 三蔵が振り返った。 「何をしている」 紫暗の眼差しがを捉える。 「玄奘先輩の方こそ、何を…」 語尾が小さくなって途切れる。 ああ、心臓が煩い。 ちょっと近付いただけなのに。 ちょっと触られただけなのに。 ――八戒先輩や悟浄先輩に比べれば、全然ちょっとなのに。 それなのにどうしてこんなに、身体が震えるほどにドキドキするのだろう。 心の内側を苛む感情に頬を歪めたの表情を、三蔵はどう取ったのか、すっと紫暗を眇めた。 「何を勘違いしている?帯が曲がっていたから直しただけだ」 「………………」 がその言葉を理解するまで、たっぷり数十秒はかかっただろうか。 「へっ…?」 やっと出てきた声は、我ながら間抜けなものだった。 かぁっ、ともうこれ以上は無いというぐらい真っ赤に染まる。 ――はっ、恥ずかしい…。 そんなの反応は、いたく三蔵のお気に召したらしい。 くっ、と形のいい唇の両端が上がり、笑みの形に綺麗なカーブを描いた。 更に細まった片方の瞳。 クツクツと三蔵が、笑った。 いつか目にした有るか無しかの僅かなものではない。 大きく目を見開き、ポカン、とは彼を見上げてしまう。 「置いてくぞ」 笑みの余韻を残した紫暗の双眸は、険のある鋭さが鳴りを潜め、優しくすらあるようにには感じられた。 「待って下さいよー」 慌てて彼の隣に並んで歩き始めながら、いつもそんな風に笑ってくれればいいのに、とこっそり思った。 駅までの道のりは、人ごみのせいで思うように進めなかったのにも拘らず、にはとても短く感じられた。 見え始めた建物に、一抹の寂しさを覚えるも「まだ、電車にも乗るんだし」と自分に言い聞かせる。 携帯の呼び出し音が鳴った。 懐手を解いた三蔵の手には携帯電話。 小窓の表示を目にするなり、彼はすぐに二つ折りのそれを開いて電話に出た。 「何だ?」 人々を吸い込んでいく入り口に向かって歩を進めながら、電話の向こうの相手の話に耳を傾けるように僅かに瞼を伏せる。 ――睫毛、長いなぁ。 男性にしては長い睫毛は、時折、頷く代わりの様に彼が瞬きをする度に上下に揺れる。 短い、素っ気無い相槌は、それでも彼が相手の話を聞いている事の意思表示だ。 三蔵がこんな風に話を聞く相手は、余程親しい人物に限られている。 ――誰なんだろ? 無意識の内に、は耳を澄まして三蔵の声を拾っていた。 一言も、聞き漏らすまいと。 「――ああ。駅に居るからな」 「――花火大会に行くと言っておいただろうが。――猿が煩ぇから付き合っただけだ」 「――あぁっ?そんなんじゃねぇよ。わかりきった事を一々聞くな」 相手に対する不機嫌さを隠そうともせずに、白皙の美貌に苦り切った表情が浮かぶ。 嫌悪というよりは呆れ。 仕方がない、そんな諦めにも似た感情が見え隠れしている。 乱暴な口調も、ぶっきらぼうな物言いも、や悟空達を相手にしている時となんら変わらない。 だが、どことなく相手との親密さを感じるのは何故だろうか? そして、低い声は溜息混じりに囁いた。 「…わかった。今から行ってやるよ」 宥める様な、その響き。 ドキリとした。 眼を瞠るの前で、三蔵は通話を打ち切り、携帯をしまった。 立ち止まってしまったとの距離が開き、気付いた三蔵が振り返った。 「おい。さっさと歩け」 訝しげに顰められる形のいい眉。 垂れた目尻は、眼差しのきつさを和らげるには至らない。 三蔵の秀麗な面立ちに浮かんだ表情を苛立ちと取ったは、慌てて彼に駆け寄った。 慣れない浴衣の裾が足に絡まるのに軽い不快感を覚える。 カラコロと、草履が軽快に場違いな音を奏でた。 と三蔵は駅の入り口まで行って別れた。 何か話したような気がするが、何も話さなかったような気もする。 どうやって家に帰ったのかは、良く覚えていない。
presented by ......羽柴あおい様(2004.11/25) |