慣れ親しんだ日常が、非日常に変わる。





Phantom Magician、201





ピピピピピピピピピ


「…………」


耳障りな電子音。
それが意識の遠くからあたしの覚醒を促す。

それに対して呻き声を上げながら顔を持ち上げて。
あたしは、何年ぶりかに見る景色に、動きを止めた。

目の前にあるのは、未だ鳴り響く目覚まし時計に、携帯電話。
ベッドの下には、脱ぎ捨てたようにクシャクシャのブラウスが一つ。
仕事用のバッグは狭い部屋の端に、無造作に避けられ。
後でやろうと思っていたゲームがテレビの前には積んである。

うんざりするような『現実』が、目の前に広がっていた。


「……嗚呼」


帰ってきた。

そのことに実感は、あまりない。
ただ、あの世界では決してありえない景色に、そうだと思う程度。

そしてあたしは、ぼんやりと、なにをすることもなく十数分座り続け。
携帯電話が、着信を告げるように明滅することに気がついた。


「…………」


メールが2件に、着信が数件。
それは、職場と友人があたしに寄越してきたもので。


「はは……」


それを確認した時に、渇いた笑いが唇から漏れる。
いや、もう実際、笑うことしかできない。

表示された日付は、
あたしの記憶が確かなら、あの世界に行った日から一週間も過ぎていない、それだった。







とりあえず、顔を洗って身繕いをし。
あたしは、歯を磨きながら感覚的には数年を経過している記憶を整理する。
さっきまで直面していた『夢』の出来事は、極力思い浮かべないようにした。

あの、真白の世界で黒猫と出逢った日。
細かい日付は覚えていないが、何月のいつ頃だった、程度のことなら分かる。
確か、あれは金曜日の夜だ。
(嫌みなお局様に散々ケチを付けられて、明日は休みだからとしこたまカクテルを飲んだ記憶がある)
そして、今携帯に表示されているのは、火曜日。


「となれば、えっと、無断欠勤2日目ってとこ?」


一週間記憶がずれているならば、まぁ、7日目という恐ろしいことになってしまうが。
過去のメール等のやり取りを見る限り、それはなさそうだ。(ちゃんと先週の金曜朝まではメールしている)


「うーわー、やっべぇ。捜索願いとか出されてなきゃ良いけど」


友人からのメールは、欠勤を心配する文面。
おそらく、着信に関しても内容的には似たり寄ったりのそれだっただろう。
ああ、いや。職場からの物は叱責かもしれないが。

すでに午後を迎えようという時間。
おまけに感覚的には久しぶりすぎて仕事の細かいやり方など忘却の彼方だ。
今更、仕事へ向かう気など微塵も起きず、あたしはとりあえず今日一日を仮病で乗り切ることに決めた。
そうと決めれば、職場にも電話を入れなければならないだろう。
精々弱々しい声を出して、昨日今日と寝込んでいた振りをするとしようか。
幸いにも、今の自分の声は長時間泣き叫んだようにガラガラだ。
頭があまり働いていないことも、きっとプラスに働くに違いない。

久しぶりに操作する携帯だが、目当ての番号はすぐに見つかった。
文明の利器万歳、と小さく呟きながら、あたしは冷たいそれをそっと耳にあてがう。


「……もしもし、です。はい、はい……、ええ、実はずっと寝込んでいまして。
そうなんです、はい。申し訳ありませんでした。……え?そうなんですか?
ああ、はい。そうです。いいえ、まだ行けていなくて、これからです。
ええ……。ええ。はい。本当にすみませんでした。……失礼します」


ぶつっと、通話が切れる。
微妙な電子音を響かせるそれを握りしめたまま、あたしはズルズルとベッドに背を凭れさせた。
通話口に出た先輩の声は呆れたような口調ではあったものの、記憶と変わらずあくまでも日常的なそれで。

こみ上げたのは、寂寥感。
今まで積み上げてきた数年が、ゼロになったような感覚。


「……いや、もっと酷い、か」


ゼロになったのではなく。
元々ゼロだったのを、100にも1000にも感じていた、というそれだけ。

何年も、あの世界で過ごしてきた。
色々なことがあって、色々な想いを重ねて。
それなのに、現実ではたったの、3、4日?

と、不意に、あちらの世界で優しい案内人が言った言葉が、耳に蘇る。



――この世界は……『夢』だよ。



「逆浦島太郎ってところかな」


がりがりと頭を掻きながら、溜め息が漏れ。
嗚呼、なんで自分はこんなに今落ち着いているのだろう?と頭の片隅が呟いた。

闇の帝王と命がけで対峙し。
最愛の人と別れ。
ようやく慣れ親しんだ人と、世界と、永遠に切り離された。
それなのに、心配するのは仕事のこと?
馬鹿げている。


「薄情だって思う?」


ねぇ、スティア?
誰よりも傍にいてくれた相棒へ向けられた問いは、虚空へ溶け。


「…………」


答えが返ることは、ついぞなかった。





それでも、ここで生きなければならない。





......to be continued