アリスが落ちたのは、不思議の国のドアの前。





Butterfly Effect、1





「……ゼッ……は……ゼ……はァッ」


見たこともない、異国の町並みを、ただただ走る。
脇腹は痛み、喉が焼け、それでも足を止めることはない。弛めることもない。
できるものか。
捕まれば、死んでしまう。
『私』が消されて、しまう。


「……はっ……ゼッ……」


頭を巡るのは大量の疑問符。

『何故』『どうして』『どうやって』『いつ』『どこに』

すでに答えを持っているというのに、そればかり。
『何故』は『彼女・・が私を連れてこようとしたから』で。
『どうして』は『不測の事態で彼女とはぐれた』。
『どうやって』はこの際どうでも良い。
知ったところで現状どうしようもない。

問題は、『いつ彼女と再会できるか』。
が、やっぱり、それも私が考えたって仕方がない。
何故なら答えは誰にも『分からない』。
その時が訪れるのを待つだけだ。

思考すべきは、だから『どこに』。


――待てっ!」


背後に自身を追う声を聞き、危険を承知で路地へと飛び込む。
ただでさえ、向こうとこっちでは足の長さが違うんだから、直線を走るのはただの自殺行為だ。
目標が定まっている分、闇雲に走るこっちより向こうの方が下手な迷いがない分楽だし。
どこぞの逃走番組でもやっていたが、この手の追いかけっこの場合、角を有効利用しなければならない。
もちろん、大声を出したり派手な物音を立てれば別だけれど、角は曲がれば曲がるだけ良い。
角はつまり、死角。
死角を何度もつかれて、相手を見失わない人間なんていない。
いないと、信じる。


「…………ゼェッ……」


土地勘がない分不利だとか、袋小路に突き当たれば終わりだとか、この逃走劇の欠点はとっくに分かっている。
分かってはいるけれど、すでに逃げ出してしまったのだから、そんな欠点今更だ。
ので、土地勘がないなら、ただの第六感で。
次々と角を選択し、飛びこんでいく。
そして、どうやらそれは正しい判断だったようで。
曲がれば曲がるほどに、背後の声が離れていくのを感じた。

ごみやら樽やらは転がっているが、幸いにも対向者はいない。
悲鳴を上げる筋肉は無視して、私はひたすらに逃げ続ける。

『どこに』?



どこでも良い。
ただ、自分が自分でいられれば。



そして、本当に幾つの角を曲がったか分からないそこに、私は積み上げられた木箱を見つけた。
積み上げられたといっても、精々が6、7個。
縦に2つ。横に3つ。中の方に……あと1、2個あるか。
たくさんというにはほど遠く。
道を塞ぐには一人分幅が足りない。
けれど、それで十分だった。
その横をペースを落とさず走り抜ける。

後ろは、まだ来ていないっ!
追手と十分な距離があることを確かめて、私は今しがた抜けた木箱の一つを蹴る。

ガシガシと。
何度も。何度も。
重い木箱をかかとで横に蹴る。
道を塞ぐためでは、もちろん、ない。
今の自分はきっと泣きそうになっていることだろう。
頭は真っ白で、パニックで。
素足はズキズキ痛むけれど。
それでも、必死に足を動かす。

ガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシ ガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシ ガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガッ!

早く。速く。疾くっ!

気が逸る。

早く。速く。疾くっ! 来ちゃう!きちゃうっ!キチャウッ! 嗚呼、早く!速く!疾くっ!
早く開いてっ!!

やがて、気の遠くなるような数十秒の末、私は木箱に僅かな。
人一人分というにはまだ狭い、そんな僅かな隙間を作りだした。
肺を満たす要領で腹をへこませ、その隙間に自身の肩をねじ込む。
むき出しの身体が容赦なく擦れるが、気にしてなんかいられない。
ずりずりと、つま先立ちでできるだけ奥へ奥へ。
これ以上は無理だというくらいまで入り込んだ。


「……はっ……はっ……っは」


そう、これは鬼ごっこではなく、隠れ鬼。
体力も運動神経も相手より遙かに劣る私には逃げ続けることなど不可能だった。
ならば、ある程度の距離を離した後は、現実的に身を隠さなければならないのだ。
店の中はNG。匿ってくれる保証が皆無。

ならば『どこに隠れるか』。

人の死角――上方?
いや、この辺りの路地に階段はなかった。
何かの入れ物の中?
いや、人ひとり入れるようなものがそう都合よく道端に転がっていたりはしないし、 そんなものがあったら真っ先に調べられるに決まっている。
だったら。
だったら。
作るしかない。

自分が入れて、他人が入れないような空間を。

幸いにも、自分は昔からやれ「ペラい」だの「薄い」だの言われる痩せっぽっちの体型だ。
子どもしか入れないような隙間でも、なんとか入ることができる。
入れれば、シメたもので梃子の原理で幾らでも空間は広げられる。
後は、できるだけ奥に入って、隙間を塞げば良いだけ。
この場合、箱を斜めにして塞ぐのが良いだろう。


「……んっ……くぅっ」


目の前の木箱の左側を、注意しながら前方へ押し出す。
平行にではなく、斜めになるように。
ずずっと重い音を立てて、木箱は回転するかのように右へ動き、私が入ってきた隙間を塞ぐ。
完全に、ではないけれど、上出来だ。
そして、次に私は上の段ではなく、下の段の木箱を注意深く動かす。
上は動かせない。それではばれてしまう。
あくまでも下の段だけ半分ほど前に押し出し、空間を作る。
押し出し過ぎれば上の段が崩れてくるし、かといって押し出す量が少なければ、私がそこに入れない。
慎重に木箱を動かし、そして。そこで。


「……クソッ!どこに行ったっ!?」
「!!」


吠えるように自身を探す声を聞いた。
途端に、心臓が不規則に跳ねる。
思わず口元を覆って、息を殺す。


「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」


整えようとすればするほど乱れる呼吸と鼓動に、いつばれるか気が気でない。
ばれれば、私はおしまいなのに。


「チッ、せまいな……っ」


と、震えるほど近くで低い声が聞こえた。
今まさに、自分の目の前の木箱と壁の隙間を通ろうとしているところらしい。
恐怖に身がすくみ、不意にぼろりと涙が零れる。

どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。

助けて、と願う。
誰か助けて、と。
それは、自分をここに連れてこようとした彼女だったかもしれないし、 そもそもの原因を作った彼なのかもしれなかった。

止めてと言えば、止めてくれるだろうか。
……いや、それが仕事なら、止めてなどくれないだろう。
あの、シリウス=ブラックという人は。


「……あっちか!?」


荒々しい声を上げながら、シリウスが遠ざかる。
どうやら見つかってはいなかったらしい。
けれど、念のため、しばらくの間はそのまま身じろぎもせずに様子を窺う。
そして、心の中で1分を数えたところで、私はようやく木箱を再度動かし始めた。
なんやかんやで、どうにか狭苦しいスペースを確保する。
薄暗くなったそこで、私は借り物のローブを頭からすっぽり被って蹲る。
これで、外からはよほど目をこらさない限り、闇が凝っているようにしか見えないだろう。

視界に、ボロボロになった素足が映る。
それを見て、途中の路地にガラスがなくて良かったな、とぼんやり思った。
まぁ、砂粒が容赦なく突き刺さってはいるが、ガラスよりはましだろう。
嗚呼、キャミソールももう着れないな、これじゃ。
結構気に入ってたのに。


「ふっ……うっ……」


嗚咽が漏れそうだった。
一人ぼっちの自分が酷く悲しく。寂しく。憐れで惨めだった。


「……さ………」


帰りたい。


「…………さ…んっ」


かえりたい。


「……さんっ!」



早く、私を見つけて。



親友で、元凶の友人を呼ぶ。
思い浮かぶのは、先ほど別れた時の焦ったような声と表情。
お願いだから。
早く。早く探しに来て。
でないと、私は……。

ケサレテシマウ。

けれど、願いが届かないなんて、当たり前のことで。
願う私の耳に飛び込んできたのは、低い低い、絶望の声だった。


「さて……、出てきたまえ」





私が落ちたのは、魔法の国の路地の裏。





......to be continued