眠ることができたら、どれほど良かっただろう。





Phantom Magician 日談 8





ぼんやりと、僕はただそこに存在していた。
そこに。
ここに。
どこに?

もしかしたら、とっくの昔に魔力も尽きて、 存在が消滅しているのかもしれない。
自分が目を開けているのか、なにをしているのかも、僕にはもう分からなかった。

広がるのは無限の空間。
住み慣れたはずの、僕の本体の中だ。
ここでなら僕は杖がなくても魔法が使えて。
望めば、なんでも手に入る。
僕は、自由だった。

けれど、そのことになんの感慨もない。
嬉しくもない。悲しくもない。
外界と閉ざされて、一体どれくらいの時が経ったのだろう。
百年か、二百年か。
ひょっとしたら、千年くらいは経っているのかもしれない。
長い長い時の中で、僕――トム=マールヴォロ=リドルという存在は平らにならされ、 僅かなさざ波さえ立たなくなっていた。

もちろん、刺激がないでもない。

ここには、過去の僕の記憶があるから、それを客観的に見ることはできる。
でも、すでに何度となく見続けたそれには、飽きが来たのかなんなのか、 もう二度と見たくない、と思うほどの嫌悪を覚えるようになった。
しかし、それを見なければ、ここにはなにもなくて。
全てがあるくせに、なにも、なくて……。

ごろり、とあるのかないのかも分からない床に横になる。
寝たいと切に思ったが、云わば精神そのもの、という存在の僕に眠りが訪れることはない。
思考は途切れず。
永遠に、自由という名の不自由の中で腐っていく存在。
いっそ腐れて死んでしまえれば良いと思ったことは、数えればキリがないほどだった。
でも、僕はまだここにいる。



無様に、ここに存在してしまっている。
全て、あの金色の悪魔のせいで。



最初こそ暴れたり、悪態を吐いたり、それはもう考え付く限りの憎悪を滾らせていた僕だったが、 どれほど恨んでも、憎んでも、この世界は驚くほどに無関心を装った。
暴れれば暴れるほどに、精神に疲労が募った。
だって、ここにあの悪魔はいない。
ここには、僕しかいないのだ。


「おや。珍しいね。君がそんな風に寝っ転がっているなんて。
キングサイズのベッドにでもふんぞり返ってそうなのに」


と、自分に掛けられた声が聞こえた気がして、 億劫ながら視線だけそちらに向ける。
ちょこん、とそこには   の飼っていた猫が座っていた。


「……今度はお前か」


ここには僕しかいない。
それは確かだが、僕はある時から、幻覚を見るようになっていた。

悟りすました老人を。
金髪の悪魔を。
どこかの誰かを。
その使い魔を。

そして、自分自身を。

彼らは、いつもごちゃごちゃと、僕の存在に問いを投げかけてくる。
肯定も否定もそこにはない。
ただひたすらの自問自答。

多分、僕はもう半分以上狂っているのだろう。
誰もいないから、自分自身で、自分を定義しようとしているのだ。

そして、黒猫の姿をした自分は、コテン、と首を傾げる。


「どうやら相当参っているみたいだね。
精神と時の部屋もどきはお気に召さなかったかい?」
「お気に召す?どこが?なにを?気に入るはずなんて、ないだろう」
「何故?」
「『何故』?」
「だって、これは君が望んだ物だろう」


望んだ?この僕が?
このありとあらゆる全ての拷問に勝るここを?


「……馬鹿を言うな」
「いいや。君の望んだ物だ。だって君は永遠の命を望んだじゃないか」
「…………」


ヴォルデモート卿の悲願。
死への恐れに打ち勝ち、誰よりも高い場所に君臨し続ける未来。
その終着点がここだと、猫は言う。


「ここには君の嫌いなマグルもいない。馬鹿な魔法使いもいない。
望めば、動植物だって、なんだって生み出すことができる場所だ。
だって、全てはここで完結している。魔力だって、外に漏れることがないからほとんど失われることがない。
魔法なんて使い放題じゃないか。ホラ、君の望んだ物だ」
「違う……」


僕はこんな物を望んじゃいなかった。


「違わないよ。これが、君の求めた『永遠』だ」
「…………」
「知ってるかい?君がここに封じられて、外ではまだ10年しか経っていないんだよ」
「……な、に?」


予想外の言葉に、自分の目が限界まで見開かれたのが分かる。
これは、僕の妄想の産物だ。
だから、その言葉に信憑性なんて物は欠片もない。
僕が知らないことをコイツが知っているはずはないのだから。

けれど。
例えそれが眉唾だったとしても。
具体的な数字を示されたことに、心が冷える。

永劫に等しかった今までの時間が、たったそれっぽちだなんて。
そんなこと、認められるはずがない。

けれど、僕が認めようが認めまいが、そんなことはお構いなしとでもいうように、 幻は、なおも言葉を紡ぐ。


「驚いた?そう、君が孤児院で過ごした年月位かな。
こんなに長くて苦しくて辛いのに、まだたったのそれだけしか経っていない。
永劫は、まだまだまだまだ続いていくよ。君の望み通りにね」
「……っ!」


黒猫は断言する。
僕はそれに、そんなことはないと、なおも苦しく抗い続けた。


「僕が望んだのは、マグルの連中の苦しむ表情を見ることだった」
「根絶やしにしようとしていたくせに」
「僕が望んだのは、魔法使いが崇高な存在だと知らしめることだった」
「その魔法使いですら、使い捨てにしていたじゃないか」


しかし、黒猫はその反論をことごとく封じにかかる。
そこに悪意は感じられなかったが、かといってやはり好意などもない。
嗚呼、これが自分だというなら、僕は自分のことが好きでも嫌いでもないのだろう。

そして、黒猫は逃げることは許さないとでも言いたげに、最後の問いを発した。


「ねぇ、それで?『永遠』の感想は?」


永遠。
それが、これだと本当に言うのなら。



「こんなもの、僕は欲しくない」



ぽつり、と。
長い時間をかけて出た答えが、それだった。
すると、猫はぴょんと近づいてきて、
むに、と寝転がる僕の頬に前足を置いた。


「!」


流石に触れる幻覚は珍しかったので、ぎょっとする。
久々の自分以外の体温は、思った以上にひんやりとしていた。

そして、黒猫は金色の悪魔と同じ眼差しで、僕を見た。


「ようやく分かったね」
「?」
「そう、君は本当は永遠の命なんて望んじゃいなかったし、 究極的には、マグルも魔法使いもどうでも良かったんだ。
それなのに、自分の望んでいる物を間違えてしまったんだよ」
「間違い、だと?」
「そう。今ならきっと分かると思うよ。
言ってごらん?君が本当に欲しかった物を」
「欲しかった物……」


僕は、なんでも持っていた。
優れた頭脳に容姿、ありあまる魔法の才能。
言うことを聞かせられる人間だって周りに溢れていた。
家族だけは持っていなかったけれど、でも、別に欲しいと思ったことはない。
永遠の命も、こうなると頼まれたって欲しくはない。
なら、僕が欲しかったのは、なんだろう。
富?名声?
どれも、別に欲しくはないな。

驚いたことに、自分の中には確たる望み――目標と言った物が、一つも見当たらなかった。
闇の帝王が実は無欲だったなど、ダンブルドアでさえ目を剥くことだろう。
すると、僕の顔色を読んでいたらしい猫は、頬から足をどけながらこう言った。


「いいや。あるはずだよ。君が唯一固執した物、 固執した場所が」
「場所……」


その言葉に、連想したのはホグワーツだった。
薄汚い孤児院なんかじゃない。
僕の、本当の居場所。


「……帰りたい、のか。僕は」
「うん?」


そこに、自分の取り巻きはもういないことなど、百も承知だ。
けれど、そこで思い出したのは、温かい部屋にベッド。
手のこんだ料理に、不可思議な道具の数々。
実力さえあれば評価してもらえる環境で。
そこは、僕を黙って受け入れたという事実。
そう。こんな僕そのものを。

そして、そこに思い当った瞬間、僕は改めて目の前の生き物を見た。


「そうか……。僕は猫を被らなくて良かったのか」


人間関係を構築していく上で、自分を装うのはなにも悪いことじゃない。
我ばかり張っていては、社会で生きてはいけないのだ。
相手を表面上だけでも尊重する必要がある。
けれど、だからといって、それだけでは、自分自身がどこかに行ってしまう。
息が詰まって。
死にたくなる。

だから僕は、自分を出してさえいけば、それでよかったのだ。

我ながら危険思想で、協調性がまるでない人間だけれど。
だからって、なにも徹底的にそれを隠してしまうことはなかったのだ。
そう。別に僕は誰かを傷つけることだけを好んでいた訳じゃない。
新しい知識が増えれば面白かったし、
それに……。


『うへへ、りどるだー』


誰かの体温が心地良いということを、僕は知っていたのだ。

不意に、鬱陶しくて面倒くさくて馬鹿で間抜けで。
それでいてお人よしの少女の姿が、瞼の裏に蘇る。
それは、今まで思い描こうとして描けず。
思い出そうとしても、名前すら出てこなかった相手。


「……


そうだ。確か、そんな名前だった。
くだらないことで悩んで、憔悴して。
僕が手に入れられなかった、例外の少女。
彼女が、自分に抱き着いてきた時のことを、思い出した。

だらしなく緩んだ頬に、笑んだ瞳。

見ているだけで苛々した彼女だが、 何故だろう。
出会ってからというもの、いつだって彼女から目が離せなかった。
苛々するのに、見ずにはいられなかったのだ。
僕の持たない全てを持っている、彼女を。


「僕は、帰りたい」


気付けば、まるで決意するかのように、僕はそう言葉にしていた。
なにかに突き動かされるように、重たく感じる体を起こし、天を睨む。
それは、久しく感じていなかった、活力という物だった。


「永遠の命などくれてやる!僕をここから出せ!!!!」


今まで出したことがないほどの大きな声で、絶叫するように化け物に呼びかける。
感情の高ぶりに合わせて周囲に電撃が走るが、知ったことか。
この空間が壊れようと、今の無意味な停滞から脱出できるなら、どうでも良かった。

と、バチバチと空気が弾ける音が響くそこに。


「うん。良いよ?」


凄まじくあっさりとした、黒猫の相槌が降ってきた。
…………。
……………………。
空気を読め、この畜生が。

今現在、リアクションを求めているのはお前じゃない、という激しい怒りを込めて睨みつける。
すると、猫はあろうことか僕の目の前に浮いていて、にんまり、と悪魔のように笑った。


「君に分霊箱ホークラックスで居続けられると都合が悪い。
だからね?君には今から『別のなにか』になってもらうよ」
「!!」


言い終わるのが先か、それともこの空間に起こった変化が先か。
視界が、体が、感覚が。
ぐんにゃり、と奇妙な具合に捩じくれる。
思わず、猫を掴もうとしたが、僕の指先は空を切り。

ぐいっと。
自分より力強い手が、僕をどこかに引きずり上げた。







「っ!」


はっと、目を開ければ、そこは何度記憶の中に登場したか分からない、ホグワーツの教室だった。
夕日に照らされて、そこは血を浴びたように赤い。
そのことに目を見張りながら体を起こすと、血色の良い手が夥しい文様を刻まれた床に触る。


「!?」


その感触は木でしかないが、まるで長時間直射日光を浴びたかのように熱い。
だが、僕が驚いたのはそんなことではなかった。
床の文様も気になったが、なにより、自分の手に僕は驚いたのだ。

どくどく、と。

血の巡る体にこそ、驚愕した。
思わず、体中をべたべたと触っていると、


「どうやら上手くいったらしいな」
「っっっ!」


金色の悪魔を思わせる、声がした。
慌ててそちらに顔を向けるが、そこには誰もいない……いや。
夕日の全く当たらない壁の影の中に、誰かが立っていた。
僕の視線を受けたからだろう、その少年――いや、男は足音を立てずに日の当たる場所まで出てくる。

光を浴びて、男の銀の髪が。
白い肌が。
すっと通った鼻梁が、紅に染まっていく。

と、警戒も露わな僕の姿に、彼は足を止めると、僅かに唇の端を上げた。


「そう睨みつけるな。一応、初対面の相手だぞ?」
「誰だ、貴様は……。僕になにをした?」
「?見て分かるだろう。体を作ってやったんだ」
「!!」


ひょいっと気軽な動作で示されたのは、夕日を受けて輝く、紅きエリクシル……。
幻と言われる、賢者の石だった。
なんとも無造作に、男はそれを手の中で転がす。


「本当はこれも全部なくなってくれるのが良かったんだが。
人一人分の体じゃ、半分、といったところか。
まぁ、完全になくなるとダンブルドアに詰め寄られるだろうから、面倒は減ったのかもしれないな」


くすくす。
不自然なほどの余裕を湛えたその姿に、ぞっと全身が総毛立つ。
この感覚は覚えがある。
やはり、あの金色の化け物と対峙した時に感じた物だ。

だが、あちらから敵意は感じない、という事実が、僕に次の行動を躊躇させた。
それに、男から感じるプレッシャーは悪魔のそれに酷似していたが、 纏う雰囲気が、若干違う。
どこかちぐはぐで、バランスの悪かったあれと比べると、もっと安定していて。
落ち着いた声は、ずっと聞いていたくなるような物だった。

認めたくはないが、久しぶりに自分以外のなにかと話すという行為に、 流石の僕も抗いがたい魅力を感じてしまっていたのだろう。
と、僕が動きかねていたその次の瞬間には、 男は賢者の石をしまうと、あっさりと僕との距離を詰めてくる。


「っっ!?」
「大丈夫とは思うが、どこか不具合はないな?申告するなら今だぞ」


そして、僕は覗きこんできた男の瞳が、自分と同じ真紅であることを知った。


「!!!!」


どくん、と大きく心臓が脈打つ。
怖い、と思った。
同時に、嬉しい、とも思った。
相反する想いは、けれど反発することなく自身に内在し。
怖いほど、惹かれる自分を、意識した。

まさか、これも僕の同類だろうか、とその存在に思いを巡らせたその時、 男はようやく思い出したかのように、自分の名前を告げる。



自分は、サラザール=スリザリンであった者だ、と。





夢を見たいと、切に願った。



......to be continued