これは魂を捕らえる鏡。





Phantom Magician、212





くすくす くすくす


鏡の中で、少女が笑う。
少しずつ衰弱していく私を、気にも留めず。
ただただ、一緒にいられることが嬉しいというように、彼女が笑う。

がしかし、そんな逢瀬の時間に、無粋とも言える邪魔が入った。


「リーマス。いつまでここにいる気じゃね?」


億劫ながらも振り返れば、壁際の机に、ダンブルドアが腰掛けていた。
そこに、いつものような微笑みはなく、 哀れんでいるような、同情しているような、厳しさの中に切なさを含んだ表情だった。

一体、いつからそこにいたのか。
鏡にばかり気を取られていて気づかなかった自分に、唇を噛む。


「校長先生……」
「『みぞの鏡』の中に『あの子』がいるのじゃろう?」


ダンブルドアは、ごまかしを許さずにさっと本題を私の前に突きつける。
そこに、言葉にしない非難を感じ取り、鬱陶しいなと思う。


「ええ、そうです。これは、『みぞの鏡』と言うんですね」
「……リーマスよ。この『みぞの鏡』が示すのは真実ではない。
何百人もの人間がお主と同じように虜になったが、多くは非業の最期を迎えておる」
「……そうでしょうね。この鏡は、毒だ」


ふぅ、と小さく溜め息を吐いて、鏡に視線を戻す。
そこでは、愛らしい少女が、変わらない笑みをこちらに向けていた。
そう、この少女は、表情を歪めることなどない。
例え、自分が目の前でミイラになっていたとしても・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・死に絶えるその瞬間まで微笑み続ける・・・・・・・・・・・・・・・・・ことだろう。
何故なら、彼女は本物ではなく、あくまでも私の望む彼女だから。
彼女が泣くところなど見たくはない。
もっとも。
ただ人形のように笑い続ける彼女が欲しかった訳でも、また、ないのだけれど。

そのことに、きちんと気づいて。
抗いがたい魅力を発する鏡から離れられる人は、確かにいるのだろう。
けれど、なにか強い望みがあるのなら。
それを成し遂げるのは、かなりの覚悟が必要だ。


「分かっては、いるんですよ。こんなことしていると、この子がきっと泣くってことは」
「…………」
「『彼女』なら、べそべそ泣きながら、怒るでしょうね。
自分のことより、私のことばかり気にしているような人でしたから」
「ならば、ここから離れるべきじゃ」


冷たい鏡に、触れた手の平が温度を失っていく。
少女が応じるように伸ばしてきた手は、やはり温度がない。
ただ、それでも、そこに彼女の気配を感じるから。


「それは、できません」
「……リーマス」
「愚かだとは思います。でも、私はまだここにいたい。
いなければいけないと、そう思うんです」


自分の狂気は、重々承知だ。
けれど、倒れるその時までは、放っておいて欲しいと思う。
迷惑を掛けているし、失望もさせただろう。
ただ、私はもう、幼い子どもではない。
自分のこと位、自分で決められる。

と、私の考えが想像以上に固いことを悟ったのだろう、
ダンブルドアはいきなり十も老けたような、疲れた表情をして、 「明日までじゃ」と私にタイムリミットを宣告した。


「リーマス。この鏡は明日よそに移す。それまでに、心の整理をつけておくことじゃ」
「明日、か……妥当な所ですが、嫌だと暴れたらどうなさるおつもりです?」
「お主はそんなことはせんよ」


では、良い夜を。
密やかな囁きは、皮肉げな言葉であるはずなのに、微塵もその気配を見せず。
ダンブルドアが教室から出て行った先の、夜闇に溶けた。







「ダンブルドアも……この鏡で大切な人でも見るのかな」


ずっと独り身を通した稀代の魔法使い。
全人類的な愛を持つ人だが、長い人生だ。
恋人でなかったとしても、無二の誰かの一人や二人はいたことだろう。

あんなに強い人でも、その人達を夢見ることがあるのかもしれない。
でなければあんな風に痛みに耐えるような瞳は向けてこないはずだ。


「自分のことを見ているようだったな……」


そう、だから彼には分かる。
他人が幾らなにを言ったところで、鏡に背を向けるのは自分自身なのだ、ということが。
無理矢理引きはがしたところで、それは無駄だ。
鏡の前にいなかったとしても、心は囚われ続ける。


「…………」


ただ、期限を区切ることが有効な場合もある。
明日。
それが恐らく、私の体の限界だろう。
死ぬ気はない。
けれど、あの子のいないここで、のうのうと暮らすこともできない。
これは、そう。
二つに裂かれた心の、妥協点なのだ。
だからこそ、私は限界ギリギリまで、ここにいる。

周囲から見れば、危ういことこの上ないことだろう。
そのことを申し訳ないとも思いつつ、私はもう一度、自分の心と向き直るために鏡を見る。
すると。


「え?」


ダンブルドアと話したことで心境の変化でもあったのだろうか、 そこにいたのは、小さな少女ではなかった。

年の頃は、自分より一回り下くらいだろうか。
黒髪は少女よりも遙かに短いショートカットで、どこかさっぱりとした印象だ。
すらりとした象牙色の手足が、真っ青なワンピースからのぞいている。
漆黒の涼やかな瞳が、どこか悪戯っぽく笑みを含みながら、こちらを見つめていた。


「…………っ」



名もなき魔法使いが、そこにいた。



十年ぶり、位になるだろうか。
何度瞼の裏に思い描こうと思ったか分からない、最愛の人。
その名前を呼ぼうとして、けれど、声にならないもどかしさに、自分の表情が歪むのが分かる。

と、そんな私に彼女は愛おしげな笑顔を向けて。
しゅるしゅると、見る間にその姿を変える。
柔らかな曲線を描いていた体は、若木のそれに。
艶やかな髪は腰まで伸び、より女の子らしく。
まるで、『彼女』だけが時間を逆行しているかのように。


「あ……」


それは、さっきまで自分が会っていた少女……ではなかった。
なせなら。
姿形は全く同じだというのに、彼女は私に微笑んでいなかったから。
困ったように眉根を寄せて。
触れもしない、私の体に手を伸ばして。
今にも、泣き出しそうな表情を、していたからだ。

と、そうこうしている間に、彼女の瞳から一粒の涙が転がり落ちる。
その瞬間。



――



少女の、名前を思い出した。


……。!!」


そのことに疑問を持つ前に、私は鏡が邪魔だとばかりに、鏡面に手を伸ばす。
まるで、そうすれば彼女に触れることができる、とでもいうように。


!」


――りー、ます。


届け、と願う。
届いてくれ、と。


!」


『君』は卑怯だ。


どうして言ってくれなかった・・・・・・・・・・・・・!」


姿を変えてまで自分の傍に来てくれた・・・・・・・・・・・・・・・・・くせに、そのことを私に言わなかった、卑怯者だ。
そう、あの子は、私達の娘なんかじゃなかった。
あの子こそが、『彼女』だった。
突然やって来て、私の心に勝手に居場所を作って。
そのくせ、黙っていなくなった、最愛の人。
今もまた、そのことに気づかない私を置いて、消えてしまったのは、『彼女』だ。

怒濤のように頭を埋め尽くす、『彼女』の記憶に、私は気づけば泣いていた。
突然、今まで抑えていた物が溢れ出したその感覚は、渦のように私を飲み込んでいく。
ヴォルデモートに一人で立ち向かって。
英雄なんて呼ばれたあの人は。


『あたしの、きもち……うそ、とかっ、言、わないでっ!』


そう、本当はちっぽけな女の子だったんだよ。

嗚呼、そうだ。
君は頭が良いくせに、変に不器用で。
私のことになると、馬鹿みたいに一生懸命で。
一緒に、人狼になろうとした、変な子だった。
でも、


『スキだよ。リーマス』


すっごく笑った表情が可愛いなって、ずっと思ってたんだ。


「……こい!」


血を吐くように、声が漏れる。

一緒にいたいのに。
勝手にいなくなるなんて、巫山戯ている。


「出てこいっ!!!」


と、私の怒鳴り声に、鏡の中で泣いていたが、花のような笑みを浮かべた。
そして、まるで、抱きしめてくれと言わんばかりに、両手を差し出してくる。


「っ!!」


思わず、それに応えるように腕を広げる。
すると、その瞬間。

たぷん、と。

鏡面が、水面のようにたわんだ。
と、思った瞬間。


――……っ」


目の眩むような、閃光。
世界が、光の靄に包まれたように、白一色に染まる。
そして。


「!」


胸が詰まるような衝撃に倒されながら、
腕の中に現れた確かな感触を私は捕まえた。







「……ぅ…ぇ」


月明かりしか光源のない、空き教室に。
埃の舞う音と。
ひっくひっくと、しゃっくり上げるような声が響く。

にわかには、今の状態が信じられず、私は呆然と自分の腕の中の存在を見つめていた。
温かくて、柔らかく。
ふるふると、震える、細い肢体。
ふわりと香るのは、柑橘系のなにかだろうか。
彼女らしい、どこか爽やかな香りがその髪からは立ち上っている。


「っ」


そして、それを意識した瞬間、私は彼女の肩をきつく掴んでいた。
本当は、抱きしめたかったのだけれど、そうすると、彼女の表情カオが見えないから。
逃がさないように、手に力を込める。

すると、それに応えるかのように、彼女が小さくなにかを呟くのが聞こえた。
なにか……いや、それは、私の名前だ。


「…ぃ…ま、す」
「……?」
「リー……マス……っぅ…っくリーマス」


これは、夢だろうか?
それとも、鏡が見せた幻覚?

そう、理性はめまぐるしく事態を分析しようとするけれど。
僕の持つあらゆる感覚が、彼女という現実を教えてくれていた。
いたいけな幼子の姿でもなく。
不敵な青年の姿でもないけれど。
泣きじゃくる女性は、紛れもなく『彼女』で。
胸に顔を埋めるようにして、はそこに存在していた。


?」


情けなくも、声が震える。
嘘だ。こんな風に都合の良い出来事が、自分の身に起こるはずがない。

弱い心はそんな風に、希望が砕け散らないように、なけなしの防衛をしようとする。

すると、怖くて恐くて仕方がない私の様子に気づいたのだろう、
くしゃりと、表情を歪めたままに、彼女は私を見た。


「ごめんなさ……、リーマス」
「…………っ」
「心配、かけて」
「…………」
「……ごめっ」


嗚呼、だ。

彼女の謝罪に、確信した。
そして、確信すると同時に私の体は動き出しており、 かさかさに渇いた己の唇を、彼女のそれに押しつけていた。


「ん……っ」




逢いたかった。
逢いたかった、と、想いを注ぎ込むように、唇を重ねる。
何度も何度も、唇が腫れ上がるまで。
口づけを交わす。
歯列を割って。
舌を絡めて。
自分という存在を、刻みつけるように。






やがて、互いの息が弾んで、頭が酸欠になる頃に、 私は彼女の唇を解放した。


……」
「リー、マス……」


そして、囁くように名前を呼んで。
目が合った瞬間、私達は微笑んでいた。


「ただいま。リーマス」
「おかえり。


言いたいことも、言わなければいけないこともたくさんあった。
けれど、今はただ、君という存在をただ確かめたい。


「もう、逃がさないよ。
「ん……あたしも、もう逃げないよ」





ほら、つかまえた。





......to be continued