僕は多分、そのことを一生認めはしない。 Phantom Magician、131 その日は、朝から雨だった。 徐々に空気が冷たくなっていくのを感じ、保温の為に窓のカーテンを閉める。 「……暗い、な」 日中だというのに、そうしてしまうと驚くほど照度が下がった。 基本的に白で内装が統一された医務室でこれなのだから、地下牢教室などは陰鬱で嫌になるほどだろう。 最近、うららかな日差しの降り注ぐ日ばかりだったので気づかなかったが、 もう冬は随分近づいてきているらしい。 これからはマフラーが必要になってくるな、と考えながら、僕は壁の時計を見た。 「リリー。そろそろ……」 「……ええ。そう、そうね」 次が空き時間の自分と違い、薬草学の授業が入っている彼女にそっと声をかけるが、 しかし、リリーはそれでもベッドサイドから離れようとはしなかった。 その膝で、の猫が彼女と同じくただ一点を見つめている。 祈るように。 願うように。 その瞳が逸らされることは、ない。 彼女達が見つめる先にあるのは、普段の煩さがまるで嘘のように横たわる、の姿だった。 他の面々はとっくの昔に回復、もしくは意識を取り戻したというのに、 奴は、あの満月の夜から、すでに丸3日も死んだように眠り続けている。 その静かな表情は、起きることなど忘れてしまったかのようで。 リリーの不安が晴れることは、いまだになかった。 『……?』 彼女は、あの日まで医務室の世話になっていた。 だから、僕たちが怪我人を連れてきた時にもここにいて。 血塗れで気絶しているの、血の気のない姿も見ている。 『リ、リー……』 『どうし……どう、してっ?』 僕は、絶句し一瞬で青ざめた彼女の姿に、己の考えのなさを恥じた。 運び込むにしても何故もっと静かにできなかったのか。 他に、彼女を不安にさせない方法があったのではないか、と思う。 気丈な彼女は、それでも、すぐさまマダム ポンフリーとダンブルドアを呼びに行ってくれたのだが、 事情をすぐに聞きたい、問い詰めたいという思いを殺したその表情は、ひたすらに痛々しかった。 とブラックの手当ての間に、僕とポッターはダンブルドアに、 ブラックの馬鹿が、闇の魔術かなにか知らないが、とにかくとち狂って僕を陥れたのだと、事の次第を話した。 といっても、黒髪の人物やケーのことは伏せて、だが。 下手に不審な人物がいただのなんだのと騒ぎ立てない方が今は良いだろうと、 ポッターと(不本意ながら)示し合わせた結果である。 それほど長くかかった話でもなかったが、 それが終わるのを医務室の外で待っていたリリーには、永劫に等しい時間だったようだ。 一通り話が済んだダンブルドアが医務室から出てくるやいなや、 当然、リリーは目撃者として、僕やの友人として事情説明を求めた。 ダンブルドアは、決して彼女に詳しい事情を話さなかったけれど。 それは、僕が頼んだことだった。 ブラック達がリリーに嫌われようがなにをしようが、そんなことは至極どうでも良い。 でも。 リリーはきっと、知らない方が良い。 陰惨な、夜の野原も。 恐ろしい人狼や、誰かが誰かを故意に陥れようとした、なんて話も。 光の中を歩く彼女には、似合わない。 きっと、僕が人狼に襲われた、などという話をしたら、彼女は僕を心から案じてくれることだろう。 心配そうに瞳を揺らして。 もしかしたら、手を握って体を案じてくれるかもしれない。 そのことは、僕を心から幸福な気分にさせてくれた。 けれど、それは自己満足でしかないことも僕は知っている。 余計なことを言って、彼女の表情を曇らせる必要はどこにもない。 だから、彼女がどれほど望んでも、僕はこの事件について貝のように口を閉ざした。 もっとも、ポッターの馬鹿までもが、何故口を噤んでいたのかは知らないが。 ただでさえリリーは病み上がりなのだから、この馬鹿の心配をするだけで手一杯だとでも思ったのだろうか。 そうかもしれないし、そうではないかもしれなかった。 (奴の思考なんて、理解できないし、したくもない) と、一度声をかけてからどれほどの時間が経ってだろうか。 彼女は優しく黒猫を撫でながら、溜め息のように声を漏らした。 「ねぇ、セブ……」 「なんだ?」 「は、本当にただ寝ているだけなのよね……?」 「!あ、ああ……そう僕は聞いている」 「……そう」 癒術において、全幅の信頼を寄せられているマダム ポンフリーが断言していた。 は疲労と失血こそ酷いものの、命に別状はなく。 また、その身に呪わしい痕跡はなにもない、と。 そんなマダムの言葉を疑うわけではもちろんないが、 リリーはきっとこいつが目覚めるまでここに足を運ぶのだろう。 何度でも。何日でも。 けれど、いつも喧しい奴が、昏々と眠り続けるのを見ると、嫌な考えばかりが頭を巡る。 と、リリーはそれを断ち切るかのように一度大きく頭を振ると、 黒猫を膝から下ろすために抱き上げた。 「貴方のご主人様は相変わらず寝起きが悪いわね……」 『……まぁ、ね。は、主人じゃないけど』 猫はリリーに応えるかのように、一度小さく にゃー と鳴いた。 この猫の声を聞いたのは久しぶりだった。 こいつは、がここに運び込まれた日に、リリーが部屋の扉の前で見つけた。 主人が心配なのだろうと思うが、不思議なことに、黒猫は自分から室内に入ってこようとはしない。 衛生上、間違いなくその方が良いに決まっているのだが、動物にそんなことが分かるはずもないのに。 昼となく、夜となく、猫は扉の前で主人が出てくるのを待ち続けている。 じっと佇むその姿は、僕達には酷くしょぼくれて見えた。 猫自身は怪我などしていないのに、酷く痛そうだった。 だからだろう、リリーはマダムにそれと分からないよう、こっそりと猫を主人の下へと連れて行く。 大丈夫だと、撫でながら。 自分を、猫を、支えている。 猫がそれをどう思っているのかは知らないが、暴れないところを見ると互いに良いことなのではないかと思う。 そして、 「じゃあ、セブ。後はお願いね」 『僕からもお願いしておくよ』 「……ああ」 リリーが床に下ろすと、猫はいつものように僕をちらりと見上げ、 何度も心配そうに振り返る彼女と並んで医務室から出て行った。 僕は、それを見送ると、リリーがさっきまで座っていた椅子に腰掛けて、 持ってきた本を広げる。 がしかし、ここ数日ずっと頭にあることのせいでページは少しも進まない。 ちらりと、僕は本からの寝顔に視線を移した。 この馬鹿が目覚めたら、言いたい言葉がある。 問いたい、質問がある。 だから、暇を見つけてはここに来ているというのに。 こいつは人の気も知らないで、ぐーぐー寝続けて。 「いっそ、殴ってやろうか」 それでこの馬鹿が目覚めるなら、僕は幾らだって拳を固めるのに。 僕がの目覚めを待つ数日の間、色々な人間が見舞いにやってきた。 リリーはもちろんのこと、こいつと仲の良い女子連中、 ファンだとかいう男ども(!?)に、写真サークルの面々。 喧しいポッターは来た途端にマダムに追い払われ、 凄まじく不機嫌な表情をしたブラックは、リリーの姿を見るなり踵を返した。 けれど、そんな見舞客の中に金糸の奴と、鳶色の監督生の姿はなく。 「……ちっ」 そのことを思いだし、意図せず、舌打ちが漏れる。 非科学的で、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、 そいつらが来ればは、目覚めるんじゃないかという思いが捨てきれなかった。 『ごめん、セブルス。本当に、すまない……』 ダンブルドアとポッター、そしてリリーが病室から去った後。 誰よりも最初に目を覚ましたルーピンは、 物音に気づいてベッドを覗き込んだ僕の顔を見るなり、情けのない表情でそう言った。 叫びの屋敷で僕に出会ったことを覚えていたのだろう、 奴の状況把握は迅速で、的確だった。 カーテンの隙間から入ってきた僕がかすり傷程度は負っているものの、 ぴんしゃんとしていることに安堵と罪悪感の二つを抱き、 ルーピンは自分の怪我も顧みずに頭を下げてくる。 「謝って許されることじゃないけれど、すまなかった」 「…………」 その白い顔色に、ルーピンが心から現状を憂えていることが伝わってきた。 しかし、そこに自らの保身といったものは、欠片も浮かんでいなかった。 人狼であることが、周囲に知られればこの男はホグワーツを去ることになるだろう。 そして、人狼を受け入れるような酔狂な学校がここ以外にあるとも思えないので、 僕が一言それを漏らしさえすれば、一生、日陰者になるしかない。 つまり、ルーピンの側からすれば、僕の機嫌を必死に取って、口止めをしたいはずだった。 それなのに、ルーピンの口からそんなことは一言も出てこない。 あるのは、ただ後悔、それだけだ。 そのことに、自分の心が決まるのが分かった。 「ルーピン、貴様、まさかこのままいなくなろうとでも思っているんじゃないだろうな」 「え……」 「図星か」 あまりにも潔いその態度に、感じた違和感。 そこから得た推測を口にすれば、ルーピンは分かりやすく目を丸くして驚きを表現した。 こいつは、多分、厭いているのだ。 秘密がバレることを恐れる日々に。 人を傷つけることに怯える日々に。 確かに、あの日人狼になるかもしれないと思った僕には、その気持ちがなんとなく理解できた。 仮にそうなれば、リリーを傷つける自分など、消えてしまえば良いと願うだろう。 もし、リリーを襲うことで彼女と自分が一生分かちがたい絆を得るとしても。 僕はそれを望まない。 光の中を生きる彼女が『彼女』なのだということを、今の僕は知っているから。 「セブルス……」 ルーピンは、僕の質問の意図を測るかのように、目を細めた。 まぁ、ホグワーツから去ることに対して、反対するかのような文脈だったのだから、無理もない。 僕がそんなことを言い出すのはおかしいと思ったのだろう。 僕はこいつと友達でもなんでもない。 というか、ポッターなどと連んでいるあたりで、敵対関係にあると言っても過言ではないだろう。 その点に関して、僕も否定する気はない。 そして、ルーピンはそのことを再確認するかのように、淡々と言葉を重ねた。 「だって、人狼が傍にいるなんて、普通は嫌だろう?危険なことも証明された。 ダンブルドア先生には申し訳ないけれど、もうここにはいられない……」 「ああ、そうだな。化け物と知って傍にいるなど、ポッターはやはり気違いだ」 けれど。 人を傷つける自分は幸せになる資格なんてない、とでも思っているに違いないこの男を見ていると。 何故だか苛々した。 それも、少し、などという可愛らしいレベルではなく、無性に、だ。 苛々する。 自分の悲劇に酔っているようだから? 自己犠牲を素晴らしい物のように肯定しているから? いや、違う。 それもなくはないのだろうが。 僕はただ、単純に。 「だが、危険だというのは、間違いだろう」 「?」 「近づくから危険なんだ。そうでなければ、危険なことなどなにもない」 「!!」 こいつが逃げようとしているから、苛つくのだ。 逃げることは悪いことではない。 蛮勇など、一歩間違えば自殺志願だ。 グリフィンドールではなく、スリザリンである僕はそう思う。 逃避は一つの手段だ。 だが、ルーピンがしようとしているのは、目的としての逃避だった。 なにかをするために逃げるのではない。 逃げた先には、なにもない。 それは、明確な違いで。 僕がこんなことを言う原因だった。 「……と、貴様の尊敬するダンブルドアが言っていた」 僕はいっそ冷たく見えるよう視線を鋭くしながら、問いかける。 「一つだけ訊くが、お前は僕があそこに行くことを知っていたのか?」 「まさかっ!」 なら、良い。 僕はきっと一生、ブラックもポッターも許しはしない。 けれど、このことでルーピンを批難することも、またしない。 そう、決めた。 「そもそも、どうして君があそこに……」 「さぁな。詳しいことはポッターにでも聞け」 やがて、ルーピンが口にした困惑も露わな言葉に投げやりな気持ちになってきた。 そんなことは、僕の方が訊きたいくらいだ。 自分が狙われたらしいことは、分かる。 どのように始末されそうだったかも、理解した。 けれど、何故そうなったのかを、僕は知らない。 そう。いまいち、今回の事件は流れが分かるようで分からない、という印象だった。 自分は渦中にいたのだろうが。 不思議なことにその中心ではなかったようだ。 そこにいたのは、寧ろ…… 「…………」 けれど、これ以上この件に関して深入りするのも、不毛な気がした。 なにしろ、この事件は、ダンブルドアから厳重な口止めを施されている。 ルーピンの進退、ダンブルドア自身の進退、その他色々な思惑が絡んでのことだろう。 嗚呼、そうだとしたら。 もしかしたら、ダンブルドアは僕の願いなんて関係なく、リリーに今回の事を話さなかったかもしれないな。 考えて見れば、グリフィンドール贔屓の過ぎる老人が、 スリザリンである僕のことを慮るなんて滅多にないことだろうし。 とにかく。 奴曰く、今回の事件は決して表に出ることのないものなのだから。 ならば、真相なんて同じく出てくるものではないのだろう。 そうなると、僕としてもこうして医務室に来ないで、さっさと日常に戻った方が良いのだろうか。 全てを成り行きに任せてしまっても、僕を無責任だと言う輩はいまい。 運命とやらに流されるのも、時には必要なのだろう。 と、そこまで考えた僕だったが、 その後にルーピンが吐いた言葉は、流石にそのまま流すことができなかった。 「ポッター……?じゃあ、ひょっとして君を助けてくれたのってジェームズなのかい?」 「ポッターが僕を……?」 さっきまでと打って変わった、どこか明るい表情の男を、信じられない思いで見る。 この男は、一体全体何を言い出した……? 「実は、狼だった間のことを、少しだけ覚えてるんだ」 「すごく興奮していたから、夢と現実が少し混ざっているけれど」 「誰かが、必死に僕を止めてくれて。そして、受け入れてくれたんだよ」 「こんな僕を、大好きだって……」 「そうか……あれは、ジェームズだったんだね」 確かに箒に乗せて危険から遠ざけた、という字面だけ見るならば、 それはポッターが僕を助けたということになるのだろう。 だが、それは決して認められないことだった。 奴が気に入らないというのももちろんだし、ブラックと結託していた可能性があったこともある。 けれど。 僕がなによりも先に思い浮かべたのは。 思い浮かべてしまったのは、全く別のことだった。 「――…黙れっ!」 「!?」 そして、僕はさっきまで自分がいた場所――隣のベッドを見せつけるかのように、 カーテンを勢いよく横にスライドさせる。 「仮に僕を助けた奴がいるとしたら、それはこの馬鹿だけだ!!」 「!?」 静かに横たわるという予想外の光景に、ルーピンの瞳が見開かれる。 「ポッターが僕を助けた、だと? 奴が助けたかったのは、お前で!ブラックで! そして、なによりも、誰よりも自分自身だ! あれが僕の為を思って、僕を助けるだなんてこと、あるはずがないだろう!!」 「っ!そ、それは……でも……」 「煩い!!」 純粋に。 打算もなしで、僕のところに来たのは、こいつだけだった。 僕を案じて、人狼の前に身をさらしたのは。 嗚呼、いや、本当は打算もあったのかもしれない。 日頃から不毛な恋に身を焦がしている男なので、 ルーピンが誰かを傷つけるとなれば必死にそれを止めに来ることだろう。 ルーピンのために。 それなのに。 この男は、なにも覚えていないのか! 震えながら、役に立たない僕を逃がしたを!! 血塗れになりながら、それでも必死に戦っていた、あいつを!! そのことに、自分らしくないと心から思いながらも、目が眩むような怒りが吹き上げる。 ――あ、リ……マス、手当……お願……。 気を失う直前、金髪の青年に抱かれながらも、あいつが最後まで考えていたのはルーピンのことだった。 人狼に対する恐怖も、偏見もなく。 リリー以外の誰からも疎まれていた、僕に対するのと同じように。 それが、この魔法界でどれほど奇異で、ありえないことなのか、貴様は知っているはずだろう!? がしかし、そんな僕の義憤も、意識を失っていたルーピンにはまるで分からない。 奴は、戸惑うようにのベッドを呆然と見ていた。 「どうして……、が?」 「言ったはずだ。詳しいことはポッターにでも聞け、とな!」 これ以上、その煮え切らない表情を見ていたくなくて、会話をしていたくなくて、 僕は足音高く、ルーピンに背を向ける。 「ただ。こいつは、貴様が人狼でも逃げなかった」 「!」 「だから貴様も――……」 逃げるな。 嗚呼、本当にこんなの、自分の役割じゃないのに。 僕は、そう捨て台詞を残して、医務室を去ったのだった。 それから、ルーピンの姿は見ていない。 聞いた話によれば、さっさと医務室を退院(?)した後、自室に籠もっているとのことだった。 まぁ、まだ校内にいるだけ上等なのだろう。 悪びれもせず見舞いに来るブラックなどより、余程まともな神経をしていると言えなくもない。 だが、もう3日だった。 より余程酷い怪我の人間が回復している中、一番軽い怪我のこいつが起きない。 まぁ、骨折の方が実は失血よりも簡単に治せるらしいのだが、それでも。 心配して顔を見せてもよさそうなものじゃないのか。 と、そこまで考えて苛つきだした自分に、ふと疑問が生じる。 何故、がルーピンにないがしろにされて、僕が苛つくんだ。 「なんだか、これじゃあ、僕とが友達みたいじゃないか」 …………。 ……………………。 「っ!」 ぶわっと、その想像に怖気が走った。 自分の中で本能とも言える危機意識が過去ありえない位のレベルで警報を上げている! 駄目だ。これ以上考えてはいけないっ その先にあるのは間違いなく未曾有の危機だ 自滅だ 世界の終わりだ! 思考停止しなければ……!! あー、あー、僕はなにも考えていない何も考えていない何も考えていない――… 心中、凄まじい勢いで現実逃避を図る僕に、 は「お前その態度はなんなんだゴルァ!」とでも文句を言ってくるに違いないが、 そこは看過して貰いたいところだった。 なにしろ、奴と友達だなどと考えると、とんでもない程やるせない気分になってくるのだから仕方がないだろう。 ……あの馬鹿と同類だなんて、間違っても思われたくないからかもしれない。 と、そんな風に失礼なことを考えていた僕は、だから、反応が遅れた。 「……なに百面相してんの?セブセブ」 「っっっっっ!?」 呆れたような口調と表情。 どこかやる気の見えない姿勢。 が、至極気怠げに起き上がってこちらを見ていた。 この馬鹿が生きていて良かった、だなんて言えるはずもない。 ......to be continued
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