チル散ル満チル、6







ぎぃ ぎぃ


耳障りな音を立てて、椅子が揺れる。
あまりに背もたれを酷使するがゆえに紡ぎだされるその音は、酷く耳につくもので。
気づけば、次郎神と呼ばれる初老の男は、自身の上司を凝視していた。


「何か、考え事ですかな?観世音菩薩」


コードネームを呼びながら、それにしても、お互いなんて不似合いな呼び名だろうとぼんやり思う。
自分はそんな英雄視されるような人物ではないし、目の前の女性はいわずもがな。
如来とつくよりはマシだったかもしれないが、菩薩は幾らなんでもなかろうと思う。
というか、仏のコードネームを女性につける時点で大間違いだ。

と、そんな風に、余計なことをつらつら考えての発言だったので、 質問したにも関わらず、彼は菩薩が珍しくもまともに答えた一言を聞き逃した。


――と思ってな」
「は?今、なんと?」
「ああ?だから、面白い餓鬼に連中も目をつけたもんだと言ったんだよ」


『餓鬼』。
その一言に、先日自分が調べ上げた、生体兵器について研究する部署に所属する子どもを思い出す。
というか、生体兵器そのものな、子どものことを。


「面白い、ですか……。確かに、珍しくはありましたがな」
「何言ってやがる。面白ぇじゃねぇか」



「あの年齢で、殺しの腕を買われて連れてこられたなんざよ?」



それも、一般人が。
殺しの訓練を受けたワケでも、天性の殺し屋の血を引いているワケでもない子ども。
そんな子どもが、ある事件を境に組織の実験材料になったなどと、誰が想像するだろう。


「くくっ。本当に妙な連中だな。そんな変わり種と出逢うなんざ」


そう。本来ならば、その子どものことは研究所での機密事項。
別に人体実験が倫理に反してるとかの、ごく一般的な理由ではなく、 その子どもを使って行われていることを調べてみればその理由は明白で。
間違いなく、その存在は他部署には全く知られてはいけないものだった。
だから、出逢うことはおろか、関わることも、存在を知ることすらなく。
彼らは生きて、やがて死んでいくはずだった。

けれど、彼らは出逢った。
この広い広い世界で。
些細な偶然が積み重なった結果。
……こういうことを世界では縁が逢った・・・・・、などと言うのだろう。


「出逢うだけならいざ知らず、深く関わろうとしたのが私には意外でしたな」


次郎神は知っている。
彼らがそんな甘い人間ではないことを。
稚い子どもが理不尽な扱いを受けていたとしても、自分から誰かに借りを作ってまで助けるような輩ではないことを。
それが、この薄汚い世界で生きてきた彼らの処世術であることも。
だから、最初、菩薩に彼らが助けを求めたというのが酷く不思議だった。


「意外?」


けれど、その言葉に、菩薩は片眉を上げる。


「意外、ねぇ?別に意外でも何でもねぇと俺は思うがな」
「……と、言いますと?」
「あいつらは確かに薄情だ。自分さえ良けりゃ良いと公言して憚らねぇ、人でなしだ。
 でもな……」


「奴らは貪欲でも、あるんだよ」


「それは……そうでしたな」
「ああ、そうだ。だから、一度あいつらの視界に入ったのが、その餓鬼の運のツキだな」


ようは目を付けられたってことだ。
そう言って笑う彼女は、今だけならば菩薩と言って通じそうな、そんな笑顔だった。







「あああああーもう!一体何!?何だって言うの!!」


同時刻――
苛々と、噂の渦中にある研究施設で、一人の女性がヒステリックな声を上げていた。
白衣は着ているものの、おそらくエステサロンにでもいるのが似合いのその女性は、爪を噛んで苛立ちを紛らわそうとする。
がしかし、眉間に盛大に寄った皺から、その効果は薄いことが窺えた。


「まぁまぁ。玉面公主さま。せっかくの綺麗な爪が傷んじゃいますよ〜?」
「ニイっ!!」


ぎろりと睨めつけられた、同じく白衣の男――ニイは、しかしそんな視線どこ吹く風といった様子で、ひょいっと気軽に肩を竦める。
基本的に、人を馬鹿にするのが彼のスタンスなのだ。


「そんなに冷静にしている場合じゃないでしょうっ!
貴方も早くあの餓鬼を取り戻す方法でも考えなさいっ!」
「……まぁ、確かにうさぎちゃんがいなくなったのは残念ですがねぇ。
正直、あの案件・・・・がウチには荷が重かったのは確かですし?
渡りに船だったんじゃあないですかね〜。プラマイ零っていうのが、私の見解ですよー」


目の前には、ガラス越しに見る空っぽの部屋。
病的なほどの真っ白で統一された、無感動の塊のような場所。
まるで、あれそのもののようなここが、唯一、あの子にとっての居場所だった。
ここで、あの子どもは絶えることなく、薬物と殺すべき他人を与え続けられた・・・・・・・・・・・・・・
何度も何度も何度も。
子どもは裏切り者を始末した。
人質にされる前に。傷つけられる前に。殺される前に。
この部屋が赤く染まったのを、ニイは何度見たことだろう。
白いキャンパスに鮮血の紅が酷く映えたのを、彼はよく覚えている。

そして、それを成した子どものことも。
少しだけ、あの子どもは自分に似ていたと、ぼんやり思う。
その虚無を宿した瞳が。酷く。


「確かに、多少手に余っていたのは認めるわ。
でも、あの女が勝ち誇った表情カオをしているのかと思うと、吐き気がするのよっ」


そして、ニイはその甲高い声に、感傷とも言えない思いから醒めた。
強欲、という字を人間にしたかのような女だ。
けれど、それは酷く人間という生き物そのものに思えて。
他の人間であれば嫌悪に表情を歪めるその言葉も、ニイはすんなり聞くことができた。


「ま、こちらとしては共倒れしてくれることを祈るしかないんじゃあ、ありませんか?」
「共、だおれ……?」


自身の言葉にようやく女がまともな反応を返したのを見て、彼は薄笑いをその顔に貼り付ける。
本当に馬鹿な女だ。
どうせ、あの子どもは使い捨ての消耗品。
もともと、あの子どもはニイの知的好奇心を満たすためだけにここにいたようなものだ。
そんなものと交換に面倒な仕事がなくなるなど、女にとっては良いことづくめではないか。
取引に応じたのは、デメリットを差し引いても自分にメリットがあると思ったからに違いないというのに。
自分のものを例え理由があったとしても嫌いな人間に渡したくない、などとまるで子供の駄々だ。

が、まぁ、玉面公主が目の敵にする女にしてやられたような気になっているのも分からなくはない。
――菩薩が取引を持ちかけてきたのはつい先日のこと。


『よう、女狐。最近、随分日本での案件・・・・・・で手間取ってるらしいじゃねぇか』
『……観世音っ!?なんで、アンタがそれをっ!』



菩薩は、こちらの弱みとも言えることをさらりと挙げ連ね、玉面公主の自尊心を大いに傷つけた。
その案件を担っていることは決して他の部署に知られないようにしていたというのに、一体どこから洩れたというのか。
そう歯噛みはすれど、犯人捜しなど無意味だということが玉面公主にも分かった。
もう情報は洩れているのだ。今更、犯人を見つけたからといって、それが回収できるわけではない。
そして、ほとんどこちらに接触などしてこない、自身と階級のほぼ変わらない女が玉面公主に突きつけた要求はひとつ。


『お前のところ、なんでもすげぇ餓鬼がいるらしいじゃねぇか』
『……っ!』
『裏切り者の始末だの何だのに使ってんのは、幾らなんでも勿体ねぇだろ。ウチに寄越せよ』
『なっ!』
『こっちはもともとそういう部署だからな。そういう人材は幾らいたって足んねぇんだよ。
それを寄越せば、あの案件はウチで処理してやるぜ?』
『〜〜〜〜〜〜〜っ』



最初からアドバンテージをとられてしまった彼女がとれる道など、ほとんどないに等しかった。
けれど、彼女は分かっていない。
それが、どれだけあちら側にとって・・・・・・・・不利な取引だったのか、ということを。
他部署で手間取っているものを引き受けるだけの価値が、あの子どもにあるか?
答えは、否だ。
どれだけその才能を、性質を多く見積もっても、そんな面倒事とは釣り合わない。
(何故、切れ者と名高い菩薩がそんなことをしたのかは不明だが、恐らく、部下たちから何がしか言われたのだろう。 なにしろ、彼らは先日、自分に対してあれだけ激昂していたのだから)

ので、ニイは頭の悪い子どもでも理解できるよう、ゆっくり噛み含めるようにして口を開いた。


「ええ。あの案件は組織も注目しているものでしょう?
それを、功を焦った観世音菩薩のグループがウチから奪い取った挙句、失敗でもしたならば……?」
「!」
「ま。まず菩薩は失脚。彼女がいなければ、あとは烏合の衆ですからねぇ〜。
多分、楽に色々なものを横流しできるんじゃないかと思いますよ?」


そう、それが例えば特殊な暗殺部隊であろうと、幼い子供であろうと。
邪悪としか言いようのない笑顔と共に放たれたその一言に、玉面公主も、妖しく瞳を輝かせる。


「うふふふ。それはつまり、連中も、ということ……?」
「ええ、そうですよ。玉面公主さまが大嫌いな連中を好きにできるということです」


まぁ、おそらくそこまで都合の良い展開にはならないだろうな、と思いつつも、 彼は上司の機嫌を取るために、甘い甘い戯言を贈った。





......to be continued