チル散ル満チル、7







その子どもは、イギリスの北、農作地帯のとある農家に生まれた。
愛らしい矢車草の花の青コーンフラワーブルーの瞳に薔薇色の頬、輝く小麦色の髪。
誰もがその子どもの誕生を祝福していた。
だが。
子どもは決して『普通』ではなかった。
自我が形成されるよりも前に発覚した、身体的な異常。
それは、周囲に戸惑いとおそれを振りまく結果となった。

その姿に若干の疑問を抱いた医師が調べた所によれば、子どもには性別がなかったのである。
男ではない。女でもない。
そして、男であり女であった。
両親はその事に打ちのめされた。
しかし、愛らしい我が子を慈しむことになんの躊躇があろう?
そう考えた彼らは、その子どもを大切に大切に育てていった。
そして、幸いにも子どもは特に健康が脅かされることなく、3つの年を越した。

しかし、ある蒸し暑い夜。
子どもは両親を殺された。
それは性別のない子どもを面白がった愉快犯の仕業だったかもしれないし、ただの強盗だったのかもしれない。
とにかく、子どもはその日から独りになった。
殺されなかっただけ運が良いと警官は言ったが。
ナイフによってずたずたにされた身体と心には確かな傷が残った。
目を覚ませばそこにあったのは、見たこともない孤児院の天井だけだった。

子どもは、その順応性の高さからすぐに孤児院での生活に慣れた。
心が完全に停止していた事による副産物、ともいえよう。
ところが、子どもが幾ら孤児院に慣れようとも。
孤児院の子らが子どもに慣れるとは限らなかった。
せめて子どもが男か女か。
見た目や態度だけでもどちらかに寄っていれば違っていたかもしれない。
けれど現実は、中性であるその子どもの周りにトラブルを巻き起こした。
何処へ行っても。
何をしても、子どもの周りでは問題が絶えなかった。
その結果、子どもは数ある孤児院を転々とすることとなる。

そして、とある協会に併設した孤児院にいた時のこと。
子どもは院長に外へ遣いに出されていた。
子どもが院内にいると、諍いが起きる事を承知していた院長は、子どもをそうやって度々外に出していたのである。
(昨日はスプーンが。今日はフォークがないと子どもは責め立てられていた)
子どもは文句のひとつも言わなかった。
その日も、子どもは何の反抗も反応もせず、院長に言われた用事を済ませるべく、街を歩いていた。
街は不気味なほど静かだった。
それは近年、幼児の誘拐事件が多発しており、住民達が夕方以降、子ども達を外に出さないようにしていた為である。
院長もその事を知っていたはずだった。
知っていて、外に出した。
子どもは何もしていないにも関わらず、それほどまでに疎まれていた。
それは大人として責められるべき行動だったのだろう。
だが、人として考えた場合には、一体どうだったのだろうか。
その答えを、子どもはいまだに持ち得ていない――

そして、その日、院長の目論見通り、子どもの口を塞ぎその小さな身体を捕まえた、腕があった。
子どもは驚いた。
驚いて、思わずその手で握っていたフォークを相手の首筋に突き立てていた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何故、子どもがフォークなどというものを身に付けていたのかは、誰にも分からない。
本人でさえ、いつそれをポケットにねじ込んだのか、全く身に覚えはないだろう。



この世界には、間違いなくそのような事象が、行動が、生き物が、存在する。



そして、勢いよく己に吹き付ける熱く、生臭い液体に子どもは恐慌状態に陥った。
それは、両親が死んだ際にも、自身から流れ出たものに酷似していたからだ。
戦慄した子どもは、くず折れる男の身体を踏み越えて駆け出した。
逃げたのだ。
子どもは、間違いなくその場から逃走するつもりで駆け出したのである。
がしかし。
子どもの意識とは裏腹に、無意識が向かったのは路地の奥。
気がついた時には、驚きに目を見開くもう一人の男の右眼を・・・・・・・・・・・・・・・・・・スプーンで抉り出していた・・・・・・・・・・・・
そして、浴びるのはやはり戦慄の赤。
子どもは辺りを包むうめき声を掻き消すかのごとく、そのか細い腕を振るい続けた。

血は躍り。
筋肉は裂き乱れる。
闇の凝った路地裏で、彩りを添えたのは神経だっただろうか。

やがて時間は流れ。
残されたのは真っ赤な子どもと静寂と。
わずかに痙攣を繰り返すふたつの惨殺死体だけだった。

血に塗れた己を自覚し、子どもは自身が人でなかった事を知った――







その後のことは、正直、子どもの記憶にはない。
というのも、身内の人間が年端もいかない子どもに惨殺されたことを知った『組織』が、孤児院から子どもを引き取ったからだ。
どこまでも白い部屋に押し込まれ、子どもは様々な検査を受けさせられた。
軽いものから、体に負担のかかるものなど、それは本当に様々で。
突然、その身に降りかかった苦痛に、子どもは成す術もなかった。
そして、ある時。
子どもは自身に何がしかの機具を取り付けようとしていた研究員の首筋を噛みちぎっていた。
それからは、寝ては起きて。
寝ては殺しての繰り返しだった。
時に相手は非力な研究員の時もあったし、血走った目をした筋肉質な男の時もあった。
思考している暇などない。
ただ、向けられた殺意から、奇異の視線から逃れようとしただけ。
それが自身の首を締めあげることになるとは知らず、子どもは殺して殺して殺し続けた。
長い期間ではあったのだと思う。
けれど、子どもにはその長さを体感するための知識が圧倒的に足りなかった。
夢も。現も。
根幹となるものがなければそれは同じもの。
毎日毎日繰り返される営みに、子どもは自分が生きているのか死んでいるのかも分からず、
周りを囲む人間で、認識できたのはせいぜいがニイくらいのものだった。

嗚呼、けれど。
最近になって、子どもはいつもと違う種類の人間を見た。
見た、と言っても暗い施設の中だったので、どんな連中だったのかはよく分からないが。
それでも、分かることがある。

力強い、声。
優しげな、声。
丁寧な、声。
元気な、声。

なんとも多様な声が、自分に対して向けられていた。
それが子どもにはなんとも久しぶりのことで。
いつもの場所に戻ってきた時、それがもう聞けないのが少しだけ妙な感じだった。
そして、真白の空間で変わらぬ時を過ごし、子どもはあれが夢だったのではないかと思うともなしに思うようになった。
そもそもが、夢も現実もよく分からないような生活だ。
自分に普通に接してくる人間など、幻でなくてなんだというのか。


(変な、夢……)


決して、気分の悪い夢ではないけれど。
でも、夢から起きた時に最悪の気分になるなら、それは子どもにとって悪夢以外の何物でもなかった。


――。オイ、起きろガキ」


嗚呼、今日もニイがやってくる。
自身の意識が覚醒し、そのことを認識すると共に、子どもはもっとも近くにいた気配へ向けてその細い繊手を伸ばした。


がつっ


「……チッ、冗談じゃねぇぞ。このガキ、無意識に目玉抉りに来やがった」
「まぁまぁ、三蔵。抉り取られなかったんだから良かったじゃないですか」
「きししっ!悟浄なら絶っっ対ぇやばかったなー今の!」
「んだと、このクソ猿っ!」


賑やか、というには少しばかり騒々し過ぎる言葉の応酬に、子どもはぱちりと目を開ける。
視界には見慣れた白、ではなく、鮮やかな色の数々。


「…………?」


銀の短銃で阻まれた指の先にあったのは、それは美しい紫暗の瞳だった。
色などよく分からない子どもであっても、その力強さを知れるような、そんな瞳。
その珍しい代物を、子どもは生まれて初めて認識した。


「おや、起きたようですね。僕のこと、覚えてますか?」


そして、自分に向けられた、丁寧な言葉。
なんとなく、最近覚えのあるそれに、子どもは小さく首を傾げた。


「はっかい?」


とりあえず、呼ぶだけ呼んでみれば、目の前の青年はそれは嬉しそうに笑み崩れた。


「ああ、良かった。覚えててくれたんですねぇ」
「あ、じゃあ、オレはオレは!?」
「……?」
「っていうか、八戒以外名乗ってねぇっつーの」


ぎゃあぎゃあと、耳に痛いほどの騒がしさ。
何が何だかは分からないが、しかし。


「オレ、悟空っていうんだ!なぁ、お前の名前は?」


子どもはこの時、何かが始まるのを感じた。





......to be continued