紅月 月を見て、は溜め息を一つ溢した。 今宵は満月。朧月夜。 隣りに座る光明がソレを聞きとがめて、ふと自分を見る視線を感じたが、は何も言わなかった。 がしかし、哀しげな横顔に少々気を引かれた光明は空になった彼女の猪口に酒を注いだ。 「……悪い」 「いえ、とんでもありませんよ」 いつもなら人の眼を見て話す彼女が、全く自分と眼を合わせようとしないコトに光明は首を傾げた。 「どうか、しましたか?」 「いや……」 はそう答えながら、心此処にあらずといった様子で月に向かって手を伸ばした。 「ただ、月を見てたんだ……」 その声と視線につられて、光明も空を見上げた。 薄い雲が暗い夜空を覆い、冴え渡るはずの月光を儚げに淡くしていた。 しかし、その場は明かりがないにも関わらず明るい。 流石に昼間のようにはいかないが、それでも僅かな光が二人を照らしている。 そして、段々と時間が経つと雲は流れ、子細な表情は分からないながらもの端正な顔が見えるようになった。 憂いに満ちるソレは、日の光の中にいる彼女とは別人のようだった。 夜を集めたような流れる髪。 ソレが風に遊ばれて柔らかく広がる。 は光明と逢わないでいたほんの少しの期間で、以前とは見違える程美しくなった。 けれど、物思いに耽る姿は今だ独りに見えて。 自分を頼りなく感じた。 彼女が人に頼るコトを善しとしていないコトは分かっていても、ただ無性に。 しばらくの間、静謐な空気がこの場を満たした。 すると、突然、が小さな声で何か呟いた。 「こ…みょ……みたいだ」 「何です……?」 「……『お前みたいだ』って言ったんだよ」 その唐突な言葉に疑問符を浮かべる光明。 はそんな彼をやはり見るコトなく、月を指差した。 「光明は月みたいだね」 「……どうして皆さんそう言うんでしょうねェー。私、そんなに丸い顔してますか?」 天然なのかそうじゃないのかよく分からないボケを光明がしたが、いつもなら笑うか呆れるかする彼女は静かに首を振るだけだった。 そして、半ば以上独り言としては口を開く。 ―――届かないんだ。 「あんなに近くに見えるのに、月は段々離れていく」 ソレを止めるコトは神にだってできないんだろう。 「どれだけ手を伸ばしても、届くコトはないんだよ。永遠に……」 だから、お前は月みたいなんだ。 夜道を照らしてくれる。 でも、ソレは決してあたし一人にじゃない。 不幸のように。 幸せのように。 平等に降り注ぐんだよ……。 けれど、その微かな光さえ、あたしには嬉しくて。 多くを望んではいけないのは、分かってるんだ……。 まるで、光明が本当に天空にいるこのようなその口調に、彼は居たたまれない気持ちを覚えた。 そっと、天に向かって伸ばされ続ける手をそっと取り、彼女に問い掛ける。 「……こうして触れるコトができるのに、ですか?」 届かないワケではなく。 ましてや、触れるコトができないワケでもなく。 ただ、貴女の心が私から離れているだけではないですか? 「……そうだ」 「私は月なんかじゃありませんよ」 「でも、同じだ」 ようやく月から眼を離し、一旦俯いた後光明を見た瞳は今にも零れ落ちそうな雫を湛えていた。 酒を飲み始めてから初めて直視したは息を呑むほど美しく、哀しげだった。 「『三蔵法師』の役目を与えられたお前は、あたしのような『化け物』には眩しすぎるんだ!」 そして、激情に駆られたの瞳から何度も涙が零れ落ちる。 月明かりに光るソレには、不謹慎にも心奪われた。 と、は自分の手を包んでいた光明を振り払うと、彼と数歩の距離を置いた。 無理に追いかけるコトはせず、光明は静かに問う。 「どうしてです?」 予想していなかったその一言には目を見開く。 そして、彼女が何かを言う前に光明は畳み掛けるように言葉を続けた。 「もし仮に貴女が『化け物』だったとしても、私は人間にしか見えません」 今も昔も、貴女は人間でした。 「そんな事、ない……」 「それでも、貴女は人間だと思いますよ」 優しく諭すようなその言葉に、は必死に抗う。 「あたしの手は血塗れだ。人間に戻れたとしても、ソレは絶対に変わらない!」 光明三蔵法師に出逢う前に殺してきた人間・妖怪を想って、彼女は叫ぶ。 あちらこちらの街を放浪して。 街に着く度に、襲われて。 それらを全て、皆殺しにした。 「……貴女はそうしたくてしたんじゃないでしょう?」 「いや、あたしは自分の意志で大勢殺したんだ」 きっと、あの頃のあたしは、人を殺すのが好きだった。 血に塗れるのを何より好んだ。 殺さなければ自分が殺されていたと。 あれは一種の殺戮中毒だったのだと。 言い訳するのは簡単だ。 でも、何を言ってもこの手が紅く染まったのは事実で。隠せなくて。 「……お願いだ、光明。突き放してくれ」 希望を持ってしまう前に。 許されると思ってしまう前に。 「誰かに批難されないと、罪悪感で押し潰されそうなんだよ……」 お願いだ。 「……光明。あたしに優しくするな」 優しさを求める資格なんてあたしには有り得ないんだ。 だから、もう無理して傍にいてくれる必要なんてないんだよ、お前は。 大丈夫だから。 あたしはもう、大丈夫だから。 手を伸ばしても届かない場所にあるのなら、見えない位遠く離れてしまいたい。 そうすれば、恋しく想うコトもないだろう。そして、そして……。 俯くにそっと近づき光明は言った。 「貴女が血塗れでも……」 穏やかな口調で光明は続ける。 「私が貴女を突き放すコトはありません」 まるで子供のように必死に声を上げるのを堪えるを、光明はふわりと柔らかく抱き寄せた。 すると、聞こえてきたのは小さな嗚咽。 小さな頭を抱えてくれる光明に、張り詰めていた何かが切れてしまったかのようだった。 「何でだよ……何でなんだ」 何で、あたしを突き放して楽にしてくれないんだ。 言外にそう尋ねてくるに光明は微笑みを返した。 「根が意地悪なんじゃないですかねェ」 「自分で言うなよォ……」 しゃっくりあげて本格的に泣き出したの髪を梳きながら、光明は空を彩る月を仰いだ。 貴女が私を月だと言うのならソレでも良い。 ただ、一緒に酒を飲み交わすコトを許して下さい。 ―――血塗れた貴女の傍にいるならば、月も紅く染まるだろう。
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