+++++++++++++++++ 騒がしい夏、2 +++++++++++++++++ は仕方なく三蔵に続いて二階への階段を上った。 大人しくついていくことにしたのは、何となく彼と面識があったような気がするのと、断ると後々厄介そうだと思ったからである。 面倒事を嫌うせいか、のこういう勘が外れる事は滅多に無い。 二階とはいっても、三蔵が向かったのは天井がおそろしく高い一階から見える位置にある、所謂、中二階というやつである。 この建物は、図書館として建てられたとはとても思えない、本当に洒落た造りをしている。 なんとはなしに見上げた天井から下がる上品なシャンデリアに、見惚れていたは階段が途切れたのに気付かなかった。 段があるつもりで踏み出した足が、空を切って<の躯が思いっきり前につんのめる。 「っ!?」 場所が場所だけに、悲鳴を上げるのだけは咄嗟に堪えた。 躯を支えようと伸ばした手が床に着く前に、の躯は三蔵の腕の中にフワリと柔らかく受け止められた。 「なにやってんだ、お前は」 頭上から降ってくる呆れた声。 差し出された腕の優しさと正反対の乱暴なその響きに、何故か素直に礼を言う気になれない。 「………」 が無言で身を起こすと、三蔵がポツリと呟いた。 「ドン臭いのは相変わらずだな」 自分を見上げてくるを一瞥した彼の唇の端に、微かな笑みが浮かんでいた。 ――やっぱり、会った事あるんだ。 慣れた様子で書架の間を通り抜けていく三蔵の後姿を追いながら、の中で、先程からずっと感じていた疑問が確信に変わっていった。 三蔵は『staff only』と書かれた扉を迷わずに開け、中に入っていく。 も、少し躊躇いつつ、中に入った。 三蔵の目的地は、廊下の一番奥の部屋。 扉を開けた瞬間、先ず鼻を突いたのは、煙草の匂い。 古書独特の匂いに慣れた鼻には殊更煙たく感じられて、は思わず眉を顰めた。 正面の大きな窓は開いてあったが、それが冷房の効きを悪くしていて、ついさっきまで冷房がガンガンに効いてひんやりとした図書館内に居た<には、中途半端に生暖かい空気がとても心地悪く感じられる。 窓の向こうには桜の木々。 どうやら、三蔵は此処から八戒との遣り取りを見下ろしていたようだ。 入口で立ち止まっている<に構わず、三蔵は部屋の中央の応接セットのソファにどっかりと腰掛けた。 ガラステーブルの上に置かれたマルボロから、新しい煙草を取り出して早速火を点ける。 漂う紫煙。 その匂いが、転びそうになった自分を受け止めてくれた三蔵から香ってきた匂いと同じ事に、今更ながら気付く。 物凄く、気恥ずかしい。 所在なさげに佇むに、三蔵の紫暗が向けられる。 「」 「な、何でしょう?」 声が、上擦る。 らしくない自分の反応に、自分で焦って余計に恥ずかしさが募ってしまう。 自分の姿を映す青年の紫暗の瞳を直視できない。 「コイツに見覚えは?」 そんなの様子を気にする風も無く、煙草を挟んだ右手の指が、テーブルの端にある封の切られたいかにも女性が好んで使いそうな封筒を叩く。 「あ」 の頭の中で、三蔵のせいですっかり忘れ去られていた八戒との遣り取りが思い出された。 ――そうだ。この手紙、私が八戒さんに宛てて書いた…でも、何で此処に? イマイチはっきりしないの記憶を呼び起こす為のきっかけは、意外にも三蔵が与えてくれた。 「あるだろう?悟空の奴が八戒に渡せと俺に押し付けやがった、てめぇの書いた『ラブ・レター』だ」 面白くもなさそうにうそぶく。 「あぁっ!!」 思い出したっ。 いきなり叫び声を上げたに、金糸の青年は紫暗の瞳を疎ましげに眇めた。 もし、叫んだのが悟空や、八戒に有無を言わせぬ笑顔で代返を押し付けられた悟浄なら、間違いなくハリセンが飛んできただろう。 八戒が言っていた『意味深なお手紙』。 確かにそれは、が自分の名前で八戒宛に書いて、悟空に彼に渡すよう頼んだものである。 「『突然のお手紙、失礼致します。実は、折り入ってお話したいことがありますので、お時間を頂けないでしょうか。 不躾なお願いであることは重々承知しております。つきましては――』」 「玄奘先輩っ」 すらすらとの書いた文面を声に出して読み上げる三蔵を、は大声を上げて制した。 その顔は真っ赤である。 ――何も本人を目の前にして読み上げなくたっていいんじゃないですかーっ!? 意地が悪いにも程がある。 頭が痛い。 が、これはいつもの頭痛とは絶対に違う。 大体。 「ただ、話があるから時間作ってくれってだけなんですけど…」 ああ、頭痛が。 絶対、逆立ちしたって八戒が言ってた様な深い意味なんて汲み取れる筈の無い内容なのに。 拝啓で始まって敬具で終わるラブレターなんて存在しないって、友人だって太鼓判押してくれたのに。 ソッチ方面に関して周囲からはやれ『鈍い』だの『疎い』だの『朴念仁』だなどと言われまくっているにだって、流石にそれくらいの事はわかる。 頭を抱えるに、三蔵がフンと鼻を鳴らした。 「気にするな。アイツの人の悪さは生まれ付きだ」 どっと疲れが襲ってきた。 「そうですか………でも、どうしてコレが此処にあるんです?」 三蔵の答えは非常に簡潔だった。 「知らん」 「はあ…」 ノーシン、まだ残ってたっけかなぁ――。 頭痛を理由に現実逃避に走りかけた脳味噌を引き戻してくれたのは、三蔵の容赦ない一言だった。 「物忘れもそこまで行くと最早ボケだな」 「………ははっ」 酷い言い種だが、言い返しようも否定しようもないところが哀しい。 「大体、てめぇも悪い」 「…何でですか?」 「連絡先がわからなきゃ、時間作ったって繋ぎを付けようがねぇだろうが」 「あ」 は、慌てて三蔵から引っ手繰った手紙を開いて確認する。 「………………」 「ツメが甘ぇんだよ」 「ははは」 乾いた笑みを漏らしながら、の思考は高速で回転していた。 一ヵ月後の夏休みに、サークル総出で行く一泊二日のアウトドア旅行までに誤解を解いて、友人に頼まれた彼女と八戒との繋ぎ役を果たさねば!! そもそも、誤解自体が存在していないという三蔵の示唆は、の脳には全く届いていない。 妙に律儀な所のある彼女は持ち前の生真面目さでもって、友人の八戒への恋を成就させる為の橋渡し役を、無事やり遂げねばと本気で悩んでいた。 青くなったり赤くなったりと目の前で百面相を繰り広げるを、三蔵は面白いものでも見るようにゆるりと煙草を燻らせながら黙って眺めている。 ヘビーというよりチェーンスモークの三蔵が、が考え出してからかれこれ三本目を吸い終えた頃。 飾り気の無い携帯の呼び出し音が部屋に鳴り響いた。 自分の携帯と全く同じそれに、は素早く反応してバックを開けて確認するが、の携帯は沈黙中。 チッ、と舌打ちが聞こえ、が顔を上げると、三蔵が至極面倒臭そうにテーブルの上に自分の携帯を放り出した所だった。 「出ないでいいんですか?」 余計な事とは思いつつも、ついつい口を出してしまうである。 三蔵は新しい煙草を挟んだ唇を歪めた。 「煩ぇ」 余程出たくない相手なのか、秀麗な横顔が勿体無いほどの仏頂面。 好奇心に駆られたが、チラリとテーブルの上の三蔵の携帯に目を遣ると、着信を知らせる小窓には『さる』とある。 ――さる??? よもや、本物の猿なワケはないだろうが、それにしても何故三蔵は電話に出ないのだろうか。 が内心で首を捻っていると、唐突に携帯の呼び出し音が止んだ。 間髪入れずに再び鳴り響く電子音。 再びテーブルの上を見たが、三蔵の携帯は沈黙している。 は慌ててバックを開けてまた自分の携帯電話を確認すると、今度はこちらが鳴っている。 着信の名前は『孫 悟空』。 「もしもし?ごく――」 『ああ、良かった。コレ、さんの携帯でいいんですよね?』 忘れもしない、先程耳元で囁かれたばかりの低く柔らかい声が、の携帯の通話口から流れ出て来た。 思わず耳から携帯を離し、マジマジと己の手の中にあるソレを凝視する。 どんなに見つめてみても、確かにソレは最近二年振りに買い換えた自分の携帯電話。 通話中であることを表示するディスプレイの上にある通話口からは、はっきりと聞き覚えのある穏やかな口調がを呼んでいる。 『もしもーし。さん?さーん。………おかしいですねえ。もしかして電波悪いんでしょうか』 上品に首を傾げる仕種が目に見えるような表情豊かな声音だ。 『もしもし?どうし――』 『だあっ!もうっ、返せってばっ。八戒!!』 割り込むようにして響いたのは、男性にしては少々高めの明るい声。 弾むような勢いのいい口調は、には着信名本来の少年のものだとすぐにわかった。 「ちょっ、悟空?悟空、だよね?」 『ああ、やっと出てくれましたね』 『だからっ、俺のだってば!代われよーっ』 「あの、なんで――」 『こらこら。そんなに引っ張らないで下さいよ、悟空。話辛いじゃありませんか』 『うっさいっ。寄越せ!』 「もしもし?どちらでもいいですから、話を――」 『貴方の物と言っても、どうせ料金は三蔵持ちなんでしょう?硬い事言わないで下さいね』 『違ぇーもんっ。俺、ちゃんと自分でバイトして払ってるもんねっ』 「あのぅ――」 『それはそれは。感心です』 『だから返せっ』 「………」 『言われなくても、話しが終わったらちゃんと返しますって』 『ヤダ』 『ちょっ、悟空!』 『へっへ〜っ。確かに返してもらっ――』 『そうはいきませ――』 『もしもしっ、?俺、悟空だ――』 『もしもし?騒がしくしてすみませ――』 「………………」 放っておけばどこまでも取り合いを続けそうな二人だ。 悟空は兎も角、八戒は少々大人気無い様に思えるである。 最早止めに入る気も起きず、耳から離して携帯を持つの手を、いつの間にか立ち上がっての傍まで来ていた三蔵が掴み上げ、いきなりグイッと自分の方へと引き寄せた。 「え、きゃっ」 「喧しいっ!!」 よろけて三蔵の腕の中に転がり込んだの頭上で、大音声が轟いた。 ビクッ、とは肩を震わせて首を竦めた。 眉間に深く縦皺を刻み、青筋を立てて目元を引き攣らせる三蔵は、元が整った顔立ちだけに物凄い迫力である。 「とっとと用件を話しやがれっ」 それから数十分後。 何故、悟空の携帯で八戒がに電話してきたのか。 何故、八戒宛の手紙を三蔵が持っていたのか。 何故、どうして。 疑問符を山ほど抱えたと、機嫌がどん底まで落ちた三蔵の元へ、元気の塊の様な少年は"飛んで火に入る夏の虫"宜しく現れたのである。 焦げ茶色の柔らかそうな髪を揺らし、手を振って駆け寄ってくる小柄な少年は、キャンパス内で明らかに浮いていた。 「おーいっ!さんぞーっ、ーっ!!」 大きな声で叫び、殊更周囲の好機の視線を集めまくってくれる。 ただでさえ、三蔵という目立つ男と一緒に居るせいで行過ぎる学生達の視線を例外なく向けられているというのに。 今や、わざわざ立ち止まってこちらを見、ひそひそと小声で話を始める輩まで出てくる始末。 大体、待ち合わせ場所を構内で一番目立つ講堂の前にする必要が果たして本当にあったのだろうか。 メインストリートの終点にあたるその場所は、当然学生の往来が激しい。 今は確かに四限の講義中だが、15時近いこの時間帯はサークルや体育会系の部活などがボチボチ始まる時間でもあり、 講義の無い学生達がメインストリートを多く行き来する。 悟空の後ろからのんびりとこちらに歩いて来ながら、ヒラヒラと手を振る八戒の存在もまた、人目を惹く大きな要因の一つである。 只管目立つ事が苦手なは、可能ならば今すぐにでも回れ右をして、途中からでもいいから四限の講義に出席したかった。 三蔵から「悟空と八戒と夕食に行くことになったからお前も一緒に来い」と言い渡された際、は四限がある事を理由に一旦は断った。 だがしかし。 三蔵はとっても強引な人物だった。 「一回位出なくたって、単位は落としゃしねぇよ」 の言い分を、一言の元に切り捨て、却下。 しかも。 「お前だって猿に色々聞きてぇ事があんだろうが。八戒のヤツも来る事だし、話とやらも出来る」 その誘惑というか、の抱える事情と多くの疑問を一気に解決する機会に、は泣く泣く四限の出席を犠牲にして三蔵のお誘いを受ける事にした。 さっきの三蔵の携帯の着信表示にあった『さる』は悟空の事だったのか、などとこっそり思いながら。 蛇足ながら、が履修している本日四限の講義は『一般教養』というヤツで幾つかある項目の中から好きな物を選んで履修する自由科目である。 取得できる単位数はどれも同じで、必須科目の講義と違って出席率の悪さが直接単位の取得に響かない講義が多い。 はっきり言って、真面目に全ての回に出席する学生など皆無である。 酷い者になると、試験の時にしか顔を出さない。 それでも試験に受かりさえすれば単位は取れるのだから、遊びたい盛りの彼等にとってはサボりの格好のターゲット、何とも都合のいい講義と言えよう。 ちなみに、常に閑古鳥が鳴きそうな出席状況を考慮してなのか、それとも担当教諭達が単純に面倒なだけなのか『一般教養』の試験は得てしてノートやら参考書の持ち込みが可である。 当然、合格率は非常に高い。 そんな事からして、『一般教養』の講義は学生達の間で大人気なのであった。 とはいえ、堂々とサボっていいのかと問われれば、そんなわけはなく、ただ他の講義をサボるよりは幾分気が楽だというだけの話である。 ――後でにノート写させて貰わなくっちゃ。 四限の『法学』の講義に思いを馳せるのは、少しでも気を紛らわせたいからである。 は一秒でも早く、この場を離れたかった。 だが、そんなの願いは儚く散る。 「!久し振りーっ」 がばっ。 傍まで来た悟空は満面の笑顔で、子犬が飼い主に飛び付く様にに抱き付いた。 隣に立つ三蔵は柳眉を顰め、八戒も銀縁フレームの眼鏡奥で翡翠の双眸をすうっと細めた。 「う、うん。久し振りだね、悟空…」 条件反射でつい、殆んど身長が違わない為に自分の肩の上にある悟空の頭を撫で撫でしてしまう。 一つ年下なだけの少年の、こんな可愛らしさがは嫌いではない。 しかし今、彼女の笑顔は、引き攣りまくっていた。 視線が、気になって仕方がない。 「ホラホラ、悟空。彼女が困って――」 の様子を目聡く察した八戒が皆まで言い終わる前に、三蔵が横から腕を伸ばして悟空の襟首を掴んでひょいっと持ち上げた。 「所構わず盛ってんじゃねぇよ、バカ猿が」 三蔵の余りの直接的な表現に、の目が点になる。 持ち上げられてしまった悟空は、空中でバタバタと足を動かしながらもがく。 「離せよっ、ハゲ三蔵!」 「誰がハゲだっ。殺されてぇのか、欠食猿がっ」 「猿ってゆーなっ、暴力ぼーず!」 「フン。猿を猿と言って何が悪い」 「あーっ!!また猿って言った!!」 「煩ぇっ。ガタガタぬかしてると永遠に黙らせるぞっ」 「げっ、鬼畜!」 何度も言うようだが、此処はメインストリートのど真ん中。 行き交う学生達は物見高い者もそうでない者も、突如として始まった、 構内人気ナンバーワンの美丈夫と見慣れない可愛らしい少年との怒鳴り合いを、足を止めて興味深げに見物する。 もまた、唖然と二人の遣り取りを見つめる。 悟空は兎も角として、三蔵の口から飛び出す物騒で乱暴な言葉の数々は、彼の美青年然とした容貌に似つかわしくないことこの上ない。 「ところで、さんは今日の講義は全て終わったんですか?」 二人の遣り取りにすっかり目を奪われてしまっていた所にいきなり話しかけられて、の返事はワンテンポどころか十数秒も遅れた。 「………え?…あ、ああ。いえ、本当は四限があったんですけど」 苦笑いを浮かべるに、八戒は自分の腕時計を見る。 四限が始まってから、既に三十分近くが過ぎてしまっていた。 「もしかして、僕らのせいでサボらせちゃいました?」 申し訳無さそうな口調とは裏腹に、悪戯っぽい眼差しをレンズ越しにに向ける八戒。 まさか「ハイ、その通りです」と答えるわけにはいかず、は曖昧に微笑んだ。 僅かな沈黙の合間にも、TPOを無視して繰り広げられる怒鳴り合いが耳に届く。 低い三蔵の声で形のいい唇から飛び出すのは、悟空よりも乱雑な物言い。 思わず、はまた視線を向けてしまうが、八戒はまるで気にする素振りを見せずに話し掛けてくる。 「四限って何の講義だったんですか?」 「…えっと、法学です」 「ああ、一般教養ですか」 それなら、大して単位には響きませんね。 だけでなく、大抵の人間に真面目と言われる八戒でさえこの認識である。 大学側が密かに頭を痛める、講義ごとの出席率の格差という問題の根は深そうだ。 ホッとしたような八戒の呟きに、は長身の彼を見上げた。 ――もしかして、心配してくれたのかな? サボれと言わんばかりだった三蔵とは正反対の八戒の態度に、は少しだけ、彼に対して肩の力が抜ける思いがした。 「はい。出席してる友人に代返とノート頼んでおいたので、試験とかは大丈夫だと思います」 「それは良かった。一科目とはいえ、落としてしまうと後々履修予定が狂って面倒ですからねえ」 のんびりと呟いて微笑む八戒は、とても素敵だと思えるのだが、しかし。 問題はBGM宜しく彼の背後でが鳴り立てる男二人である。 集まった学生達の視線が二人に集中してくれるのは有り難いが、増えに増えた野次馬の数は、メインストリートの往来を困難にし始めていた。 「あのぅ…」 「はい?」 細いフレームの眼鏡の隙間から、おずおずと上目遣いで見上げてくるの猫目の薄茶色の瞳を、八戒の翡翠の瞳が笑みを湛えて見つめ返す。 「あの、ですね」 そろそろ止めた方がいいのでは? チラチラと気遣わしげな視線を野次馬と騒がしい二人に向けるに、八戒もまた、視線をぐるりと巡らせた。 「気になりますか?」 「はい」 遠慮がちに、しかしはっきりと頷く。 八戒は「そうですか」とに頷き返すと、漸く三蔵と悟空を止めるべく動いた。 パンパンっ、と乾いた音が、八戒の打ち合わされた両手から響く。 「その辺にしておいて下さいね、二人とも。往来の邪魔ですよ」 決して大きな声で怒鳴ったわけではないその声は、周囲のざわめきも三蔵と悟空の怒鳴り声も制して容易に彼等の耳に届いた。 悟空を吊り上げたままの三蔵と、吊り上げられた格好で三蔵に掴み掛かっていた悟空が、 そのままの姿勢で同時に視線を向けると、八戒は『にっこり』。 「お、おうっ」 「フン」 三蔵は、ポイっ、と無造作に悟空を放り出し、自分の知らぬ間に出来上がっていた周囲の人垣を一瞥した。 「見世物じゃねぇんだよっ。散れ」 苛立たしげに低く言い放たれた一言は、集まった彼等を黙らせ、解散させるのに充分過ぎる凄みに満ちていた。 一睨みで野次馬を蹴散らし、そのままスタスタと校門に向かって歩き出す三蔵の後ろを、放り出されて身軽に着地した悟空が跳ねる様にして追いかけて隣に並ぶ。 先程の毒舌の応酬などなかったかのように、これから行く店の話を「あそこがいい」とか「あれが食べたい」とかし出す二人。 「ほら、行きますよ。さん」 八戒に声を掛けられ、固まっていたはハッと我に返った。 「あ、はいっ」 既に歩き出している八戒を慌てて追いかける。 が八戒のすぐ後ろまで追いついて歩調を緩めると、八戒は肩越しにを見遣り、彼女の手を取って己の指を絡めた。 訝しげに見上げてくる彼女に構わず、そのまま引き寄せて自分の隣に並ばせる。 「は、八戒先輩!?」 動揺をストレートに声音に反映させてしまい、はそんな自分に更に焦る。 八戒はレンズの向こうで翡翠の双眸を柔らかく細めた。 が年上の者を『先輩』と呼ぶのは、つい数ヶ月前まで制服を着て女子高生をしていた名残だ。 自分がとうに忘れてしまった習慣に触れ、の初々しさに笑みが漏れる。 「そんなに畏まらなくてもいいですよ、さん」 「え?」 「先輩、っていうのは止めてください。貴女もう、僕と同じ大学生なんですから」 「はあ」 それはそうなのだが、にとって年上は『先輩』だ。 中学に入学して以来、ずっとそう呼んできた。 八戒にとっては当たり前でも、にとってはよくわからない感覚。 「じゃあ、なんと呼べばいいんですか?」 に真顔で問われ、八戒はプッと吹き出した。 と繋いでいない、空いている方の手を軽く拳にして口元に当て、クスクスと笑う。 「あのぉ…私、何か変なコト言いました?」 小首を傾げて、綺麗な笑みに縁取られた優しげな横顔を見上げると、八戒は笑ったままの深い色の双眸をに向けた。 「いえ。懐かしいなあって思っていたんですよ」 「何がですか?」 八戒は微笑むだけでのその問いには答えず、繋いでいるの手を引いて、更に自分へと近付けた彼女の上に身を屈めた。 「本当はね?可愛らしい方だなって、思ってたんです」 耳元に落とされた囁きに、は真っ赤になった。 すぐ傍に感じる八戒の体温に、嫌でも、昼下がりの第二図書館前での"あの"遣り取りが思い出される。 の反応は彼にとって余程楽しいものなのか、八戒は声を立てて笑った。 「貴女の好きに呼んで下さって構いませんよ」 先輩、以外ならね。 好きに呼べと言っておきながら、しっかりと自分の要求は押し付けてくる八戒に、 は困惑を内心に押し込めて、ほんのりと目元を染めたまま曖昧に微笑み返した。 「はい」 繋がれた手をほどくタイミングは、すっかり失われてしまっていた。 ――何とか八戒先輩とが二人で逢える様に段取るから、ノートと代返宜しくね。 今頃閑散とした教室で講義を受けているのだろう、の現状の発端となった友人に、彼女は胸の中で手を合わせるのだった。
presented by ......羽柴あおい様(2004.8/27) |