君がいないと、私の心は空っぽなんだよ。





Phantom Magician、204





そのことに気づいた時、悲鳴を上げなかったのが不思議なくらいだった。
いつもの朝食。
いつもの大広間。
でも、本当は、そうじゃなかった。

きっかけは、そう、美味しそうなマフィンだ。
きっと、『あの子』もこれは喜んでいるだろうな、と自然に顔が綻び。
その笑顔が思い浮かべられなくて、愕然とした。
いや、笑顔だけじゃない。
その名前も。
声も。
『あの子』を構成する全てが、頭から綺麗に消えていた。

ほとんど無意識に、自分の視線はグリフィンドールのテーブルを彷徨い。
そこに一つの空席を見つけた瞬間、感情が爆発した。


『…………っ』
『リーマス?一体、どうしたのじゃ??』


問いかけるダンブルドア先生の声も、私には届かない。

何故。どうして。あの子が。
いない。あの子?小さな。否、大きな?
可愛くて。いや、凛々しくて?
大切な。でも、どの位?
護ると決めた。いつ?
一緒に。今度こそ。僕の。私の?

ぽろぽろ、と。
考えれば考えるほどに、大事な何かが手の平から滑り落ちていく感覚。
十年前と、同様の。


『あの子は、どこに……?』


誰を捜しているのかも、もはや自分には分からなかった。
けれど。
間違いなく、ここには『あの子』がいない。
それだけが、私にとっての真実だった。

と、私は余程鬼気迫る表情をしていたのだろう、周囲の人々は口々に私を労り。
でも。


『っセブルス!君なら分かるだろう!?』
『……ルーピン。まずは我々でも理解できるよう筋道立てた話をしたまえ』
『っ!!』


誰一人、私の焦燥を理解してくれる人は、いなかった。

どうして。ドウシテ!
ここには『あの子』がいないのに!
ナンデ誰も、そのことを不思議がらない!?
私はもう、嫌なのに。
二度と、失いたくなんて、ないのに!!

そう思えばもう、居ても立ってもいられず、私はがむしゃらに当て所ない捜し物を始めた。

『あの子』はなにが好きだった?
ワカラナイ。
『あの子』はどこが好きだった?
ワカラナイ。
『あの子』だったら、黙っていなくなる?
ワカラナイ!
分かっていたはずなのに。
今はもう、何一つ確かな物がない。

でも、思う。
『あの子』は今、泣いている。
私と離れて、泣いている。
だって、私は今、こんなにも悲しい。
泣きたくて。
苦しくて。
気が狂いそうだ。

この気持ちは嘘じゃない。
間違いでもなければ幻でもない。
確かな、痛み。


――……  っ』


けれど、私の手元には。
『あの子』が確かに存在したという証拠が、なにもなかった。







散々、無意味な捜索を延々と繰り返し。
けれど、足を止めることもできないまま歩き続けての、数時間後。


「リーマス。落ち着くのじゃ」
「ダンブルドア、先生……」


私の前に立ち塞がる、影があった。
静謐なそのブルーの瞳を見た瞬間、吐きたくなるような恐怖がせり上がってくる。
それは、十年前に散々経験したことだった。

『彼女』のことを人に尋ねようとすると。
皆が、『彼女』を否定する、恐怖。

ダンブルドアは、自分にとって一言ではとても表せない恩人で、心の拠り所だ。
そんな人に、『あの子』を否定されたなら。
自分はきっと、今度こそ正気を保っていられない。

と、怯える私が分かったのだろう、ダンブルドアはどこか痛ましげに私を見る。
今すぐに逃げ出したい思いと、決してそれはできないという理性の板挟みになっていると、 彼は私をできるだけ刺激しないように、殊更ゆっくりと口を開いた。


「まず、落ち着くことが先決じゃ。
なにをそこまで慌てている?焦っているのだね?」
「…………っ」


ダンブルドアも、『あの子』が消えたことに気づいていない。

この絶望は、きっと誰にも分からないだろう。
それは、もう手遅れだと言われたようで。
棒のようになっていた足が、がっくりと、崩れ落ちた。
視界が、涙で滲んでいく。


「……ぐ……ぅっ」


泣いたりなんか、している場合ではないのに。
泣いたりなんか、していたら『あの子』が心配するのに。
嗚呼、でも、ここにはもう『あの子』がいないのだ。
それなら、泣かせることは、ない。

激しい矛盾と、迷走する思考に、目の前が暗く沈んでいく。
と、しかし、全てが闇に消える寸前に、目の前に年月を経た手が差し出された。


「落ち着いて、話をしよう。対応はそれからじゃ」
「!」


先があるかのような言葉に、はっと顔を上げる。
ダンブルドアは、深刻そうに口元を引き結びながらも、 キラキラと輝く、強い視線で私を見つめていた。

希望を持てば、それが砕かれた時に、胸が潰れる。
そんなことは分かっていた。
けれど、それでも。
その手に縋らずにはいれられない。

私は、情けなくも震える手で、温かなそれを捕まえた。

そのまま、校長室に招かれて。
私は座り心地の良いソファに身を沈めたまま、自分の焦燥について、言葉にできるだけ口にした。
『話をする』という言葉通り、ダンブルドアは私の話をいきなり否定するようなことはなかった。
姿形もない誰かがいなくなった、などという妄言を、彼は頷きながら最後まで聞いてくれた。
妄言。
そう、妄言だ。
見えないなにかの声が聞こえたならば、それは気が狂う前兆。
そんな魔法界の常識に照らし合わせてみても、誰もが私の言葉に眉を顰めるだろう。

『彼女』の場合は、闇の帝王の失脚という確かな足跡があった。
けれど、それでも『彼女』の存在をフィクションだとする人間はいなくない。
ましてや『あの子』に至っては、そんな足跡すらないのだ。
私は妄想と現実の区別が付かなくなっていた、と言われても仕方がない。
居もしない、『彼女』と自分の娘を夢見ていたのだ、と。
でも。


「『あの子』は、確かにここにいたんです。ほんの少し前まで……っ」


私の心が訴える。
幻なんかじゃ、ないのだと。
忘れたくなんて、ないのだと。
ただただ、愛おしいのだと、血を噴きながら。


「…………」


そして、長い指を組んだまま話を聞き終えたダンブルドアは、 刺すような眼差しで、「よく分かった」と、席を立った。
そのまま、彼は背中で腕を組み、かつかつと校長室の中を歩き回る。
それはなにかを思案しているようでもあり、何かを思い出そうとしているようでもあった。


「先生は……どう、お考えになりますか?」
「…………」


絞り出すような私の声に、しかし、ダンブルドアは即答を避ける。
彼を見つめる度胸もない私は、血の気の失せた手を、握りしめるばかりだった。

やがて、どれほど沈黙していたのか。
その緊張感に私の喉が水分を欲した頃、ダンブルドアは歩き続けながらも口を開いた。


「まず……お主が言う『あの子』じゃが」
「っはい……」
「わしは、確かに存在すると思う」
「!!」


静かな声は、圧倒的なまでの確信に満ちている。
そのことに驚きながらも、顔が綻ぶのを私は止められなかった。


「信じて、下さるのですか……っ?」
「信じるもなにもない。確かに、ここホグワーツから消えた者がおる。
如何に老いぼれていようとも、異変は察知しておったよ」
「では……!」
「じゃが――……」


弾む声で先を促そうとした私を、ダンブルドアの固い声が押し留める。
そして、声同様固いその表情に、膨らんだ期待が凍えていくのを感じた。


「それは、お主という存在がいてこそ、確信できたことじゃ。
十年前、『彼女』から手紙が届けられた時と、同じにの」
「!!」
「恐るべき魔法じゃ。対象者にまつわるあらゆる事象を、曖昧模糊とさせるとは。
いや、もしかすると、魔法ではない・・・・・・のかもしれんな……」


恐らく、全てを知るのは彼の人・・・だけじゃろう。
そう告げる、ダンブルドアの瞳には畏怖と、奇妙なまでの憐れみが浮かんでいた。


「『彼の人』?それは、誰です?」


まるで手がかりのように告げられたその形容に、思わず身を乗り出す。
すると、ダンブルドアは複雑そうな表情カオのまま、囁いた。


「お主も知っているはずじゃ。
明に暗に・・・・、『彼女・・の傍に控えていた御仁・・・・・・・・・・がいたじゃろう」



――男としての矜持くらい見せなよ。



不意に、年若い少年のような声が、耳元に蘇る。

『彼女』の傍に。
そして『あの子』の傍に。
影のように付き従っていた、小柄な体躯。
獣のような瞳で、こちらを睥睨してきた金糸の青年。
二つの姿を持つ存在。


「す……ティア?」
「左様。『彼女』の記憶が失われていく中、それでも鮮明に残る面影じゃ」


そう、『彼女』についての記録は、全てが消えた。
けれど。
『彼女』の隣にいた黒猫は、決して忘れられることがなかった。
理由は分からない。
ただ、不思議な使い魔の存在は、決して色あせることがなかったのだ。
もちろん、『彼女』と関わる姿は記憶にない。
けれど。
誰のものでもなく。
しかし、誰かの使い魔であり続けたその姿を、『彼女』と結びつけるのは容易い。


「『あの子』が消えたという確証はない。
しかし、『あの子』と共に消えた影を追うことはできるじゃろう」
「!」


『あの子』の姿も。声も。顔も。
私には分からない。
他の人間も、それは同じだろう。

けれど、黒猫の姿は?
今でもはっきりと思い浮かべることが出来る!


「ダンブルドア先生……。感謝しますっ」





それでも、彼を探すことは出来る。





......to be continued