チル散ル満チル、10







とりあえず、と名付けられた子どもがやらなければならなかったのは、体調管理であった。
明らかに平均より下回る体つきをせめて標準のそれに近づける。
……ことよりも、まずはまともに食事ができるようになることが、にとって最優先課題だった。

何しろ、今までは眠らされた状態で流動食を直接胃に流し込まれてたのだ。
そんな子どもがいきなり主食、主菜、副菜……など固形物を咀嚼して食べることなどできようはずもない。
そのため、八戒の徹底監修の下、はゆっくりと、そのコンディションを整えることとなった。
悟空あたりは、明らかにまずそうな食事をが食べていることに顔を顰めていたが。
こっそりチョコレートを食べさせたら一口で戻してしまったのを見て、渋々その食事内容の必要性を理解したらしい。

が、やはり、悟空にはどう見てもまずそうにしか見えない。
が文句も言わず、黙々と食べているのが信じられないほどだ。
ひょっとして、思うほどまずくないのでは?と、溢れる好奇心が抑えられず、悟空はある日とうとうの食事を一口だけもらった。


「……うぇっ」


すぐに吐き出した。
無味無臭、とでも表現するのがもっともふさわしい、どろどろの物体は見た目通りのまずさだった。


「……だから、止めた方が良いですよ、って言ったでしょう?」


若干涙目の悟空に、八戒でさえ呆れ顔だ。
病人食がまずいのは万国共通な上、が食べているのは病人食の最高度ハイエンドとでもいうべきもの。
仕方がないとはいえ、こんなものを食べさせていることに八戒も罪悪感が募っているというのに。
わざわざ一口もらって吐き出すとは何事だ。


「…………」


幸いにも、は自分が食べているものをまずいまずいと連呼されても気にしないらしく、 ぼんやりと悟空を眺めてから、またゆっくりと食事を開始していた。


もくもくもく。


草食動物のようにのんびりとした速度だが、恐らくはこれがこの子にとって普通のそれなのだろう。
一口飲み込むたびに酷く消耗したような様子を見せるので、特に急かすことはしない。
悟空が聞いたら大げさな位驚きそうだが、食事という行為も存外エネルギーを使うものなのだ。
意欲が必要で、握力が必要で、道具が必要で。
人によると、準備すら必要だ。
というか、それらを抜きにしても、顎を使うので普通に疲れる。
実はあまりに疲労しているので、その内食事を嫌がるかもしれないとさえ思っていた。
その心配は杞憂に終わったけれど。
けれど、何故と疑問が残る。
何故、はそこまでして生きようとするのだろう、と。
食事も睡眠も、生きるために必要な行動だ。
だが、裏を返せば、生きる気がなければ、それらは必要としなくても良い。
なのに、はそれらをきちんと行う。必要とする。
それは、つまりは生きる意志があるということで。
今まで、お世辞にも幸せだったといえないこの子どもは、何を思って生を望むのだろう。

本当に、今まで生きていたのが不思議なほど、は酷い生活を強いられていた。
ベッドに縛り付けられ、起きるのは誰かを殺すその時だけ。
初めて逢った時に着けていた銀の首輪は、麻酔針が仕込まれている特殊な代物で。
用さえ終われば、すぐさまその針で意識を奪われる。
には、本当に寝るか、殺すかの生活パターンしか存在しなかった。
調べてみれば、本来であれば体力を保つために行う最低限の運動でさえさせてもらえず、 注射と他者によるマッサージだけで、身体を保ってきたということだった。

よほど、物心つく前の生活が素晴らしいものだったのだろうか?
その後の日々が、生き地獄に等しくても耐えられるほどに。
……いいや。それはない。
が生きてきた場所は、過去の幸せで耐えられるほど生易しくはない。
だが、気にはなっても、そのことをがきちんと考え、言葉にできるようになるのは随分先の話だろう。
そのため、八戒は今、が少しでもまともに生きていけるように、手助けをするだけである。







「あれ?」


と、八戒がそろそろに飲み物を与えようと準備していたその時、 の様子をひたすら見ていた悟空が声を上げた。


「どうしました?悟空」
「八戒、の爪切りすぎじゃねぇ?」


彼の視線の先にあったのは、子どもの小さな桜色の爪だった。
それは肉ぎりぎりのところで切りそろえられており、白い部分などまるでない。
明らかに深爪である。
おそらくは、少しどこかにぶつかっただけで血が出てしまうことだろう。
普段、悟空に対しては白い部分を1、2ミリ残すようにと指導する八戒らしくないミスに、 ひょっとして悟浄あたりがガラにもなく世話をしにきたのかと思う。

がしかし、予想に反して、八戒は普段より若干硬い声音で「それはそれで良いんです」と答えた。


「え?でも……」
「良いんですよ。本人にもきちんと確認を取ってから削りましたし。
そうですよね?
「?」
「この間、『爪を短くして良いですか?』と訊きましたよね?」
「……うん。八戒、言った」


食事に集中していたのか、細い首を傾げていたに、八戒は丁寧に質問をし直す。
すると、はこっくりとその言葉に頷いた。
お互いにそのことに対する何のアクションも戸惑いもないことから、これが彼らの日常なのだろう。
悟空以上に言葉が拙いに、言葉を変えるという行為はなんら違和感がない。
そのことは良い。
だが、その内容と態度は悟空に微かな混乱をもたらすものだった。

なんというか、らしくないのだ。
まるで己のミスを頑なに否定するかのように、説明を省くなど。
およそ、八つの戒めをその名に刻む、彼という人間らしくない。


「?」


だがしかし。
その感想が酷く的外れであり、彼が決してミスなど犯していないことを。
それどころか、おそろしく彼らしい慎重な熟考の末のそれであったことを、 悟空はこの数時間後、八戒自身の口から語られることとなる。

それは、久しぶりに全員が揃ってのミーティングの際、八戒が報告と称して発した言葉だった。



は……あの子はD.L.L.R シンドロームかもしれません」



正直に、悟空にはその単語の意味が全くもって分からなかった。
だから、その言葉を聞いた瞬間、悟浄や三蔵までも取り巻く雰囲気を変えたことに、 いまいちピンとくることがなかった。
普段、不遜なまでにふてぶてしい彼らが、その言葉だけで戦慄にも似たものを抱くなど、誰が思うだろう。
だが、それほどに、禍々しい言葉だった。
『D.L.L.R シンドローム』、それは――


殺戮症候群D.L.L.R シンドローム、だと?」


端的に言うならば、そう呼称される、最悪の性質。
快楽殺人者など及びもつかないほどに希少で、しかし貴重などということは決してできない存在。


「それは確かなのか?」
「確定とまではいきませんが、おそらく」


流石に、あまりに情報が少ないことから、三蔵も不審そうな表情だった。
八戒とて、精神科医でも脳科学者でもない上に、参考とすべき事例がないため、 あくまでも『かもしれない』の域は出ないのだが。
しかし、直感として、彼はをそうだと仮定する。
そうでもないと、あの異常性を、定義できない。


「?D.L〜 シンドロームって??」
「あれって眉唾もんじゃねぇのかよ?」
「……世界的に数例ではあるが、存在は確認されている。が、にわかには信じがたいな」


そして、一種、緊張すら含んだ言葉に対する反応は三者三様だった。
あくまでも疑わしそうにする三蔵に対し、まず意味が分かっていない者一名、心情的にそれを否定したい者一名。
まぁ、このようにそれぞれ違う個性を有するがゆえに彼らはなんとなくバランスを保っているのだが。
そして、予定調和のように八戒は話を進めていく。
……決して、進めたいワケではないのだけれど。


「五十六回」


唐突とも言えるタイミングで出されたその言葉に、だが、皆の反応が遅れる。


「なに?」


突然、回数だけ提示されても、意味が分からない。
八戒も、特に焦らすつもりはないようで、すぐに彼らの意図を組んだ言葉を口にした。
すなわち、無言の質問に、回答を。


「これが何を示す数字か分かりますか?が僕を殺そうとした回数ですよ」
「「「!」」」


彼らが子どもを引き取ってから、たった日にちを鑑みるまでもなく。
それは、気持ち悪いほどの異常だった。
だが、もっと気持ち悪いのは、が、彼を殺そうとしたその回数などではなく。


「あの子は、僕が少し隙とも言えない隙を見せた時に、手段を選ばず、真っ向から殺しに来るんです。
そして、それが失敗すると、不意打ちが失敗して悔しそうにするでも、攻撃したことに満足感を得るでもなく――


首を傾げるんですよ。ただ、不思議そうに。


「…………」


たまたま、その五十六回の内の一度に遭遇したことのある悟浄は、その時のことを思い出す。
八戒は何の容赦もなく、の関節を締め上げ、その動きを封じていたが、 そのことに対する苦痛も不安もなく、子どもは確かにきょとん、と目を丸くしていた。
何故、今自分が八戒に拘束されているのか、まるで分からないように。
通常、どんな催眠術であっても、殺人という行為はさせられないはずなのに、 は術にかけられているワケでもなく、自覚なき殺人を行う。


「なぁ!だから、そのなんとかシンドロームってなんなんだよ!?」


がしかし、その概念を知らない悟空にしてみれば、
そのエピソードは必要以上に削られた爪を納得するものではあっても、 気持ち悪さに納得できるようなものではなかった。
空中で交わされるような心もとない会話にとうとう我慢できず声を荒げると、 その気持ちを察した悟浄が、端的に、それを説明し、八戒がそれを補足する。


殺戮症候群D.L.L.R シンドロームつーのはな、つまりはとにかく人を殺したくなるっつー、自動症の最高度ハイエンドだ」
「自動症?」
「悪癖みたいなものですよ」


癖。
その言葉を、悟空は反芻する。
意識して行っている訳ではなく。そこには思想も道徳も入り込む余地はない。
貧乏ゆすりに、舌打ちに、足を組むことに、一体なんの意図があるという?
そして、の行う殺人行為は、それと同等だと、八戒は言う。
ただただ、殺すだけ。
好意も悪意も関係ない。
殺す相手が恩人だろうと友人だろうと恋人だろうと一切合財、その性質には影響を及ぼせない。
それこそが殺戮症候群であり、辺り構わず誰彼構わず・・・・・・・・・・とにかく殺してしまいたくなる神経症の一種・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「……がそうだって言うのか?でも、それって…」



「ええ。救われません」



言いよどむ悟空に、八戒は、彼にしては珍しく断言した。

誰もあの子を救うことはできない。
何故なら、誰も、あの子を理解できないから。
罪悪感なく人を殺せる存在。
人を殺すことは悪だと説くこの世界で、人を殺さずにはいられない存在など、許されない。
という存在を定義づけたところで、後ろからの理由付けは価値がないのと同様に。


「ある意味、あの子が組織にいることは必然だったのかもしれませんね」


ここなら、人殺しは一つの生きる術だから。


「…………」


の置かれていた環境以上に、まるで救いのない話に、誰もが言葉を失ったかに思われた。
がしかし、不愉快そうに、しかし難しそうに眉根を寄せていた悟空だけは、 しばしの沈黙の末に言葉を発する。


「なぁ、癖ってことは、は別に人殺しが好きな訳じゃないんだよな?」
「ええ。快楽殺人者と殺戮症候群D.L.L.R シンドローム患者の最も大きな違いはそこです」


殺したくなる、と言っても、別に人間嫌いだとか、血を見るのが好きだなどということはないのだ。
ただ、殺すことに違和感も罪悪感もなく。
人も物も虫も動物も、区別がないとでもいうような。
ただ、そこにいるから、ということが殺人の理由となる。
ある意味、欲で動く快楽殺人者よりそれはよほど恐ろしい殺人動機だった。

もっとも、八戒は殺戮症候群D.L.L.R シンドロームなどではないので、事例を総合したのと大幅に想像力を働かせた考察でしかないが。
がしかし、マイナスな考えを働かせる八戒とはまるで違う思考回路を持つ少年は、 その言葉にぱっと表情を明るくさせた。


「じゃあ、これからは楽しいこと教えてやらなきゃ!」
「…はぁ?」


当然意味が分からず、問い返す悟浄だったが、そんな彼に悟空は持論を展開する。


「だってずっと嫌なこと事無理矢理やらされてたんだろ?
だったら、楽しいこととか美味いもん一杯食わしてやんなきゃ、つまんねぇじゃん!」


別には殺人が嫌いだなどとは一言も言っていない、 っていうか、結局最後は食にたどり着くんかい、と色々つっこみたくなるような持論ではあったけれど。


「……だな」

その能天気ともとれる言葉に、悟浄の胸糞悪い気分がほんの少し浮上したのは確かだった。





......to be continued