前を向かなければいけないのは、分かっていた。





Butterfly Effect、14





ホグワーツ入学が決まってからの日々は、 それまでののんびりした物から一転、急に忙しくなった。

なにしろ、他の1年生と比べれば、3ヶ月分の遅れがあるのだ。
しかも、その3ヶ月は魔法の基本中の基本を習う期間。
どう考えても、それがない状態では、授業についていけない。

が、まさか漏れ鍋で魔法の練習をする訳にもいかないので……。


――つまり、だらけ薬においてはヤドカリの殻が安心感を植え付け、 催眠豆が眠気を誘い、鎮静作用のあるカノコソウの根によって心身が動かなくなり――……」


ひたすら座学の時間である。

ルーピン先生と買ってきた教科書はその日の内からフル活用だ。

あ、ちなみに、その教科書はもちろん全て英語で書かれているのだが、 幸いなことに私の目には、それが日本語にしか見えないという奇跡が起こっていた。
気分的にはあれだ。
画面の文字を翻訳してくれるアプリを使っている感じ?
一瞬英語に見えるんだけど、瞬きすると日本語訳になっているっていう……。
何故そんなことになっているのか分からなくて不安もあるが、 助かるのは事実なので、私はその不思議現象を受け入れることにした。

しかも、時を同じくして、レギュラスさんが眼鏡を買ってくれた、っていうね。
この前、チラッと私が近眼だとのたまったのを覚えてくれていたらしい。
おかげで、久しぶりに私は眼鏡っ子に戻っていた。
視界がすっきり晴れているとか、素敵すぎる!
(私の近眼は生活できなくはないけれど、裸眼で免許は取れないレベル)
おかげで、今まであまり見れなかった風景だのなんだのも楽しめて、 ストレスが大幅に減少したのを私は感じた。

それまでが暇だったので、活字が読めるのは本当にありがたかった。
ダンブルドア先生から正式に要請があったのか、 ルーピン先生とスネイプ先生が代わる代わる教えに来てくれる他は、 ひたすらに教科書とにらめっこである。

ただ、こうして個人レッスンをしてくれている先生たちには、頭が上がらなくてどうしようって感じなのだが。
塾だって、個人付きっ切りなんて、授業料高いのに。
しかも、それが日本で言うところの冬休み期間中。
つまり、先生たちのプライベートな時間を犠牲にしているということである。

いや、折角の休暇なのに……!って遠慮しようとはしたんですよ?
がしかし。
ルーピン先生がドス黒いオーラを出しながら、表面上はにこやかに、


「一緒に過ごす相手もいないから良いんだよ」


と言ったのを見て、それ以上は口を噤んだ。
噤まざるをえなかった。

…………。
…………………………。
うん。さん、本気で早く来てくれた方が良い気がしますよ?

彼女自身の為にも祈りを捧げながら、 私はせっせと魔法の知識を詰め込んだ。

幸いにも、流石に本職。
ルーピン先生の話はとても面白く、聞いているだけで楽しいし。
スネイプ先生の話は理路整然としていて、ポイントを押さえてくれるので分かりやすかった。

今も丁寧に解説を行ってくれるスネイプ先生。
休み明けの授業の準備もあるだろうに、時間を割いてくれるのには感謝しかない。
嗚呼、そういえば、ルーピン先生は相手がいないとしても、 スネイプ先生はどうなんだろうか?

失礼にならない程度にまじまじと、折角の眼鏡フル活用で目の前の人物を観察する。
育ちすぎた蝙蝠、だなんて原作では描写されていたし、 正直、清潔感なんか皆無な感じの人物だったはずなんだけど……。
多少くせのある髪はサラサラだし、 鼻がテカっている訳でもないし、 いつも薬品っぽい匂いはするけれど、それは職業柄だろうし……。
客観的に見ても、汗だくのスポーツマンよりよほど小綺麗だと思う。
性格は多少気難しいところもあるけれど、 基本的には紳士だし。優しいし。

普通に考えたら、既婚者でも全然おかしくない。
大学時代の友達なんか、スネイプ先生一択だったなー。そういえば。
原作で『死の秘宝』が発売された直後なんか、全世界的なセブルスブームだったはずだ。

がしかし、こんな見ず知らずの私と付き合う時間が取れるというのだから、 まず彼女さん的なものはいない訳で……。
うーん。謎だ。
世の女性陣はそんなに見る目がないのだろうか?
嗚呼、でも、シリウスさんとのやり取りはドン引きってのは分かる――……


――であるからして……ミス ?」
「っ!すみません!」


と、私が集中を切らしていることを見抜いたのだろう、 訝し気にスネイプ先生がこちらを見た。
慌てて教科書を引き寄せるが、とん、とその上にスネイプ先生の手が降ってくる。


「詰め込みすぎたな。少し休憩したまえ」
「え!?あ、いや、その……Sorry.(すみませんっ)」


確かに、人間はそこまで集中力が続く生き物ではないし、 実際、ちょっと疲れてはきているが。
それでも、迷惑をかけているんだから、集中しないといけない訳で。

でも、私が続けようとするのを察したように、スネイプ先生はさっと教科書を取り上げてしまった。
長身の先生が腕を掲げてしまうと、私が飛びついてもまず届くはずもないので、諦める。


「休憩だ」
「……Sure.はい」


あぅ。
困った。集中力の持続する魔法薬とかないだろうか。
バルッフィオの脳活性秘薬?
でなければリポビタン〇でも良い。

申し訳なくて軽くうなだれていた私だったが、 まぁ、やってしまったものは仕方がない。

気を取り直して、自分と先生の分の紅茶を用意する。
もちろん、原作ダンブルドアのように魔法で取り出すのではなく、 由緒正しきマグル式である。

勉強を教えてもらう身としては、そのくらいのもてなしはさせてもらおうと、 トムさんに茶器を借りているのだった。
(お湯はごめん、流石に先生に出してもらっている)

ふんわりと、部屋の中に紅茶とフルーツの香しい香りが広がる。
流石に紅茶の本場?なので、お店に並んだ茶葉の多いこと多いこと。
ぶっちゃけ多すぎて困ってしまったので、その場のノリと勘で選んだのはフルーツティーだったのだ。
(日本みたいに、バラエティーパックみたいなのなかったんですよねー。不便ー)


Here you are.(どうぞ)」
「頂こう」


出された紅茶を優雅に口づけるスネイプ先生。
その様子を見てから、私もカップを手に取った。

最初の日こそ緊張したが(だって、あの!スネイプ先生と!お茶会!?) 先生が特に不機嫌な感じでもなかったので、今ではそこそこまったりとできるようになってきた。
というか、先生が気を使って、ホグワーツのことだの、さんが起こした珍事件だのの話をしてくれるので、 とても和やかな時間である。

しかし、こうしてこの世界の人たちと話していると思うのだけれど。
皆、さんのこと本当に大好きですよねー。
ちょいちょい「あの馬鹿」だのなんだのと言われてはいるが、 愛のある罵倒というかなんというか……。
すごいわ、さん。逆ハーね?
しかも、全キャラ攻略くらいのレベルで、皆骨抜き。

彼女が可愛らしいことはもちろん承知していたが、 改めてその魅力を再確認した気分である。なんとなく得意な気分だ。


「?何がそんなに楽しいのかね?」
「え、あ、It's not a big deal!(なんでもないです!)」


で、そんな風にニマニマしていた私は、この時気づかなかった。
いつの間にやら扉に隙間を作り、 私達のお茶会を見つめている影があったことに。
もっとも、気づいたとしても、ただ諍いが起こっただけなのだろうけれど。







午後は学校の仕事があるということで、スネイプ先生は宿題を残して去っていった。
本当に、仕事を増やして申し訳ない……。


「校長先生、まさか時間外勤務手当、出してるんだよね?」


原作を思い返す限り、凄く怪しいけれど。
ホラ、だってスネイプ先生に明らかな勤務時間外にハリーの個別授業?させてたし。
騎士団の仕事(つまりボランティア)の一環だったのかもしれないけれど。
そもそも、寮監が教授っていうのは、労働基準法的に違反していると思う。
日本とは雇用形態が違うのだとは思うが。
それにしたって、先生たちを働かせすぎじゃないだろうか、ホグワーツ。
サービス残業の多い日本人に言われるなんてよっぽどですよ?ちょっと。


「はぁ……。流石にそんな単語は知らないから、訊けないし。
お礼……お礼はルーピン先生ならお菓子一択なんだけど。
スネイプ先生ってなにあげたら喜ぶんだろう??」


薬?薬の材料??
いや、でも貴重な物でも自分で持ってそうだし、私に自由になるお金はほぼないし。
こういう時、お話のヒロインなんかだと、心ばかりのお菓子でも作るのだろうが、 道具もレシピもない状態で作るだけの力は私にはない。
(お菓子作りって軽量カップだのヘラだの専門の道具結構使うんだよね。あれば出来るよ?あれば)

女性陣であれば、綺麗な紙で折り紙のバラを作ってあげるなり、なんなり、 手頃なプレゼントも思いつくけれど……。
壮年の男の人に無難な感謝のプレゼント……?

…………。
…………………………。
ダメだ。頭に父の日のプレゼント系しか浮かばない……っ
お酒も、スネイプ先生飲みそうな感じしないし。
寮監が酒浸りとかまずいだろう。セイウチ髭な先生はそうだったけど。


「うーん……」


さて、困った。
もう、こうなったらルーピン先生へのお菓子を買うついでに、 その辺の店を見て回るしかないだろうか……?

ただ、そうなると、一人で出歩くのが禁止されている自分としては、 誰かに同伴をお願いしないといけない訳で。
お願いできる人物となると、あの人しかいない訳で。
でも、あの人とは二人になるなと言われている訳で……。

一緒に買い物に行ってくれそうな人物として、真っ先に浮かんだ人物は、 論理的に考えて却下した。


「……シリウスさんはダメだ。うん。怒られる」


ちなみに、怒られるのは私ではない。

私ではないが、しかし、『頼みを聞いて怒られる』だなんて理不尽を他人に味わわせたい、 なんてドSな思いは自分にはないのだ。
こうなれば、ルーピン先生に自分の好きなお菓子を選んで貰いつつ、 ついでにスネイプ先生へのお礼を一緒に考えてもらうのが正解かもしれない、なんて結論に達する。

そうなると、ルーピン先生が来るのは明日なので、善は急げとはいかないが。
しかし、お願いする身としては、仕方がない。

とりあえず、そんなこんな明日の行動を決めていた私は、


コンコンコンっ


だから、急に響いたノックの音に、大変驚いた。


「はいっ!?」


今日はもう来客はないものと思っていたので、完全に気を抜いていた。
スネイプ先生が忘れ物でもしたのだろうか?いや、完璧主義の先生からすると、それはないか……。
でも、ルーピン先生は今日は忙しいって言ってたし。
となると、あとここを訪れる人なんて、限られる。


「……オレだ」


もしやさっき思い浮かべた人だろうか、と思っていると、案の定、 聞きなれた低い声が聞こえた。


「…………」


いや、オレオレ詐欺じゃないんだから。

若干の呆れがにじみそうになったが、そこは、コミュニケーションスキルをフル活用して抑え込む。
で、待たせるのも失礼だろうと、まずは扉を開けてみる。


「はい?」
「…………」


すると、予想通りシリウスさんが、予想外になんとも微妙な表情で廊下に立っていた。
一応、視線を巡らせてみるが、お一人である。
ちなみに手ぶらなので、お土産を持ってきた、ということでもないようだ。(ルーピン先生のご指導の成果)


「?」


基本的に私への単独接触禁止令の出ているシリウスさんなので、 ご指導が入って以降、こんな風に無言で現れたことは基本ない。
(伝言役とかで来たことはあっても、傍らにトムさん付きという徹底ぶりだった)
え、本当に何の用?

困って背の高い彼を見上げていると、 シリウスさんは、「あー」だの「うー」だのと、口をもごもごしている。
なんだろう、やっぱり伝言役なのだろうか?しかも言いづらい系の。

がしかし、扉の所でそんな風にしているのも阿呆らしいと思ったのか、 次の瞬間には、シリウスさんは半ばやけくそのように「コニチワ!」と叫んだ。


「……へ?」


がしかし、そのフレーズに固まる。
すると、私がよく聞こえていないと思ったのか、再度、「コニチワ」とシリウスさんの口が動いた。

美形の口から飛び出した、そのちょっと間の抜けた発音に、 私は思わず、吹き出してしまう。


「ぷっ!」
「!」
「コニチワって……こんにちは、ですか?」


やばいやばい、会話の途中で吹き出すとか、失礼すぎるから!
慌てて、会話しようとするが、いかんせん慌てていて英語なんて出るはずがない。
なので、思わず出た日本語だったが、シリウスさんはそれで会話が成立したと勘違いしたのか、 なおも、「ワタシ ブラック シリウス イイマス?ヨロシクー」と胡散臭い日本語を繰り出してくる。


「ニッポンゴ、ムツカシーネー」
「…………っ」
「練習ガンバッテ デス。……あー、ホメロ?」
「……ぶふっ!」


ダメだ!腹筋が崩壊する!!

滑稽な話し方にも関わらず、『褒めろ』だけはキャラクターにばっちりあった命令形。
これはもう、笑うなという方が難しい。
が、私は思わず視線を逸らして、ぷるぷると笑いを堪えようと頑張る。

いや、だって、が、頑張ってる、らしいし?
わ、笑ったら、失礼っていうか……っ

が、私が大爆笑しているのは向こうにだってもちろん通じてしまったので、 シリウスさんは眉間に皺を寄せて、殊更恐ろしい表情になった。


……可愛い
「え、えーと、すみません、今なんて?Pardon me?(もう一度お願いします)」
「…………」
「えっと……I’m sorry……?(ごめんなさい、もう一度……)」


断じて馬鹿にした訳じゃない。
(かくいう自分も大層な言語スキルなので、人様を馬鹿にできるはずがない)
そうじゃないんだけど、なにしろこの間、レギュラスさん日本語完璧だったからっ

明らかに機嫌を害してしまった彼に、 しかし、どう言えばそれが伝わるのかが不明だ。
私は必死に表情を改めると、立ち話もなんだろうと、その場しのぎにシリウスさんを部屋に招き入れる。


Here you are.(どうぞ)」
「…………」


しまった。
シリウスさんが黙ってしまった。

変な汗をかきながら、営業スマイルで、とりあえず彼の席を引き、 彼が無言で座ったところで、背中を向けてお茶の準備を始める。


「…………」
「…………」
「…………」
「…………」



ま、間が持たない。
もう一回で良いから、さっきのエセ日本語しゃべってくれないだろうか。

溢れ出る緊張感に、そんな酷いことを思う。
と、そこでふと、そういえば何故シリウスさんはこの超絶怪しい日本語を話そうとしていたのか、と思い至る。
あれはひょっとしてひょっとすると、私とコミュニケーションを図ろうとして、 わざわざ覚えてくれた、ということなのだろうか。

もちろん、レギュラスさんがぺらぺらでプライドが刺激されたとかなんとか、そういうこともあるとは思う。
でも、そのきっかけの幾ばくかは、自分も担っていると思うと。


「…………」


なんだか、嬉しい。
思わず、によによと、頬が緩んでしまうくらいには。

嗚呼、でもそんなシリウスさんの頑張りを私はさっき笑い飛ばしてしまったんだった。
(客観的に考えれば、なんて酷い奴だ)
となれば、今ここで笑っていると、思い出し笑いと勘違いされかねない。
まずいまずい。口元を引き締めないと……

と、ぐるぐる考え込んでいたのがいけないのだろうか、 私は、すぐ後ろにシリウスさんがいつの間にか立っていたことに気づかなかった。

で、気配に気づいた時にはもう遅くて。
私が逃げ出さないように、するりと後ろから腰に手が回され、 後ろから、大きな体が覆いかぶさる。


「っっ!?」


私はポットに茶葉を入れる体勢のまま、硬直した。
そして。



「ゴメン」



謝罪が、耳朶を打つ。

それは、囁くような、酷く小さなそれだったけれど。
それでも、確かに私の鼓膜を震わせて。


「ダカラ モット……」
「『もっと』?」
「ワラッテクレ」
「っ」


それは、やっぱり命令形で。
でも、まるで懇願するような響きで。

振り返ろうとしたけれど、シリウスさんの頭が肩口にあるせいで、身じろぎぐらいしかできない。
シリウスさんの真意が知りたいのに。
その綺麗な青灰色の瞳は、端正な顔は。
私の位置からはまるで見えないのだ。

なんで。
どうして。
笑う?
もっと?

分からない。
ワカラナイ。
分かりたく、ない?

あまりに突拍子もないことを言われると、 人間、まともに言葉を発せなくなるらしい。
私はとりあえず、馬鹿みたいに握りっぱなしだったティースプーンを置いた。

で、とりあえず背後を取られたままでは困るので、 シリウスさんの頭がない方から体を反転させようとして。


「あ……」


開きっぱなしの扉からこちらを凝視する、漆黒を見つける。

こんな状況なのを、すっかり忘れて。
あまりの嬉しさに。
焦がれた胸の熱さに。
私はその人へと手を伸ばす。



、さん……っ」



私の知る、どんな彼女よりも幼い姿ではあるけれど。
間違うはずなんてない。

親友―― がそこに立っていた。


「〜〜〜〜〜めっ」


彼女は私の手に、一瞬の驚愕を全て飲み込み。
今まで何百回も、何千回もやってきたような、 一切の無駄のない美しい動きで杖を取り出し。



「あたしのに何してんだこのイケメンがぁあぁああぁああぁー!!」



シリウスさんを吹っ飛ばした。


「がはっ!!」
「きゃっ」


吹きすさぶ暴風と。
全身を揺さぶる轟音。
まるで巨人の鉄槌でも下ったかのような、衝撃が建物を襲い。
べりっと、音を立てるように、私の後ろから圧迫感が消え去る。
そのあまりの勢いに、思わず私も転んでしまうが。


「大丈夫か?


一体いつの間にそこにいたのだろう、 やっぱりどこか見覚えのある銀髪の少年が、穏やかな笑みと共に手を差し伸べてきて。


「サ、ラ……?」
「ああ。遅くなってすまない。


ようやく、自分が迷子でなくなったことを知った。





後ろの屍?見えない見えない。





......to be continued