背には煉瓦造りの壁の硬くてひんやりとした感触。 目の前を覆う影は、木々がもたらすものではなく、黒髪の長身の青年のもの。 の色素の薄い茶色の瞳を、息が触れそうなほど間近で覗き込む青年の翡翠の双眸。 その深い色味が、昨日、長い夏休みの間に友人達と行く旅行先を物色する為に開いたパンフレットに載っていた、 どこかの観光地の写真に写った湖の湖面のようだ、などとはぼんやりと考えていた。 人前では常に外す事の無い、彼女の細身のフレームの眼鏡は、彼に壁に押し付けられた時、足元に落ちてしまっている。 人当たりが良く、物静かで優しいと評判の彼が、こんな風に強引な態度に出るなどと、は思ってもみなかった。 「さん…」 彼の端整な指がの色白の頬をすうっとなぞる。 その感触の擽ったさに、は茶色の瞳を細める。 「八戒先輩…」 頬を包む彼の大きな手。 ぴったりと寄せられた、意外に厚い胸板。 そこから伝わる温もりと正反対の壁の冷たさに、は無意識のうちに逃げるように背を擦り付けていた。 ―― …なんなんでしょう?この状況は。 +++++++++++++++++ 騒がしい夏、1 +++++++++++++++++ 午後の大学構内。 昼休みが終わり三限が始まってしまえば、あれほど賑やかだった構内はその喧騒が嘘の様な静けさに包まれる。 静かな構内の、更に静かな一角。 よく手入れをされた青々とした芝生に、等間隔で植えられた桜の樹。 背後に佇む瀟洒な煉瓦造りの建物と相まって、桜の季節にはさぞや美しい風景を提供してくれるに違いない。 しかし残念な事に、今は夏。 頂点に達した陽の光が、燦々と緑豊かな木々に降り注いでいる。 年々最高気温を更新してくれる気候に比例して、去年より強く感じる焼け付くような暴力的な日差しも、木陰に入ってしまえば然程気にはならない。 煉瓦造りの建物は、専門書ばかりを詰め込んでいる第二図書館とは名ばかりの書庫の為、普段は滅多に人が立ち入る事は無い。 春にしてみても、桜の季節にお弁当を広げて花見をするなら、メインストリートの桜並木の方が圧倒的に人気がある。 此処が賑わうのは、学祭の時と四年生の卒論の追い込みシーズンだけだ。 気の合う友人と他愛ないお喋りに花を咲かすのは嫌いというわけではないが、 頭痛持ちで余り騒がしいのが好きではないにとって、この場所は構内でのお気に入りスポットになっている。 すぐ傍に川が流れていることもあって、時折吹く風はひんやりとして気持ちが良い。 今日は三限が無くて四限があるので、それまでの時間をいつものように此処で一人のんびりと過ごそうと、学食で昼ご飯を食べた後足を向けた。 適当な木陰を見つけて建物の脇に入り込んだ時、不意に名を呼ばれ、 振り向いた瞬間には二の腕を掴まれ、あっと思った時には壁に押し付けられていた。 細身の眼鏡が、咄嗟に振り回した自分の腕に当たって足元に落ちた。 「八戒先輩?」 見開かれた、やや吊り気味の猫を思わせる大きな茶色の瞳が、吃驚するほど間近にあった翡翠の双眸とかち合った。 かくして、冒頭の状況が出来上がったわけである。 は、突然現れたこの青年を知っていた。 だが、どうしてこのような状況になるのかがわからない。 とこの青年――猪 八戒は、同じサークルの先輩と後輩である。 だが、四年生である八戒は、どこの大学の四年生もそうであるように、滅多に大学には来ない。 四年生大学の卒業に必要な単位数など、その気になれば二年間ちょっとで全て取ってしまえる。 四年生が大学に来るのは精々、必須科目の講義と週に一回あるゼミの為だけである。 ――今日って、ゼミの曜日じゃなかったよね? サークル、ならいつも溜まり場にしている喫茶の方に行く筈。 卒論、の為に此処の図書館に来るには時期が早過ぎるような気がする。 ――何で、此処に居るんだろう? 目の前で異性に迫られているこの状況で、はそんな呑気とも取れる思考を巡らせていた。 考えあぐねているの頭上で、八戒がフッと笑った。 「さん…」 「八戒先輩…」 見つめあう二人。 「キスする時くらい、眼、閉じません?」 耳障りの良い低くて柔らかい声に囁かれ、の思考はフリーズした。 「………は?」 自分でも、何て間抜けな声なのだろう、と思った。 八戒がクスクスと笑う。 翡翠の瞳に宿る、悪戯っぽい色。 「もしかして、キスするの初めてですか?」 「えっ」 流石のも、図星を突かれて目元を染めた。 と、いうか、この期に及んで漸く、は八戒が自分に何をしようとしていたのかを理解した。 かっ、と頬が熱くなる。 今の今まで、男に迫られているというのにどこか淡々としていたの態度が一変したことに、八戒は声を上げて笑った。 「可愛いですねえ」 サークル内の女子どころか、大学内でもトップ3に数えられる人気を誇る美青年の、破顔した顔を間近に見てしまったことで、は耳まで真っ赤になってしまった。 八戒は笑いを収めると、再びの赤く染まった頬に手を添える。 「眼、閉じて下さいね」 囁かれた言葉に、の固まっていた思考が、振り出しに戻った。 すなわち。 「あのぅ…どうして私と八戒先輩がキスをするんでしょう?」 そう。 八戒とは、単なる同じサークルの先輩と後輩というだけ。 しかも、まともに彼と会話をするのは、四月の新歓コンパ以来だ。 一体、何がどうなればそんな台詞が八戒の口から出てくるのだろう? 眉を顰めてが八戒を見上げると、彼はきょとん、とした顔をしていた。 「あんな意味深なお手紙を下さるものですから、僕はてっきり――」 「手紙?」 の顰めた眉が益々眉間に寄った。 すると、八戒は少しだけ寂しそうな、どこか傷ついたような微苦笑を漏らした。 「覚えていないんですか?人をその気にさせておいて、酷いですねえ」 「はあ…」 ――手紙…手紙。手紙、って、何? 自慢ではないが、は物覚えのいいほうではない。 加えて、物忘れの方も、どちらかといえば、よくしているような自覚がある。 思い出せず、困って取り敢えず苦笑してみる。 すると八戒は、物憂い微笑を浮かべたまま、端麗な顔を傾けた。 「責任、取って下さいね?」 「えっ――」 どうしよう。 の頬が引き攣る。 八戒から離れようにも、後ろは壁だし、第一、彼の腕がしっかりの腰を抱えていて身を捩ることさえ出来ない。 顔を背けようにも、顎を掴まれていてそれも叶わない。 慌てている間にも、彼の唇はもう目の前で―― 「おい」 唐突に二人の間に降って来た、不機嫌を凝縮したような低い声。 「八戒。女を口説くんなら、俺の居ねぇとこでやれ」 「…三蔵」 今正にに触れようとしていた彼の唇が離れ、不機嫌な声の持ち主の名を紡いだ。 見上げる八戒の視線の先を追うと、図書館の二階の窓に肘をかけ、こちらを見下ろす冷ややかな紫暗の瞳とぶつかった。 「貴方こそ、覗きなんて無粋なマネはやめて欲しいものですね」 綺麗に微笑みを浮かべての八戒の皮肉に、三蔵はフンと鼻を鳴らした。 「エロ河童と一緒にすんじゃねぇよ。大体、講義はどうした」 「ご心配なく。悟浄に代返頼んできましたから」 「そいつは結構なことだな」 「ええ。ですから、邪魔しないで下さいね?三蔵」 素晴らしく友好的な会話。 空々しくも冷え冷えとした空気。 は、面倒なことになる前に、さっさとこの場を退散することにした。 が。 「どちらへ行かれるんです?さん」 とん、との前に突き出された八戒の腕。 チラリと横目で見上げると、八戒はにっこり。 「あー…四限が始まる前に、図書館に本を返しに行こうかと」 嘘ではない。 単に、今の今まで忘れていただけである。 の台詞に、また上から声が降ってくる。 「だったら、手続きしてやるからさっさと上がって来い」 三蔵は言うなり、の返事を待たずして窓から姿を消した。 八戒は、仕方ないですねえ、と呟き、身を屈めての足元に落ちていた眼鏡を拾い上げた。 「あ、どうも」 ペコリ、と頭を下げてから、受け取ろうと手を伸ばすと、八戒はその手を遮って言った。 「顔、上げて下さい」 「え?」 「早くした方がいいですよ。三蔵はああ見えて気が短いんです。待たされるのが大嫌いなんですよ」 戸惑うを、八戒が促す。 仕方なく八戒と向き合い、彼を見上げるように顔を心持ち上げた。 傍から見れば、再び立派にラブシーン直前のカップルだが、にその自覚は皆無である。 八戒の長く綺麗な指が、丁寧な仕種での顔に眼鏡をかけた。 「有難う――」 ございます、と。 礼を言おうとしただったが、その言葉は驚愕に飲み込まれてしまった。 チュッと軽いリップノイズをの耳に残して、彼の唇がの頬から離れた。 「では、また」 呆然と固まるを残して、八戒は颯爽とその場を立ち去っていった。 「何?これ…」 頬に手を当てて小首を傾げる。 純粋な疑問しか浮かんでいない彼女の表情を、もしも彼が見たのなら、きっと必死になって笑いを堪えたことだろう。 の再びフリーズした思考を現実に引き戻したのは、ドンドンッと乱暴に窓ガラスを叩く音だった。 が顔を向けると、金糸の青年が、眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいる。 早く来い、とでも言うように左手の人差し指を動かす。 「ああ、はい!今行きまーす!!」 答えてから、思い出す。 そう言えば、図書館という施設を考慮してか、この建物の窓は防音性がかなり高いものだったと。 まあ、例えの言葉が届いたとしても、あの青年の機嫌の上昇に役立つことはなかっただろう。 建物の正面に回り、ステンドグラスの洒落た扉を開け、中に入る。 受付カウンターの向こうに咥え煙草で立つ三蔵に笑いかけながらも、はちょっと首を傾げた。 「図書館って、禁煙なんじゃ…?」 微笑と共にそう声をかけてきたに、三蔵は眉間の皺を更に深くした。 「…アイツと同じこと言ってんじゃねぇよ」 低く呟かれた台詞に、の顔にありありと疑問の色が浮かんだ。 三蔵の言う『アイツ』と言うのが、一体誰を指すのか皆目検討がつかないせいだ。 の微笑みが困ったような微苦笑に変わると、三蔵は心底嫌そうな顔をした。 「いいからとっとと本を寄越しやがれ」 苛立たしげな声と口調。 は慌てて持っていたバックからB5サイズの分厚い本を取り出し、カウンターに置いた。 「…上には煙草部屋があんだよ」 低く呟かれた三蔵の言葉は、多少言い訳めいていた。 「はあ」 何故、図書館の中に喫煙室があるのか? そもそも、そんな部屋があったのだろうか? 疑問の尽きないだったが、取り敢えず頷いておいた。 彼の機嫌がこれ以上降下すると面倒そうだからである。 「学生証」 パソコンで貸し出し記録や蔵書の管理をしている為、手続きにはIDカードを兼ねた学生証が必要である。 三蔵という男は、余り口数の多い人物ではないらしい。 恐ろしく簡潔に、用件だけを口にする。 咥えていた煙草を、おそらくはその煙草部屋とやらから持ってきたのであろう灰皿に置き、眼鏡をかけた三蔵はキーボードを慣れた手つきで叩き始めた。 先程の八戒同様、構内人気トップ3に数えられる四年生の玄奘三蔵。 は、その辺の女性より余程整った白皙の美貌を、じっと見つめる。 ――前に何処かで、会ったことがあるような… 記憶の棚を漁ってみるが、脳内情報整理というものが得意でないにとって、その作業は実りの無いものに終わった。 ――何処だったかなー? 考え込むの耳に、ピーというエラー音と、チッという三蔵の舌打ちが聞こえてきた。 が訝しげに三蔵を見上げると、彼はパソコンのディスプレイを男性にしては細い指で叩いた。 「返却期限を三ヶ月過ぎてる。ブラックリストに載ってるぞ、お前」 呆れ顔の三蔵。 「え?」 思わずカウンターに身を乗り出して彼が示す画面を見ると、『要注意滞納者』と言う題名のリストに、、という名が確かに記されていた。 その横の特記事項の蘭に『該当図書返却後、一ヶ月間貸し出し禁止処分』とまである。 「入学して初めて借りた本で、いきなり長期滞納とはな」 「あはははは」 ――そう言えばこの本、入学前に出された宿題のレポート書くのに三月頃に借りた本だったっけ。 は乾いた笑みを漏らした。 三蔵はそんなを一瞥し、「益々似たもん同士だな」とにとっては意味不明の言葉を呟いた。 「どうする?」 三蔵の問いに、は小首を傾げる。 「何がです?」 「このままじゃ一ヶ月本が借りられねぇだろ」 「はい、まあ」 「いいのか?」 それで、何となく三蔵の言いたい事を察したは、にっこりと笑った。 「大丈夫ですよ。私は一年なのでまだゼミはありませんし、 講義のレポートぐらいなら、此処の専門書じゃなくても第一図書館の方で何とかなります」 の言葉に、三蔵は皮肉気に唇を歪めた。 「このブラックリストは向こうと共通だぞ」 「………」 が今期に履修している講義には、毎回レポート提出を義務付けられているものが週に一科目だけあった。 本が全く借りられないとなると、レポートを書く為に一ヶ月間図書館通いをする羽目になる。 それは、流石に困るし面倒臭い。 だが、は気を取り直してにっこりと笑った。 「借りずに済ませればいいだけの事です」 その返事に、三蔵は紫暗の瞳を片方だけ細めてを見つめる。 「リストから削除してやろうって言ってんだがな」 「いえ、それは悪いですから遠慮します」 即答。 は、人に借りを作るのは嫌いだ。 「そうか」 「はい」 生真面目に頷いたに、ほらよ、と三蔵は学生証を突っ返して眼鏡を外し、黒のワイシャツの胸ポケットに引っ掛けた。 どうやら返却手続きは済んだようだ。 「どうも」 礼を言って学生証を定期入れに挟む。 そのままお辞儀をして出て行こうとしたを、三蔵は呼び止めた。 「」 「何ですか?」 「ちょっと顔かせ」 「え?」 唐突な三蔵の言葉に、が驚いて立ち止まっていると、彼は自分はさっさと階段へと向かいながら、肩越しにこちらを振り返る。 「何ボーっと突っ立ってんだ。早く来い」 「あの?」 「何だ?」 立ったまま動こうとしないに、三蔵が苛立たしげな視線を向ける。 何の説明もないのに、がついて来て当然だと言わんばかりの態度をとる三蔵に、流石のもいつものように上手く笑えない。 それ以前に、先程の八戒との遣り取りから今までのを彼女の友人達が見ていたなら、『が百面相してる』などとさぞかし驚くに違いない。 本来、は思っていることをストレートに顔に出すタイプではないのだ。 まあ、この場合は相手が悪過ぎるというものなのかもしれない。 もし彼女が人並みに皮肉を思いつく性格をしていたのなら、 八戒と三蔵は人気者トップ3ではなく、曲者トップ3に変更した方がいいんじゃないか、ぐらいは考えたことだろう。
presented by ......羽柴あおい様(2004.8/27) |