バリンと割れる音がしていた。





Butterfly Effect、41





私を抱き留めた後のシリウスさんの行動は、それはもう素早かった。
即断即決。まさにそんな感じで、一直線に走りだしたのである。

本当なら、ここで人命優先にしたシリウスさんの行為は称賛されるべきものだったのだと思う。
けれど、私は咄嗟に「駄目だ!」と思った。
だって、それでは、一角獣ユニコーンが取り残されてしまう。
自分より遥かに重症な生き物を放置する、それが耐えがたかった。

もちろん、人手が必要なのは分かっている。
シリウスさん一人で私というお荷物と重症の一角獣ユニコーンを抱えるのは難しい。
でも。

人を呼ぶ間に、あの子が死んでしまったら?
ヴォルデモートが戻ってきてしまったら?

そう考えたら、私は大人しく避難なんてしていられなかった。
背後の白銀の塊に手を伸ばす。


「…………っ」


杖を使うとかなんとかはその時は思い浮かばず。

ただ、「飛べ」と睨みつける。
自分の魔法がへなちょこなのは知っている。
実際、一角獣ユニコーンは少し揺れただけで、少しも浮き上がる気配を見せない。
でも、出来ないとは思わなかった。

頭がぐらんぐらんと、嵐の船にいるように揺れる。
抱えられていなければ、間違いなく立っていられなかっただろう。
目の奥がズキズキして、額も熱を持っているかのように重苦しい。

辛い。
痛い。
苦しい。

でも。



それがどうした。



「      」


そしてその時。
ざわり、と体中の毛が逆立つ感触があって。
心の奥底で、卵の殻が割れるような、小さな音がした気がした。







その後しばらくは、夢うつつのように、なんだか現実感に乏しい時間が過ぎた。
頭の上で誰かがわーわー言っているのは分かるのだけれど、膜を隔てたように聞き取りづらいし、聞いても頭に残らない。


ハグリッド!ハグリッド、出てこい!出てきてくれ!
「……シリウス!?お前さん、その子は……っ!?」
「森で何者かに襲われたっ!一角獣ユニコーンが残されている!早く行ってくれっ! 俺はこいつをマダム ポンフリーのところに……っ」
一角獣ユニコーンが!?そいつ以外にもケガしちょるのがいるんか!?
ああ、いや、この子はケガはしていない。ただ、無理に魔法を使いすぎたんだ
何を言っちょる!?どう見ても血まみれだろうが!!
いや、これはその置いて来た一角獣ユニコーン血でっ」

「だから!その後ろにいる一角獣ユニコーンの他に、ケガをした奴がいるんかって訊いとるんだ!」


騒がしい。
でも、声が二人分聞こえる。
体も揺れない、つまり止まっていられる場所だ。
ということは、ここはもう、安全圏なのだろう。

なら、いつまでも重い荷物を持ち上げている必要はない。
ゆっくりゆっくり、傷に触らないように願いながら、力を弱めていく。


「なっ!?一角獣ユニコーン!?どうして……!?確かに置いて来たのにっ」
お前さんが運んで来たんじゃないのか?」
まさか!も構えずにこんなデカイ物を運べないだろう!」
「…………」
「…………」
「……なら、その子か?」
「……お前が運んで来たのか?」


魔法を完全に解除すると、全身に力が抜けるような気分になった。
この脱力感は、それこそ重い荷物を運んだ後のそれによく似ている。
今はもう、痛みとかなんとかは感じないけれど、 なんというか、もうひたすら眠い。
名付けの後のスライムさんくらい眠い。
ぐったりを通り越して、ぐでーである。
なんだっけ?あの目玉焼きの……あれっぽい。

実は自分に話しかけられていることも気づかずに、私は黄色いゆるキャラを思い浮かべていた。


……とにかく、ケガをしているのはこの一角獣ユニコーンだけだ。あとは頼む」
それは構わんが……。大丈夫なんか?」
ああ。前にもこんな感じになっていた。寧ろ、前より顔色が良いくらいだ。
だが、
ひとまず、マダムに診せる必要があるだろう
そうしてやってくれ。こいつが助かったのも、その子のおかげだ
ああ


やがて、私はまた抱えられて移動を始めた。
私を気遣ってなのか、風を切る感触はあるのに、さっきと違ってあまり揺れない。
目を開けるのが億劫で、どこをどう移動しているのかは分からないが、
少ししたら、空気が明らかに変わった。
ひんやりと冷たい乾いたものが、温かいそれになる。
足音も、さっきまでの草を踏むシャクシャクという音から、反響する硬い音になった。
室内に入ったのだろう。

人間、寒くても眠くなるが、温かくても眠くなる。
舟さえこがずにいる私は、正直な話、もう寝ているのではないだろうか。
これはもう、夢の中の出来事なのでは?
となると、どこから夢でどこまでが現実だったのか、そこが問題だけれど。
それも些細に感じるくらい、ひたすら眠い。
眠すぎて、逆に頭が冴えてくる気さえする。
……もちろん気のせいだけれど。

そして数分後、けたたましい音を立てながら、シリウスさんはどこかにたどり着いた。


「マダム!急患だ!早く診てく……――っ」
やかましい。医務室では静かにする、という常識さえないのかね?」


本当だったら、この状況なので私はどこより安静にできる場所に連れて来られる場面だ。
だがしかし、周囲を満たす殺気という名の重苦しい空気に、私は目を開けないままうんざりする。


――貴様、なにをした?」
それはこっちの台詞だ!マダムはどこだ!?」
マダム ポンフリーは今日は学会に参加して留守だ。
で?私の生徒がマダムを必要とするような、なにをしたと訊いている……っ」


吠えるような声に、唸るような声。
おかしい。何故私はそんな肉食獣のバトルのような声を聞くことになっているんだ。
窮地を脱したはずじゃないのか。

しかも、耳元からバチバチと電気がスパークするような音まで聞こえてきたから、堪らない。
ええと、こういう場合はどうしたら良いんだっけ?
魔法使いの喧嘩……魔法を使わせなければ良い?


「お前に関係――……なっ!?声が!!?」


そうそう、こういう時は『黙れシレンシオ』、だ。

一番声の大きかった人の声が聞こえなくなると、不意に、体が上に引っ張られるのが分かる。


浮遊せよウィンガーディアム・レビオーサ!」
手前ぇっ!」


ぽすん。

と、私はどうやら、争いの渦中から魔法で遠ざけされたらしい。
鼻腔をくすぐったのは、清潔なリネンの香りだ。
ふかふかと背中に触れた弾力は、おそらくベッドのマットだろう。


「ふん。よくは分からないが、声が出ないようだな。
ミス のこの様子だと、前と同じく無理に魔法でも使ったか?
ならば、私でも治療できる。貴様は邪魔だ。さっさと出ていけ」
ふざけるな!何をしやがったっ!」


しかし、私の身は安全になっても、その場の空気は少しも安穏としていない。
っていうか、本当に煩い。

ふぅ。

小さく溜息を洩らしながら、私はそっと手の平を握りしめた。
そして、それに合わせて、一言。



「 ね む れ 」



その場の生き物全てに命じる。
まるで、城中の人々を巻き込んで眠る、眠り姫のように。
何かが崩れ落ちるような音を聞きながら、私はようやく意識を手放した。







気が付けば、私はうららかな芝生の上に立っていた。
ぽかぽかと日差しに温められたそこは、日向ぼっこには最適で、 そよぐ風は涼やかだ。

ただ、そこに私以外の人間はいない。

後ろを振り返ってみれば、ガラスで出来たような、氷でできたような、 硬質で冷たい色をした城がそびえたっていた。
それは、ホグワーツというよりは、某テーマパークのシンボルのような外観だった。

ただ、これをあの城だと見なすには、色々と無理がある。
材質はもちろんなのだが。
なにより、その城はバキバキのひび割れだらけだから。
偶に、恐ろしいほど画面が割れたスマホを使っている人を見ると驚くけれど、 この城はそれに勝るとも劣らない驚きを提供してくる外観だ。
こんな城がテーマパークに建っていたら、そこは営業停止待ったなしだろう。

でも、この城が案外、丈夫なことを私は知っているし。
また、しん、と静まり返っているわけではないが、 その中には城が崩れて傷つく人間が皆無なことも、私にはよく分かっていた。


「…………」


ふと、視線を前に戻すと、そこに先程とは違う物を見つける。
それは、最初、陽炎のように揺らめいていた。
だが、時間が経つにつれて、それははっきりと姿を現し。

薄いベールを幾重にもしたような、不思議な色合いのローブを来た『誰か』になった。

その『誰か』は、目の前の私が見えていない。
しかし、明確な目標を持って、ゆったりとこちらへ歩いてくる。
動くたびに、黒いような、緑のような、灰色のような、ローブに色が映る。

背は高く、骨格からいって男だろう。
しかし、それ以上は分からない。
ただ、ローブからわずかに覗く口元は、病的に白かった。

とりあえず、このままではぶつかるので、『誰か』に道を開けてあげる。
すると、『誰か』は少しも止まることなく、一直線に背後の城へと歩いていった。
私は黙ってそれをただただ見守る。


開心レジリメンス


『誰か』は、城の扉の前にたどり着くと、
おもむろに手をかざして、そう言った。

すると、城はまるでそれに応えるかのように、その大きな扉を軋ませ……――


「?」


――ない。
『誰か』の声なんてまるでなかったかのように、扉はうんともすんともいわなかった。


「……開心レジリメンス


扉は動かない。


開心レジリメンス!」


動かないったら、動かない。

明らかに目の前の『誰か』が苛立ち、殺気さえまき散らしても、 扉の主わたしは開けるつもりがないのだから、仕方がない。

仕方がなしに、『誰か』は扉以外の入り口がないかと、 城に沿って歩き出したので、私もなんとなく後を追う。
時折、窓を見つけては呪文を唱えてみたり、叩いてみたり、覗き込んでみたりと、 『誰か』は延々と無駄なことを繰り返す。
どうやら、何か納得がいかないようで、 見えなくてもそのご機嫌が麗しくないのが伝わってくる。
きっと、ローブの下の顔には眉間に皺があるのだろう。
どこかには、自分が入れる場所があると確信しているようで、 時々、窓以外の壁のひび割れに向かって杖を向けるが、 城は微動だにせず、『誰か』を拒絶し続ける。


「…………」


結局、そのローブの人物は、どうにもならないことが分かると、 舌打ちしながら、その場から霞のように消えてしまった。

なんだったんだろうなぁ、あの不法侵入者は?と思いつつ、 私は扉の内側で首を捻っていた。



「……『開けーゴマ♪』くらい言ってくれたら、ちょっとは考えたのに」







見てみれば、卵は跡形もなく消え去っていて。
城の中には、行き場を無くした銀色の蝶が乱舞していた。
さっきまではもっと多かったはずだが、 少し外に出してあげたから、密度はそこまでではない。
でも、少ししたら、またこの中を満たすほど増えてしまうのを、私は本能で理解していた。
蝶は消えない。
私から、生まれたものだから。
でも、ただ飛んでいるくらいなら、別に良い。
怖いのは。
蝶そのものじゃないから。





割れた物は、決して元には戻らない。





......to be continued