+++++++++++++++++ 騒がしい夏、4 +++++++++++++++++ 教室を出て、夏の強烈な日差しに目を細めた。 この炎天下の中に長く居たら、金属でできている眼鏡のフレームさえも熱を帯びてしまいそうだ。 人工的な明かりに慣れた目には、外の陽光が殊更眩しく感じられる。 「終わったーっ」 が良く晴れた空に向かって、両腕を上げて大きく伸び上がった。 彼女は冷房が酷く苦手で、外に出て熱気を孕んだ空気に触れる度、ホッとした顔をする。 今日は、彼女の前期履修科目の試験の最終日。 漸く終わった試験期間に、開放感もひとしおだろう。 「は、後もう一つ残ってるんだっけ」 「うん。近代文学史が残ってるよー」 「うへぇ。なんでパンキョー(一般教養)でんな面倒臭いの取っちゃったかねえ」 「それは勿論、好きだからなのですよ♪」 にっこりと笑うに、は「良くわからん」と腕組みして大袈裟に頭を振って見せる。 は現代文学よりも、明治・大正時代や昭和初期の作家の作品が好きだ。 しかも、現代人向けに安易に翻訳された文庫本ではなく、原文の文章のものを好み、難なく読みこなす。 に言わせれば"枯れた趣味"だが、に言わせればその"枯れた"雰囲気が良いのだ。 「あの教授、出席率に煩いし試験だって持ち込み不可じゃん」 「えー?そんなの全然問題じゃないよー」 今日日の学生らしく、大人と子供の狭間である最後の自由時間を思う存分満喫しようと余念のないにとっては、は些か真面目過ぎる友人といえる。 それでも、多少は大学生活を満喫する気があると過ごす時間は、高校卒業と同時に急に与えられた持て余すほどの自由に羽目を外しそうなにとって心地いいものであった。 『大学生』という、義務教育に毛の生えた程度の高校時代とは比べ物になら無い、大人とほぼ同等の権利が許され、それでいて『学生』という名のもとに庇護されている不思議で大きな自由は、今まで校則という枷で縛られていた彼女達にとって大変に魅力的なものだ。 流行や行き過ぎた火遊びには全く興味の無いでさえ、無為に過ごしてしまうには勿体無いと思うほどに。 ブレーキ役をに求めると、適度な一歩を踏み出す為の勢いをに求めると。 大学生になった二人の間には、絶妙なバランスが存在している。 個人個人の時間割が異なる学生生活は講義ごとに合わせる顔触れが違い、クラスメートという繋がりが希薄だ。 高等部時代の友人達とも、自然に距離が生まれた。 とは、顔を合わせて「久し振り」という台詞が出ない間柄である。 「ねえ、悟空君と約束の時間って三時で良かったよね?」 「うん。新宿のアルタ前に三時!」 「ギリギリだぁ。急ごう、!」 「あ、待ってよーっ」 腕時計を見るなり走り出した友人を追っても走り出す。 心は既に、華やかな繁華街へと飛んでいた。 が殆んど成り行きで、三蔵と悟空と八戒と、ホテルで夕食を共にした時の一件の折。 その帰り道で八戒に「さんに一つ借りが出来ちゃいましたね」と言われたは、早速その場でその借りとやらを返してもらう事にした。 即ち、来週行われる都内でも大きな花火大会に八戒を誘って、絶対参加の約束を取り付けたのである。 花火=浴衣。 何とも安易な発想だが、意中の八戒と花火大会に行けると知って張り切ったは、浴衣を新調するから付き合って欲しいとを誘ったのである。 其処に悟空までついて来る事になったのは、偶々その話が出た時に彼が一緒に居たから。 何故一緒に居たかと言うと、がこの『計画』に悟空を巻き込んだから。 当然のように、花火大会にも悟空はと参加となった。 八戒とは殆んど初対面のが、どうすれば上手く彼とお近付きになれるか、彼女なりに真面目に考えての結論だった。 はに押し切られ、悟空はそんなを放ってはおけず、とまあそんなところだ。 JRの改札を通り新宿駅の東口に出て、辺りを見渡してみたが悟空の姿は無い。 時計を確認すると三時丁度。 遅刻するという連絡は無いから、すぐに来るだろうと出入り口の正面で待つことにする。 アルタの大画面に背を向け、道端の低いフェンスに半ば腰掛けるように寄り掛かって、目に入った手書きによる緻密で見事な映画の大看板を二人で眺める。 アレはもう見た、とか、コッチはまだだとか、見た映画の感想やこれから見たい映画の話で二人が盛り上がっていると、程なくして元気な声が彼女達を呼んだ。 「ー、ー。お待たせ!」 太陽の色と光を宿した瞳が、二人に笑いかける。 「もしかして待たせちゃった?」 「ううん。今来たトコ。ね?」 「うん!」 笑顔で頷き合ったとは、悟空の肩越しに、駅から出てくる人物を目にして固まった。 夏の日差しを弾く眩い金糸の持ち主。 見間違えることなど有り得ない、精緻に整った秀麗な容貌。 「………玄奘、先輩?」 「うわっ、本物だ…」 大学構内だって見かける事が少ない有名人の姿を目の当たりにして、はただただ驚き、は大いに色めきたった。 「すごーい!!もしかして私ら、超ついてるっ?」 「は八戒がいいんじゃねーのか?」 「それとこれとは別」 「あはは」 瞳をキラキラさせる。 呆れ顔の悟空。 二人の遣り取りに、笑ってしまう。 と、辺りを見回していた紫暗と、の薄茶の瞳がかち合った。 彼はすうっと紫暗の双眸を眇める。 「………こっちに、来る………」 「え!?ウソウソっ、何で!?」 がばっ、と駅の出入り口を振り返る。 すると、事も無げに悟空が一言。 「何でって、当たり前だろー。俺が誘ったんだもん」 彼女達――特に――にとって、それはかなり爆弾発言だった。 「誘ったって、何でよっ?っていうか、悟空君、玄奘さんと知り合いだったのおっ!?」 ずいっ、と身を反転して乗り出して捲くし立てるを、悟空は鬱陶しそうに見遣りながら口を開く。 「知り合いも何も…俺、三蔵と一緒に住んでるんだけど」 話したこと無かったっけ? 眉を顰め、小首を傾げる悟空。 爆弾発言、再び。 「聞ーてないわよっ、そんな事!!そんな大事な事何で今まで黙ってたワケ!?」 大興奮のに、その事実を疾うに知っていたは苦笑するばかりだ。 悟空が三蔵と同居している事を周囲に話したがらないのには訳がある。 それは―― 「悟空君」 不意に真剣な顔付きになったが、ガシッと悟空の両手を握り締めた。 「是非、近いうちにお家に遊びに行かせて頂くわ」 と、まあ、十中八九こうなることがわかっているからなのである。 同じ男として、三蔵とお近付きになる為のダシに使われるのは面白くないと言うわけだ。 悟空は鼻の頭に皺を寄せ、口をへの字に曲げた。 「…ぜってー来んな」 物凄〜く迷惑そうな悟空に、は握り締めた悟空の両手を力一杯引き寄せる。 そして、一方的に力強く主張した。 「何言ってるの!綺麗な男は世の女性全ての共有財産よ!!いーじゃないの、眺めるぐらい減るもんじゃなし、男ならケチケチしない!目の保養にして何が悪――」 熱く語り倒すからは少し離れ、その肩をつんつん、と指で突付いた。 「何?………!!○×△◇☆#♭刀堰梶I?」 を振り向いたは、その後ろで柳眉を顰める三蔵の姿を目にし、言葉にならない意味不明な声を発した。 「悟空。何なんだ、この騒がしい女は」 「の友達ー」 に両手を預けたままで、悟空は恐ろしく簡潔に説明を済ませた。 「………す、スミマセン」 「………シツレイしました」 最早、恐縮するしかないとであった。 それから数分後。 一行は、レディースの服やら化粧品やら靴やらバックやらと実に様々なテナントが雑然と立ち並ぶ、某駅ビルの中に居た。 何をきっかけとしてか、ここ数年、夏になると浴衣が持てはやされるようになり、流行の服ばかり扱う店舗に混じって和服の老舗ブランドも駅ビルやデパートにテナントを構えるようになり、一昔前より気軽に和服を手に取れるようになった。 やはり、一軒丸ごと和服しか扱っていない専門店には、達の年代の女子は中々入り辛いものなのである。 はテナントに足を踏み入れるなり、所狭しと並べられた色取り取りの浴衣を前に腕組みをして悩み始めた。 「うーん、こんだけあると流石に迷うわぁ」 「なあなあ、コレなんかどうだ?に似合いそう」 「え?どれどれ………」 悟空が示した浴衣を手に取り、姿見の前で真剣に品定めをするの脇で、悟空はまた別の浴衣を手に取ってに差し出す。 「こっちもよくねえ?」 「あ、有難う。中々イイわね」 「帯は?」 「勿論、買うわよ」 「んじゃ…」 あーでもない、こーでもない、と悩むと一緒になって、悟空も楽しそうに店の中を見て回っている。 浴衣選びに没頭する二人に、と三蔵は取り残されたような格好になった。 三蔵は些か手持ち無沙汰な様子で腕を組んで店の端に佇んでいる。 先程から、店の店員を始め、テナント間を行き来する女性は総じて三蔵に視線を寄越していた。 長身で見事な金糸の髪を持つ三蔵は、何処に居てもとても目立つ。 そして、眉目秀麗を絵に描いたような男だ。 向けられる視線の多さに眉間に皺を刻み、只管無言の三蔵。 にしてみれば、幾ら悟空の誘いとはいえ、女性の買い物に付き合う事を彼が応じたのは酷く意外だった。 大して面識もなく、交わした言葉も決して多くはないが、この青年がこういった事に好んで付き合う性格で無いだろうことぐらいはにだって容易に察しがつく。 真相は、悟空が三蔵に詳しい事を何も告げず、ただ「どーせ暇なんだからいーじゃんっ」と引き摺ってきただけなのだが。 そんな事を知る由も無いがつらつらと考えていると、不意に彼がに紫暗の瞳を向けた。 「何を見ている?」 低い声は冷ややかで、感情と言うものを一切排除したような響きがあった。 は、そこで漸く自分が三蔵をずっと見つめていたことに気付き、咄嗟に俯いて視線を逸らした。 視界に入った高校時代から履いているローファーが、の心情を代弁して所在無さげに身じろぐ。 「どなたと、同じなんですか?」 会話の糸口を探して、彼との数少ない会話の記憶を引っ繰り返したの口を突いた疑問。 説明の足りないの問いに、三蔵の柳眉が顰まる。 「何がだ」 「その、この間図書館で玄奘先輩が、私が『アイツと同じ事』言ってる、って――」 慌てて言葉を補うが皆まで言い終わらないうちに、三蔵は、ああ、と呟いた。 苦虫を噛み潰した様な表情で。 「お前は知らん男だ」 突き放すような物言いに、は、どうやら話題の選択に失敗したことを知る。 そうですか、とは小さく口中で言った。 ――怒らせちゃったかな… 気まずい沈黙。 玄奘三蔵という青年は、気難しいと言うか、笑うことをしない男だ。 親しく付き合わずとも、数時間も一緒に居れば余程の事がない限り大抵の人間は会話の折にでも笑顔を見せる。 だが、この男は常に不機嫌そうな無表情で秀麗な美貌を覆い、にこりともしない。 そもそも、絶対的に口数が少なく、の記憶する限り、今まで出会った中で一番会話を続けるのに困難な人物だった。 無口で無愛想。 人の悪口など言いたくは無いだが、三蔵の態度はそれ以外に言い様がない。 「お前は選ばなくていいのか?」 掛けられた意外な台詞に、は驚いて顔を上げた。 三蔵は相変わらず感情の汲み取れぬ淡々とした表情で顎をしゃくる。 示された先に視線を向けると、試着室の前で浴衣を服の上から羽織ってはしゃぐと、その隣で浴衣に合わせた帯を持って笑顔で彼女に話し掛ける悟空の姿があった。 二人はどう見ても仲の良いカップルといった風で、見つめるの胸が、ツキンと痛んだ。 「あ、いえ。私は…今日はに付き合っただけですから」 三蔵に答えながら、は唐突に走った胸の痛みに内心、首を傾げていた。 ――何なんだろう、コレ……… 今まで一度も感じたことのない感覚。 己の心中に気を取られるの隣で、三蔵が大きく息を吐いた。 「女ってのはわからんな。他人の買い物なんぞに付き合って何が面白ぇんだか」 ぼやく三蔵に、は曖昧な笑みを返す。 再び訪れた沈黙に、の視線はまた悟空とへと向かう。 ――って、あんなに可愛く笑う子だったけ。 は、確かに同性のから見ても美人の部類に入る容姿の持ち主だ。 親しい者の欲目を除いても、充分に綺麗だと思う。 けれど、どちらかといえば大人びた雰囲気の子で、こんな風に可愛いと思ったのは初めてだった。 少し、彼女が羨ましく思えて、そんな自分に驚いた。 ――うーん………。 ずっと見ていたせいだろうか。 悟空が、こちらに気付いて手を振る。 も手を振り返すと、も悟空の仕種で気付いたのか、こちらを見て手を振ってきた。 その笑顔は、が見慣れたいつものの顔で、何となく、ホッとした。 悟空がこちらに歩いてくる。 その向こうで、は試着していた浴衣と悟空が持っていた帯を店員に渡していた。 夏らしい水色のバックから、お気に入りのブランドの財布を取り出しているところを見ると、会計をするのだろう。 「やっと終わったか」 やれやれ、といった風の三蔵の呟きに、はこっそり笑ってしまった。 にとって、たとえ四つしか違わずとも十代と二十代の差は大きく感じる。 彼女から見れば大人である三蔵のそんな様子は、まるで自分達の保護者の様に映ったのだ。 は俯いて表情を隠したつもりだったのだろうが、三蔵にはしっかり見えていた。 眉間の皺が深くなる。 「何が――」 「お待たせー。んじゃ、次はのな!」 口を開いた三蔵を遮って、悟空が元気良く言った。 「え?」 の問いは、悟空に向けられたものではなかった。 三蔵の言い掛けた言葉が気になって見上げただったが、彼の紫暗は既に悟空に向けられていた。 険しい表情ときつい眼差しが彼の不機嫌を如実に物語っていて、は慌てて首を横に振る。 こんな所で例の言い合いをされては堪ったものではない。 「ううん。私は買わないよ」 「なんでだよ?」 「浴衣はお母さんのお下がりがあるの」 三蔵を気にしながらもにっこりとが言うと、会計を済ませ紙袋を持ったが話しに入ってきた。 「折角だから帯ぐらい買ったらどう?」 「いいよー。帯もちゃんとあるから大丈夫!」 「でも、それもお下がりなんでしょ?」 「うん、そうだけど…」 「じゃあ、新しくしなよ。浴衣って、帯一つで全然印象が変わるのよ?」 「うーん」 それも一理あるなぁ、とが悩んでいる傍で、悟空とが。 「なあ、の浴衣って、どんななんだ?」 「白地に藍染のシンプルなやつよ。ホラ、ちょうどあそこにあるのみたいな感じ」 「へえー。で、今持ってる帯は?」 「確か、黄色に金の糸で蝶の刺繍がしてあるものよ」 「じゃあ、黄色いのは却下だな」 「蝶柄もね」 の返事も聞かぬうちに帯選びを始めてしまっている。 あーでもない、こーでもない、とが浴衣を選んでいる時同様にやりだした二人に、は吹き出してしまった。 折角だし、この際だから買ってしまおうか、と思いおずおずとが傍らの青年を見上げる。 「え、えーっと…」 彼は腕を組み、思いっきり呆れ顔だ。 ――うー、早くここから離れたい、んだよね?きっと… 先程からびしびしと伝わってくる三蔵の不機嫌なオーラに、は嫌でも注目を浴びてしまう彼に少しの同情と、自分のせいで買い物時間を延長する申し訳なさ、後はいつ彼の癇癪が炸裂するかという不安が胸をよぎる。 「今日は止めとく!」 思い切って、は二人の間に割って入った。 途端、返ってくるブーイング。 「「ええ〜っ!?」」 仲良く声を揃えて両側から迫る二人。 「何でだよー」 「折角なのに…」 そして、要らぬ心配までし始めた。 「もしかして、今月もうピンチとか?」 今は月の半ば、給料日前。 大学に通う合間にする学生のアルバイトの収入などたかがが知れている。 丁度、小遣いが底を突いてもおかしくない時期だ。 「それはないわ、悟空。この子、そういうところはきっちりしてるから」 の懐具合に何故かが太鼓判を押し、会話が振り出しに戻った。 「じゃあ、何でだよー」 「折角来たんだから買いましょうよ」 「そうだよ」 「そのうちそのうち、何て言ってて買いそびれるのがいつものパターンじゃないの」 「この際だからさぁ」 「買っちゃいなさいよ」 巡り巡って再び自分に返って来た遣り取りに、は、あはは、と乾いた笑みを漏らす。 二人は、に帯を買わせたいというよりは、単に選ぶのが楽しいだけなのだが、は純粋に好意と受け取っている。 ――どっ、どうしよう。 困った。 両脇を悟空とにがっちりと固められ、元々買いたい欲求はあるは困った。 そろそろと背後の三蔵に視線を送ると、苛立たしげに舌打ちされた。 鋭い音が彼の怒りを代弁しているように感じ、の躯が強張った。 三蔵は一歩に歩み寄ると、彼女の肩越しに商品の陳列棚に手を伸ばす。 咄嗟に縮こまったの上に落ちた長身の影。 一瞬だけ近付いて、すぐに離れた細身の躯。 戸惑いと疑問に薄茶色の瞳を瞬かせ、見上げたの胸元に三蔵は無言で手にした物を押し付けてきた。 「「「えっ?」」」 三人の視線が一斉に、の手元に注がれる。 それは、鮮やかな藤色と水色の二色使いの帯。 文庫結びにすると羽と結び目が違う色になるよう染められた物だ。 の不安げな眼差しが、仏頂面の三蔵と、手元の帯を往復した。 「不服か?」 説明も何もない。 ぶっきらぼうな短い言葉に、は慌てて首を横に振った。 「私、会計してきますっ」 一変して明るい表情になったが、弾んだ声でそう言って三蔵が選んでくれた帯を手にレジに走って行く。 一連の遣り取りを黙って視線で追うのみだった悟空とが、互いの顔を見合わせた。 「あれって一応…選んであげた、のよね?」 「おう」 の言葉に、悟空がこっくりと頷く。 「何だか凄いものを見てしまった気がするんだけど…?」 「俺も…」 二人が見つめる先、紙袋を提げたが無愛想な青年に走り寄り、にこにこと礼など言っていた。 駅ビルを出るなり、三蔵はジーンズのポケットから煙草の箱を出し軽く振って、頭を出した一本を薄い唇に咥えた。 ライターの火を手で覆い、口元に近付ける。 立ち上る紫煙に深い紫の瞳が僅かに細まった。 「はー、何をしても絵になるひとねーっ」 内緒話をするようにに小声で耳打ちされ、は「え?」と聞き返す。 「玄奘さんよ」 何?彼のこと見てたんじゃないの? さも意外そうに問われ、の視線が泳いだ。 の指摘通り、確かには三蔵を見ていた。 ただ、見ていただけなのだが、別に何となく視界に入ってしまっただけなのだが、改めて友人にそう言われると何だか気恥ずかしい。 「は、八戒先輩みたいな人がタイプなんじゃなかったのー?」 眼鏡の奥でパッチリとしたの瞳が、さる有名な童話に出てくる猫の様に三日月形になった。 「それはそれ。これはこれ、よ。眼福ってヤツ?」 涼しい顔でさらりと言い放つに、はあははと笑う。 「は面食いだったんだー」 「外見もその人に恋する重要な要素の一つよ」 臆面も無しに堂々と言ってのける。 「だからアンタも出かける時ぐらい化粧とかおしゃれとかしなさいよね」 有難くもないお小言まで付いた。 「だって、そういうの良くわかんないし面倒なんだもん」 「面倒って…」 「お化粧する時間があったら、その分寝たいじゃん」 低血圧で朝が弱いらしいその発言に、はがっくりと項垂れた。 「化粧は女の身嗜みよ」 呆れ顔の。 はまた、あはは、と笑った。 「あはは、じゃないの!あ、ねえ」 いきなりはガシッとの両肩を掴んだ。 「何?」 「アンタ、花火大会当日、集合場所行く前にウチ来なさい」 「へ?」 突然何を言い出すのかと、目を丸くするに、はそれはそれは真剣な顔で言った。 「いーから来る!!」 返事は!?と顔を近付けられて、は仰け反りながら頷いた。 「は、はい」 「よーしっ。さんがちゃんをとびっきりイイ女にしてあげようっ」 語尾にハートマークが付きそうなほど浮かれた口調。 嬉しそうににっこり笑いかけられ、もわけもわからないままに取り敢えず笑い返しておく。 ――男の人って、やっぱりみたいに綺麗にしてる女の子がいいんだろうな。 頭の片隅で、視界の片隅によぎった彼のことを、少しだけ考えた。 「えぇ〜〜〜っ!!」 そんな二人の背後で、突如上がった叫び。 不満です、とでかでかと書いた表情が容易に想像できる声と口調だった。 「何でー!?何でだよ、さんぞぉ〜っ」 悟空だ。 何事かと振り向いたとは、携帯電話片手の三蔵に剥れ顔で抗議する悟空の姿を目にした。 「何で帰っちゃうんだよーっ。折角――」 「喧しいっ!!」 こめかみに青筋立てて悟空を怒鳴り付ける三蔵。 ここは新宿駅南口、某駅ビルど真ん前。 当然、人通りは大学構内より遥かに激しい。 まさか、此処で例の怒鳴り合いが………とは鈍い頭痛と引いてゆく血の気を自覚した。 「どうしたの?あの二人」 「他人のフリしといた方がいいよ…」 眉間を揉み解しながら呟くに、は綺麗に描いたアーチ型の眉を顰める。 「何でよ?」 「どうしても」 怪訝そうな顔で首を捻るに説明するのも面倒で無言の。 どうせ、説明などせずともすぐにわかる。 「電話中だ。黙ってろ、バカ猿」 「猿じゃないっつってんだろっ、横暴坊主!」 「だったらクソガキ、だ。煩ぇんだよっ」 「クソ坊主!!」 「いっぺん死ぬか?」 「げっ、鬼畜〜っ」 「…ぶっ殺す」 はあんぐりと口を開け、固まっている。 「ね?」 「そうね…」 こっそりと女達は、騒がしい男達から遠のいた。 ――八戒先輩、偶然通りかかったりしないかなぁ。 の知る限り、こういう状況の二人を止められるであろう唯一の人物が無性に恋しい。 ――そうすれば、も嬉しいし私も嬉しいんだけどなぁ。 寒々しい全然笑ってない笑顔が今すぐ見たいと思う。 げいんっ。 いい加減キレた金糸の美丈夫の拳が、少年の脳天に容赦なく振り下ろされた。 「〜〜〜っ」 涙目になる金晴眼。 フン、と鼻を鳴らして三蔵が携帯を持ち直し、通話口に向かって話し始めた。 よくもまあ、あの怒鳴り合いを耳にして切らなかったものだ、とは三蔵の通話相手に感心する。 一体、どんな人物なのだろうか? 「凄いわね」 何が、とも誰が、ともは言わなかったが、も聞こうとは思わなかった。 会話中の三蔵の口元が綻ぶ。 「あ………」 ――笑った。 知らず小さく声に出してしまった呟き。 無愛想な無表情を貫く秀麗な横顔に浮かんだ、有るか無しかの僅かな微笑に目を奪われた。 ――何を言われたのかな?どんな話をしてるんだろう。 忘れっぽいには珍しく、その疑問は暫くの脳裏を離れなかった。 通話を終えた三蔵は、未だ蹲っている悟空に二言三言言い置いて、駅の構内へと去っていく。 雑踏に紛れ、三蔵の背中はすぐに見えなくなってしまった。 「玄奘さん、帰るって?」 悟空に歩み寄り、今更な問いをする。 「おう。おーぼー女に呼び出された」 膨れっ面で悟空が答える。 「女!?何、玄奘さんって彼女居たの?」 「そんなんじゃねぇって。つーか、気が多すぎ」 さも残念そうなに、悟空は呆れ顔だ。 「まあ、あの外見だもんねぇ。彼女が居ない方がおかしいわよねぇ」 口は凄く悪いみたいだけど。 何やらは一人、うんうん、と納得している。 「あーあ。飯奢って貰おうと思ってたのになーっ」 何やら悟空は一人、残念そうだ。 「もしかして、玄奘さん誘ったのってそれが目的?」 「おうっ」 悟空は、に胸を張って元気良く返事をした。 「三蔵引っ張り出すのすっげぇ苦労したんだぜ?」 「でしょうねぇ」 「あー、滅茶苦茶悔しい!」 「残念だわぁ」 ――何か…頭痛い、かも。 はゆっくりとこめかみを擦った。 人込みに、酔ったのかもしれない、と。
presented by ......羽柴あおい様(2004.10/9) |