放っておけるなら、放っておいた。 Butterfly Effect、36 「先生、今日はこちらで鍋を磨かせて頂けませんか」 少女は疲れ切った表情でそう切り出した。 それは、私が地下牢で管理する薬品や材料を管理していたその時だった。 不意に他人の気配がし、また何か盗人か悪ふざけをしに誰かが来たのかと険しい表情で振り返れば、 自寮の女子生徒がどこまでも真剣にこちらを見つめていたのである。 見覚えはあるものの、見慣れないその姿に、一瞬、虚を突かれる。 「……なに?」 「やっぱり、無理でしょうか……」 思わず問い返してみれば、少女――ミス ?の表情が曇る。 非常に不本意だ。 私としては、その内容と目の前の人間の姿に、思わず疑問符が出ただけなのに。 そう、なにより少女の姿が、違和感の塊だった。 初めて会った時の、十代半ばの姿で。 しかし、ホグワーツの制服にスリザリンのマフラーを着けた状態の彼女など、初めて見たのだから。 白い肌に、濃いローブの色と深緑が映えており、大変似合っている。 がしかし、その表情は自分の発言のせいで暗く沈んでおり、仕方がなしに私はそれを否定する。 「無理ではない。しかし、何故突然そんなことを言い出したのかね?」 「…………」 ミス はその言葉に一瞬、ものすごく遠い目をした。 遙か悠久の彼方を見るかのように、それはそれは茫洋とした目だった。 そして、その瞳を見た瞬間、私は全ての事柄を悟る。 「……はぁ。ブラックか」 「っ!」 少女はその名前に面白いくらい過敏な反応を示した。 「……あの。最近、シリウスさんがおかしい気がするんですけど、 何かご存じだったりしますか?」 「奴がおかしいことなど、今に始まったことではないだろう」 学生の時から、奴は頭がイカレていたのだから。 まぁ、もっとも。 最近の奴に変化がないという訳ではない。 少なくとも、前の奴なら、双子宜しく少女につき纏う、などということはしなかったはずだ。 なにしろ、偉そうな奴のこと。 わざわざ誰か特定の異性の気を引こうとするなど、無駄に高いプライドが許さなかったのだろうから。 ところが、今は明らかに少女にばかり注意がいっているのが、端からも分かった。 お前は賢者の石の警備で、この学校に来たんじゃないのか! と、公私混同を詰りたいくらいには、仕事をしているように見えない。 (ちなみに、ダンブルドアに直訴しても無駄だった) ミス が1年生の中でも大層小柄なことはあり、見た目は完全に親子である。 ブラックの奴は気づいていないかもしれないが、 犯罪的な絵面なので、二人が廊下で話したり、ブラックが少女を構ったりする姿は、大層目立っていた。 そして。 それが、この少女には多大なるストレスであろうことも、理解できる。 まぁ、幾ら実年齢はもっと近いとはいえ、 逢う度に三十路すぎの男に過剰なスキンシップを図られていることを考えれば、 その気持ちも分からなくはない。 ……つまり、ミス は奴らからここに逃げてきたのだ。 「……すみません」 体のいい避難場所に選んでしまった事に罪悪感があるらしく、少女は申し訳なさそうに縮こまった。 確かに、別の人物がそのようなことをしようものなら、間違いなく減点の上に叩きだすが……―― 「……別にかまわん」 この少女に対してはそんな気持ちが微塵も起こらないのが、酷く不思議だった。 少女が決して馬鹿げた悪戯などしないであろうことは分かってるし、信じている。 がしかし、だからといって、自身の城とも言えるこの場所に長時間滞在されるなど鬱陶しいことこの上ない。 当然、拒否してしかるべき申し出なのだ。 それなのに、何故自分は許可を出してしまっているのだろう? と、自分の返答に自分で驚いていると、少女はその言葉にパッと瞳を輝かせた。 それは、スリザリンにはあるまじき、素直で皮肉など入る余地のない美しい笑みだった。 「ありがとうございます!スネイプ先生」 ニコニコと一気に機嫌が浮上したらしい少女に、思わずつられて表情がほころびそうになる。 が、そのあまりに不気味な様相を人前に晒すのも問題なので、表情筋を駆使してそれを押しとどめた。 いかん。何故、私がこの程度のことで、間の抜けた表情を晒さなければならないのだ。 というか、ミス もこの程度のことでそんな無防備な表情を見せるんじゃない。 そんなことだから、面倒な連中に付きまとわれるのだ。 そう。とりあえず、目下のところ問題の筆頭は双子と犬だが、 それ以外にも彼女は密やかに熱い眼差しを注がれていたりする。 当然と言えば当然だろう。 基本的にプライドが高いスリザリンの中で、彼女はあっさりと感謝の言葉を口にする。 他者が困っていれば、自然と手を差し伸べるし、目が合えばささやかに微笑んでくれる。 自慢話を嫌な表情もせずにきちんと聞いてくれるし、会話は打てば響くように聡明だ。 打算のない親切にあまり免疫のないスリザリン生は、それはもうあっさりと少女の虜になった。 本人があまりちやほやされることを望まないために、あまり大っぴらではないが、 まさしくその人気はうなぎ上りだ。 東洋人特有の幼い容貌もそれに拍車をかけたのだろう、 彼女は、スリザリンの中でペットを通り越して、アイドルと呼んで差支えない存在だった。 その少女がまさか罰則でもないのに鍋磨きをするとなったら、スリザリン生の多くが目を剥くだろう。 そう考えながら、そもそも時間を潰すのに、何故、鍋磨きなのか疑問がわき起こる。 別に読書でもレポートでもしていれば良いだろうに。 何故、よりによって鍋磨き。 ああ、まぁ、あくまで方便なのだろうが。 あまりに不思議だったので、少女を思わず凝視してしまう。 と、彼女はそんな私の考えとは裏腹に、いそいそと鍋を運んできてそれをみがき始めた。 「よいしょっと……」 「……待ちたまえ」 しかも、マグル方式だった。 おまけに、あろうことかスポンジ持参で。 うっかりその所業を本気で止めに入ると、彼女は不思議そうに私を見つめてきた。 上目遣いが庇護欲をたっぷり刺激してくる……って、そうじゃない。 「何をしている?」 「え?さっきも言った通り鍋磨きです」 わざわざスポンジを見せつけてくれるミス だった。 「……方便ではなかったのかね?」 「え?いいえ。しっかり鍋を磨くつもりで来ましたが」 「……レポートなどはないのかね?」 「はい、もう終わりました」 「やっぱり、勝手に授業で使うものを触ったらいけなかったですか?」と少女は首を傾げる。 若干その表情が申し訳なさそうに曇るのを見て、酷く居たたまれない気分を味わった。 いや、だからいけないとかそういうことではないのだ。 ただ、端的に言えば意味が分からないというか、似合わないというか。 そもそも、罰則でもないのにわざわざ鍋をマグル方式で磨こうとする人間がいようとは思えないだけである。 ので、そのことを告げると、少女はきょとんと目を丸くした。 「え?鍋磨きって面白くないですか?」 少なくとも私は面白いなどと感じたことはない。 どこかずれた言葉に怪訝な表情が浮かぶのを止められないまま、私は口を開いた。 「面白い、かね?」 「はい。私、こういう何か磨いたりするの昔から好きなんですよー。 こう、頑固な汚れがぴかぴかになるのって見てて気持ち良いっていうか。 何より、頑張ったのが一目で分かるじゃないですか? 実は、常々この部屋で使われてるものを手入れしたいなーと思ってたんです」 ふわり、といつもの凛とした姿とは違う可愛らしい笑みに、私は結局抗えなかった。 で、何がどうなってこんな状態が生まれるのか……。 我ながら、自身の行動が分からず、私はひっそりと心の中で溜息を吐いた。 ごし ごし。 ごし ごし。 がし がし がし がし。 片手にスポンジ、片手に磨き粉。 その状態で、私は一際汚れの酷い鍋を前に立っていた。 材料の整理をするには、全く必要のないはずの装備に、 第三者が見たら首を傾げるだろう。 そして、隣では罰則でもなんでもないのに、 同じ装備で、鍋を磨き続ける少女が一人……。 何だ、この状況は。 まず間違いなく、グリフィンドールの面々であれば目を疑う状況に首をひねる。 いや、間違いなく、現状を作り上げたのは自分なのだ。 それはわかっている。 だが、それでも、自分がそうしたということが、自分でも信じられないだけなのだ。 『私もそろそろ手入れはしたいと思っていた』 『……はい?』 最初は、好きにさせてやろうと放っておいたはずだ。 だがしかし。 細い腕で一生懸命、鍋を磨いているミス の姿に、 なんとも居たたまれない気分になってしまい。 結果、手伝いを申し出る、と。 いや、好きでやっているのだから、そのままやらせておけば良いだろう、自分。 別に罰則でも、やらなければいけないことでもないのだから、 疲れたり、嫌になったりすれば勝手に止めるだろう? というか、そもそも、いきなり押しかけてきたのは、あちらだ。 ここにいさせるだけでも、恩の字というものだと思う。 思うのだが。 鍋を磨く事に夢中になっているらしい少女をこっそりと盗み見る。 見るつもりはなかったのだが、あまりに楽しそうにしているので、自然と目が吸い寄せられてしまうのだ。 しばらく磨いたかと思えば、角度を変えて磨き残しを確認したり。 中々落ちない汚れに、若干口をとがらせてみたり。 見られているなど思いもしない少女は、普段と違ってころころと表情を変えて、見ていて飽きない。 「 ♪ 」 「…………」 一人で磨いている時よりも、心なし楽しそうなことに気づいてしまえば、 鍋を磨く手を緩める訳にはいかなかった。 が、ただ黙々と磨いている、というのも、作業に没頭できていなければ、 辛さばかりが目立ってくる。 気分転換も兼ねて、気になっていたことをついでとばかりに尋ねることにした。 「ところで、ミス 。何故、今その姿をしているのかね?」 「え?その姿……ああ。いつもの小さい姿だと、力が入らないので」 「今の姿でも、あまり力はなさそうだが?」 「あはは。確かにそうですね。これでも、そこそこ重い物も運べるんですけど」 力仕事とはまるで無縁そうな細腕だ。 自分もあまり鍛えている方ではないが、性別の違いや、 普段私が扱う薬の材料や道具が重いこともあって、 流石にここまで頼りないものではない。 下手をすると、二の腕を手の平だけで包み込めてしまえそうである。 鍋を磨く際にも、少し磨くと腕が疲れるのか、スポンジを逆の手に持ち替えているようなので、 とても信用できない。 と、思わず胡乱な顔つきになってしまったため、 ミス は私が、理由を嘘だと思っていると勘違いをしたようで、 少し慌てて、今の姿になった理由を挙げ連ねていく。 「あ、あとこの間、昼間にこの姿になってみたんですけど、楽だったっていうのもあります」 「楽?」 「やっぱり小さいと何かと不便なんですよね。疲れやすいし」 「体格が小さければそうだろうな」 「あとは、鍋を磨くのに指輪がすっごく邪魔だった、っていうくらいですかね?」 「……そうか」 つまり、色々な面を総合した結果、こうなったということらしい。 まぁ、金がかかる訳でもなければ、問題がある訳でもない。 むしろ、どちらかというと、メリットばかりだ。 そして、その姿でいられると、私が少しばかり落ち着かない、などということは、 彼女自身には全く関知しない事柄である。 なので、私は遠回しにいつもの幼い姿へと誘導することにした。 「そんな恰好で校内をうろついていると、上級生に絡まれるのではないのかね」 同じ学校のはずなのに、見知らぬ美少女が歩いていれば、 まず、間違いなく絡まれるだろうことを思えば、嘘は言っていない。 すると、ミス はにこやかに私の懸念を一蹴した。 「大丈夫ですよ。そもそも、うろつきませんから」 「?どういう意味だ??」 「そのままの意味です。この間は可愛いハリーの頼みでしたけど、 そうホイホイと元の姿には戻りませんよ?寝る時だって指輪は外さないんですから」 「そうなのか?なら、何故……」 「ここなら、いらっしゃるのはスネイプ先生だけですから。 何の心配も、問題もないでしょう? 本当は補習の時もこのままの方が良いんですけど。 でも、勉強する時も試験する時もちびっ子の状態なので、仕方ないですね」 そこにあったのは、酷く無防備で、 ごくごく自然な、全幅の信頼。 がこの間ごちゃごちゃ言っていたような色恋は、何一つとしてにじまない少女の態度に、 奴に対する呆れがこみ上げると同時に、 何故だろう、奇妙なほどくすぐったいような、照れくさいような感覚がした。 それはそう、初めて『先生』と呼ばれた時に感じた、胸の疼きに似ていて。 「あ、見て下さい、先生!一個磨き終わりました!」 嗚呼、まったくどうかしている。 「?先生??」 避難所くらい、なってやっても良いと思うだなんて。 本当にどうかしている。 「そうか。……良かったな」 「はい!あの、また来ても良いですか……?」 「……鍋なら、いくらでもある」 「!ありがとうございます!」 そして、この日から、彼女は時々鍋を磨くために地下牢を訪れるようになるのだった。 「あ、まめが潰れてた……(ぼそっ)」 「!何故、もっと早く言わない!?」 もう目が離せない。 ......to be continued
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