無能である意味 あれはいつのコトだろう。 今から……大体5年、いやそれ以上前だったかもしれない。 それ程遠くなく、近くもない過去。 僕は母親に捨てられ、孤児院を捨て、全寮制の大学院に入った。 華喃にはまだ、出逢っていなかった……。 今思えば、随分卑屈で生意気な子供だったように思う。 自分でも、可愛げなんて欠片もなかったと、自嘲するほどに。 でも、そんな僕にでさえ、初めての友達――はいつも笑いかけてくれた。 一言で言えば『不思議』な子供。 彼女はいつも中庭のテラスのベンチを指定席にして、本を読んでいた。 「ねェ、君」 初めて逢った時は、確か旧約聖書を読んでいたと思う。 「ねェってば。其処の眼鏡君」 偶々近くを通った僕を彼女は呼び止めてきた。 後で聞いた話によると、僕がやって来たその日から、話がしたくて待っていたのだというコトだった。 偶然に頼ったに呆れてそう口にしたら、彼女は「でも、逢えたでしょ?」と笑った。 「……何か御用ですか」 「うん。私、って言うんだ。君ってキリスト系の教会がやってる孤児院から来た子でしょ?二つ年下の」 「だったら、どうだっていうんです?先輩」 嫌味でも言うのかと、最初は思った。 孤児だってコトは、いつも差別と隣り合わせだし、実際教室でそういう視線を感じたから。 けれど、はその歳の子供にしたら邪気のなさ過ぎる表情でこう問い掛けてきた。 「あのさ、『神様』についてどう思う?」 質問の意味がよく分からなかった。 「……は?」 「だから、神様はいるとかいないとか、大嫌いだとか、不平等だと思うとか、そういう感じの意見ない?」 質問の意図がよく分からなかった。 でも、その質問にほんの少しだけど興味が湧いたのも事実で。 僕は心底無感動な声で答えていた。 「いるかいないかは分かりませんが、無能だと思いますよ」 「……無能?」 「ええ」 もし、本当に万能であるならば、全ての生き物を幸せにしてやれるはずだから。 もし、本当に万能であるならば、こんな世界を作らなかっただろうから。 偽善という名の施ししかしてくれないシスターも。 与えられる同情に疑問も抱かない同世代の子供たちも。 ソレに縋るしかない自分自身も。 ―――いっそ、壊れてしまえば良いのに。 すると、僕の言葉をゆっくりと頭の中で反芻していたらしいは、突然笑い声を上げた。 ソレは晴れやかで。 ソレは和やかで。 綺麗な笑みだった。 「あはは。そっかー。無能かー!」 「何が可笑しいんです?」 「うん?多分、可笑しいんじゃなくて嬉しいんだよ。今までどう言えば良いのか分かんなかったから」 「……?」 「さてと、聞きたいコトも聞けたし、そろそろ戻らないと怒られるかな」 勝手な人間だと、少し思った。 「あ、そうだ。ねェ、君の名前は?」 思ったのに。 「……猪 悟能です」 どうしてなんだろう。 「明日もこの時間においでよ」 どうしてなのか、今でも分からない。 「……良いですよ」 どうしてこう答えてしまったのか……。 「やァ、いらっしゃい」 それから、僕達は毎日のように逢って話をした。 と言っても、がやっぱり意味の分からないコトを訊いてきて、僕は答えるだけだったけれど。 「えーと、今日はねェー……」 「……今日は、僕が質問しても良いですか?」 「どうぞ、どうぞ」 だから、あの日、僕は彼女の言葉を珍しく遮って、口を開いた。 慣れてからは、疑問をその場で訊かないといけない人種なのだ、と分かったが、最初の頃は分からなかったから。 「最初に僕と逢った時、何が嬉しかったんです?」 そう問い掛けてみた。 「んー。『何に対してか』っていうのの答えを、悟能が教えてくれたからだよ」 相変わらず、要領を得ない話し方だった。 「もう少し主語等を補って下さい」 不快ではないが不明だ。 すると、は今まで片時も放したコトのない本をベンチに置いて微笑んだ。 「私は『神様が無能なコト』に対して、感謝してるんだ」 「意味がよく……?」 「神様が万能だったらさ。『差』って奴がなくなっちゃうし、何より私達は生まれてなかったと思わない?悟能」 そう。例えば、同じ工場で同じ部品で同じ工程で全てのモノが作られたロボットみたいに。 考えるコトも何も同じなら、争いなんて起こらない。 感情なんてなかったら、誰も哀しんだりしない。 等しく幸福で、等しく不幸で。 ソレはまさに天国だろう。 ソレはまさに地獄と呼ぶに相応しい。 その話を聞いて当時の僕はしかし、素直に解釈なんて出来なかった。 今でも、あの時の言葉は悔いている。 「ソレは、恵まれたヒトの言い分ですよ」 「そうかな?」 「貴女はこんな処に通う位の財がある。頭がある」 「うん。そうだね。それで?」 「一度も見下されたり、劣ったりしたコトがないから、そう言えるんです」 他人より下だという『差』があった方が良いなんて、言わない。 「貴女は傲慢ですよ」 その言葉に。 「……ふぅん」 はやはり笑っていた。 「そうかもしれないね。でもさ。私は例えヒトより劣っていても同じコトを言ってるよ?いつでも。何処でも。誰相手でも」 「ソレが傲慢だって言うんです。貴女だって、誰だって、そんな状況でそんなコトは言うワケがない」 「私のコト、やっぱり名前で呼んでくれないんだね」 「名前なんて個人を識別するだけの記号でしかありませんよ」 「じゃあ、良いコトを教えてあげるよ」 愛しいヒトに呼ばれてごらん?きっと愛の唄に聞こえるから。 恋しいヒトを呼んでごらん?きっと優しい響きになるはずだから。 君の言葉は魔法の言葉。 私の言葉は憂いの言霊。 いつか君にも分かるはず。 愛しいヒトに呼ばれてごらん?きっと君は涙を零す。 恋しいヒトを呼んでごらん?きっと世界が色づくはずだ。 謡うように、は言った。 「悟能の愛しいヒトになれなくて、哀しいよ」 「僕が愛せるヒトなんて何処にもいませんよ」 「嘘吐きだね」 「本当です」 結局、僕は嘘吐きだった。 あの時のの笑顔の意味も分からない愚か者だった。 何処までも何処までも、僕は子供でしかなかったんだ。 「…………っつ」 「……?どうかしまし……」 ドサッ。 そして数分後、突然は倒れた。 その後、聞いた話で、は子供の頃から重病を抱えていたのだと知った。 長くは生きられない身体だったのだと。 本当は、大学院になんていられなかったし、寝たきりでもおかしくなかったのだそうだ。 でも、彼女は此処で生きていて。 笑っていて。 話していて。 そんなコト微塵も感じさせなかった。 ヒトより発育の悪い華奢すぎる身体だったけれど、彼女は元気そうに振舞っていたから。 けれど。 考えてみれば、彼女はいつも『死』を見つめて考えていた気がする。 『死後の世界ってあるのかな?』 『誰かが死んでも、客観的にこの世界は滅んだりしないよ』 『桜って好きなんだ。散っていく姿が厳かだと思わない?憧れだよね』 物語って簡単に終わっちゃうんだよね……』 今頃気付いた僕こそ、間抜けだった。 『そうかもしれないね。でもさ。私は例えヒトより劣っていても同じコトを言ってるよ?いつでも。何処でも。誰相手でも』 『ソレが傲慢だって言うんです。貴女だって、誰だって、そんな状況でそんなコトは言うワケがない』 彼女はどんな気持ちでこんな言葉を。 『貴女は傲慢ですよ』 聞いていたんだ? 誰より傲慢だったのは自分だと、気付いた時にはもういなかった。 急いで大人を呼んで、でも、間に合わなくて。 血を吐いたりこそしなかったけど、は真っ白な血の気のない顔で。 意識を失う寸前、囁いた。 ―――悟能に逢えて良かった。 声になっていなかったけれど。 言葉になんてならなかったけれど。 嬉しく、同時に泣きたくなった。 「……」 僕は、最初で最後、彼女の名前を音にした。 神様が無能である意味は。 君みたいな人間を生み出す為だろう。 「貴女は嘘吐きなんかじゃありません」 「本当に、いつでも。何処でも。誰相手でも」 「貴女は胸を張って言っていたんですね……」 は僕の初めての友達だった。
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