油断をして良いのは、真の強者かそれとも。 Phantom Magician、127 「……くっ」 現状に、頭が付いていかない。 というか、頭を働かせている余裕がない。 ぐぅうううぅうううぅるるるる 狭くて暗い空間に満ちるのは、唸り声と獣特有の臭気。 先ほどまでは杖の先端を向けて威嚇していたが、その頼みの綱も、 直前の攻防で部屋のどこかへ転がっていってしまった。 「……ルーピン」 無駄と百も承知していながら、一瞬だけ目にした男の名前を呼ぶ。 だが、月明かりに輝くその瞳に理性はなく、その獣はこちらの隙を窺うばかりだった。 膠着状態が続く中、自分の背につと冷や汗が伝ったことを知る。 ――人狼。 月明かりを浴びることによって姿を変え、人間を襲うケダモノ。 そのあまりの危険性から監視され、管理され。 退治されてきた、憐れな化け物。 その見分け方などは、すでに授業で習ったとおりだ。 だが、それと直面した時にどうするかまでは、習っていない。 「……ちっ」 人とは比べものにならないその膂力。 鋭い爪や牙。 どこをとっても、最低で大けが。 最悪で殺されるという現実しか見えてこない。 「いや……」 最悪は、同じ人狼になる、ということか。 人狼にも人権が認められていると謳いながら、魔法省は彼らを差別し冷遇する。 月に一度、無差別に人を襲う化け物だ。 手厚く保護などしてやる必要性など見いだせないのだろう。 その意見には、まったくもってその通りだと、思う。 だが、彼らはきちんと考えるべきだった。 人の群れの中に混じる人狼のことを。 疫病患者と同じで、全ての人狼を隔離し、その元を根絶しない限り。 化け物は増え続けるという現実を。 『――?ルーピン、か?』 『セブルス!?逃げ……ぐぅっっ!』 『………っ!?』 驚愕に満ちたルーピンの、最後の言葉が耳に残る。 獣に姿を変える前、僕を視認した男は、必死に僕を遠ざけようとした。 それは、自分ではなく、僕の身を案じる言葉だった。 ――リーマスはね、本当の本当に、優しいんだよ。 ――人のためなら、自分のこと後回しにしちゃうんだ。 「くそ……っ」 悪あがきとして、懐に手を入れ、ガラスの小瓶を引き出す。 すると、その動作に反応したのか、化け物は体を低くして、いつでもこちらに飛びかかれるように身構えた。 最善は、無傷でこの場から逃げ出すことだ。 正直、今自分のいる場所すら判然としない状況だったが、それは言っても始まらない。 杖もなく、腕力もない。 魔法薬とて、攻撃に向く物など何一つ持っていない。 だがしかし、それでも僕に諦めるという選択肢はなかった。 数時間前、しんと静まりかえった城内で。 僕は達成感とやりきれない空虚感を胸に抱いていた。 原因は分かっている。 それは、その直前にあった、ブラックとの魔法の応酬のせいだ。 けれど、それが分かっていても、僕は自分の持つ感情をまるで制御できなかった。 「……はっ。こんな様子を見たら、奴は笑うな」 いや、どちらかと言えば、それみたことかと苦笑するだろうか。 ここ最近、見慣れた白磁の美貌を思い出して、そう思う。 『セブルスと悪戯仕掛け人の間に、明確な力の差はないよ』 ある日、魔法の練習中の合間で、奴はそう言った。 だから、勝負を左右するのは知識と経験、人数差でしかない、と。 『知識と経験は僕が教えているから、格段にレベルが上がっているし、 多分、単体での勝負なら負けることだけはありえないね。 もっとも、心の準備ができていない今はまだ、手を出さない方が良いけれど』 『フン。言われなくても、奴らにかかずらっている暇はない。 それに、奴らは無駄につるんでいるんだ。 あの連中全てを圧倒できるようにならなければ意味がないのは分かっている』 『……意味、ね』 『?……なんだ』 『セブルス。でもそうなった時、どうなるか。君は本当に分かっているのかな?』 男は、僕の虚勢混じりの言葉に、柔らかく笑みを零した。 その、まるで忠告をしているような態度が訝しくて、問い返した言葉がある。 どういう意味だ、と。 すると、奴はどこか遠くに目をやって、まるで世界の真理――いや、心理を語るようにぽつりと声を漏らした。 『虚しくなるだけだよ』 その時はまるで意味不明な言葉だったが、実際に今まで手こずっていた相手をあっさり下した今、 なんとなく、奴の言いたかったことが分かったような気がする。 ずっと。 それこそ、入学時から忌み嫌い、憎み、己にとって最大の敵として認識していた相手。 闇の魔術に傾倒したのも、奴らに対する対抗意識が強く。 呪いを練習したり、開発したりしたのも、いつか奴らに使うためのものだった。 そんな日々がこれからもずっと続くと思っていたし、きっと信じてもいた。 「それなのに……」 今日、自分はブラックを圧倒してしまった。 それは、多分、受験に向けて生きていた人間が、その受験を終えてしまった心境とよく似ている。 もちろん、ポッターと二人でいるところをどうにかした訳ではないし、 いつも準備を整えている僕と違って、奴は油断で隙だらけだった。 そんな男に勝ったところで、胸を張って誇れないことは自分でも分かっていた。 けれど、そのあまりのあっけなさに、拍子抜けしてしまったのも事実で。 自分の今までしてきたことはなんだったのだろう、そう考えてしまう。 簡単に激昂する、あの程度の男に。 勝ったからといって、どうなるというのか。 「……はぁ」 本当は、リリーの元へ見舞いに行くつもりだったが、僕は溜め息と共に行き先を変更する。 聡明な彼女のことだ。今の心境では逆に心配をかけそうである。 大分回復してきて復帰間近とはいえ、余計な心労を与えたくはない。 では、どこへ行くかといえば、こんな時の暇つぶしにはもってこいの図書室だった。 今日はクィディッチの試合でもあることだし、きっといつも以上に静かな時間が過ごせることだろう。 (余談だが、の馬鹿は出る出ると大層な噂になっていたくせに、結局出ないらしい) (おかげで、ハナハッカのエキスが大量に無駄になったじゃないか。どうしてくれる) (いや、別に奴のためにわざわざ用意してやったワケではないのだけれど) 確か、前から気になっていた本がそろそろ入る、とマダムが話していた覚えもあった。 後から思えば、立派な現実逃避なのだが、その時は名案に思えて。 僕はその後、試合終了のけたたましい放送が鳴り響くまでの間、図書室で穏やかに過ごした。 かつ かつ かつ 確か、読んでいたのは薬草学の研究書だっただろうか。 腫れ草の膿がどのような効能を持っているか、 それによってどんな魔法薬が期待できるかを綴っていた項目に目を通していると、 しばらく誰もこないはずだったそこに、一人の男がやってきたのだった。 真っ直ぐにこちらを目指してやってくる足取りに迷いはなく、目的が明らかに僕であることが伝わってくる。 灰色の瞳に、無造作を気取った長い黒髪。 斜に構えた尊大な姿はいつ、どこで見ようが不愉快だった。 その、しばらくどころか基本見たくもない顔を見て、自分の眉根が寄るのを感じる。 「……懲りない奴だな。ブラック」 「…………」 さっき、足をすくい上げてやったというのに、まるで応えた様子のない薄笑い。 の奴を馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、こいつはそれ以上かもしれなかった。 なにしろ、額と鼻の頭がまだ真っ赤なままなのだから。 床に叩き付けた時に良い音がするとは思ったが、想像以上の赤さである。 鼻に至っては、どこのトナカイだ。 のように平たい顔であれば別だが、欧米人の鼻の高さが見事にあだになっていた。 その状態で幾ら格好付けても笑いを誘うだけだと、誰かこの馬鹿に教えなかったのだろうか? いや、ひょっとしてこの男、自分の状態にも気づいてないのか?? 僕は、例えマダムが騒ぎ立てようと応戦すること決意し、膝の上に杖を取り出す。 「何の用だ。 まさか、一日の内、二度もやられに来た訳じゃないだろう?」 「……あア。まさか、そんなはずがねぇだろ」 そして、奴はポケットに突っ込んでいた両手を取り出し、 丸腰であることをアピールしながら、なんとも大げさな様子で口を開く。 「さっきの魔法には感心しテな。ご褒美にちゃんと相手をしてやロウと思ったのさ」 「ご褒美だと?」 負けた分際で、しかもその姿で、随分上からの物言いだ。 そのことに、怒り以上に呆れがこみ上げる。 恐らく、さっきの勝負は卑怯な手段が〜などと考えていて、素直に負けも認められないのだろう。 恐ろしく狭量なことである。 と、ブラックは僕の心底白けた視線にはまるで反応することなく、なおも偉そうに言葉を続けた。 「今から十分後、暴レ柳の幹にある一際大きなコブを押して、通路を進メ。 そこで、正式にお前の相手をしてやるヨ。 嗚呼、でもお前に友達がいるワケがないから、介添人はナシだな」 「フン。そう言ってくだらない貴様のご友人を連れてくる気じゃないのか?」 「はハッ!騎士道精神を重んじルグリフィンドール生が、スリザリン相手に何人もでかかるかよ! 怖いのか?スニベりー」 いや、僕に対していつもいつも複数で掛かってきてるのは紛れもなくグリフィンドールの貴様らだろうが。 どうやら、目の前の馬鹿は、自分の言葉すら意味が分かっていないらしい。 そんな男の相手をしてやるなんてくだらない、時間の無駄だ。 そう思う自分がいる一方で。 「…………」 互角、もしくは不利な条件でこの男を負かせれば、 この空虚感はもしかしたら無くなるのではないか、そんな気もした。 何故なら、そうすれば、自分は誇れるから。 彼女に。 自分を認めて貰えるかもしれないからだ。 ふと、凜とした白百合のような笑顔が、眼裏に浮かんだ。 それは、無視するにはあまりに魅力的な可能性。 恐らく、このことがばれれば、またなにかいざこざが起こるに違いないが。 気づけば僕の口は、正直な自分の望みを吐き出していた。 「……良いだろう。そこまで言うのならもう一度地べたに這いつくばらせてやる」 そこにあるのが罠だと分かっていても。 僕は、睨み付けるようにその挑戦状を受け取った。 「そして、このザマか……っ」 手にしていたガラス瓶で飛びかかってきた狼の鼻面を殴り、 その液で化け物が怯んだ隙に、僕は廊下へと飛び出し、その部屋の扉を閉める。 入っていたのはハナハッカのエキスなので、例え奴がガラスで顔を切っていても、即座に修復されるだろう。 だが、それでも、異物が粘膜に付着する際の激痛は避けられないはずだ。 ガスガスと体当たりを仕掛けられ、軋むドアを手で抑えつつ、建物の内部を見回す。 どうやら、一般より大きなどこかの館かなにからしい。 辺り構わず積もっている埃に、ここが無人になって久しい廃墟だということが見て取れる。 ほとんどの窓に木の板が打ち付けられた室内は、幾ら満月の明かりが漏れ入るとはいえ、酷く薄暗かった。 そのことに、何度目になるか分からない舌打ちが漏れる。 狼は基本夜行性。 自分より遙かに見通しが利くはずだった。 つまりは、下手に隠れても無駄、ということだ。 いや、例え見えていなくても、その嗅覚があれば、すぐに自分を見つけることだろう。 なら、2階に上がるのは論外だ。 ただでさえない逃げ場を完全に失ってしまう。 だが、玄関から外に飛び出すことも、できそうにはなかった。 なぜなら、今の自分は杖を持っていない。 これだけ厳重に封鎖してある建物の扉が、そう簡単に開くとも思えないし、 なにより、鍵を閉められなければ、あの化け物を中に閉じ込めることもできないからだ。 ここが町中なのか草原の一軒家なのかは知らないが、 開けた場所であった場合、僕の脚力で逃げ延びることは難しい。 そうなれば、その先に待ち受けているのは惨劇である。 と、僕がそれらの思考を一瞬で行った直後、 バキッ 木の砕ける嫌な音が背後から聞こえた。 「っ!!」 そして、僕はそのことを脳が理解するより早く、目の前にあった飾り棚を背後に投げつけていた。 「ぎゃんっ!!」 砕けたドアの隙間から、獣の悲鳴が響く。 僕はしかし、この一瞬を無駄にすることなく、転がるように前へ駆けだしていた。 目の前の木戸を蹴破る勢いで開くが、そこはダイニングででもあるのか、やはり鍵が掛かる部屋ではない。 が、バリケードを組んでいる余裕もなく、ほとんど躊躇うことなく次の扉に手をかける。 どうやら、一階の部屋はほぼつながっているらしい。 頭の中でその構造を組み立てながら、僕は周囲の置物などを後ろに投げつけ、走り続ける。 更に一つ部屋を素通りし、結果、ぐるりと回って、最初に人狼と対峙した部屋に辿り着いていた。 化け物は僕の後を追ったらしく、そこは無人だった。 後ろで、けたたましい破壊音がしている。 そのことにどっと汗が噴き出るが、構わずに床に這いつくばって杖を探す。 手放した時のことはもう遠い昔のようだが、確か左にはじかれたはずだ。 となれば、杖があるのは…… と、僕がある程度見当を付けて周囲を見回し、見つけたそれに飛びついた瞬間、 血に飢えた化け物が扉をなぎ倒しながら僕に襲いかかってきた。 「っ麻痺せよ!」 「ぎゃ……っ!」 がしかし、集中が足りなかったのか、その閃光は驚くほどか細く。 本来の効果を上げるには至らない。 もっとも、暗闇の中に踊った真紅の光は、目つぶしくらいの効果があったようだが。 化け物は目標を見誤り、反動で倒れた僕の背後まで勢いよく転がった。 必死に態勢を立て直そうと、僕も腕に力を込める。 向き直って、杖を突きつけて。 全ては時間との戦いだったが、僕は結局、向き直るところまでしかできなかった。 「っ」 杖を上げようとした瞬間にはもう、ずらりと並んだ牙が、眼前に迫る。 それが、不思議とゆっくりと感じられて、僕は最後、目映い深緑の瞳を思い出していた。 僕が死んだら。 彼女は。 リリーだけは。 悲しんでくれるだろうか。 世界に音がなくなったかのような、空白の時間。 だが、牙が僕に届く前に、それを切り裂く怒号が木くずと共に振ってきた。 「――あ、もう、……らな…!」 「…ム、!…いか、早……その部屋!」 「…くっそっ!粉々ッ!!」 突然、差し込んだ強烈なまでの月明かりと真っ白な閃光。 そして、飛び込んできた二つの影。 そのことに呆気にとられる前に、影の一つは魔法を乱発し、 その内のどれか、紅の魔法が、僕に向かってきていた化け物の横っ面を吹き飛ばしていた。 「ぎゃうんっ!!」 と、人狼は予想外の方向から来た攻撃に意表を突かれたらしく、そのまま壁に全身を打ち付ける。 倒れ伏すその姿に、僕が反応できずにいると、もう一つの影が疾風のように駆け寄ってきて、僕の腕を取った。 「立って!セブ!!」 痛いぐらいに握りしめられた二の腕に、思わず表情を顰める。 しかし、相手はそんなことを露ほども気にかけず、今しがたぶち破ってきたと思しき窓に駆け寄った。 「!早く!!あ、マズ……っ!妨害せよっ」 「分かってるよ!!ホラ!セブルス早く!!」 打ち付けてあった木の板はすっかりと砕け、その破片がそこをすり抜けようとする体を擦って傷を作る。 だが、突然の闖入者たちはそんなことよりも、背後の化け物の方が余程気になるらしい。 しきりに片方が魔法を放って威嚇し。 僕を引きずり上げた方を先頭に、窓から身を投げ出した。 そして、人狼が後を追うよりも素早く、いけ好かない顔をした男が杖先を壊れた窓枠に向ける。 「直れ!」 それは、まるで映像が逆戻りする様を見るようだった。 館の中に飛び散ったはずの木っ端が、ガラスと共にみるみる内に窓に引き寄せられ、結合していく。 「急いで!ジェームズ!!」 そして。 切羽詰まった少年――の声が響く中、ポッターの魔法が完成しよういう、その間際。 「が、ああぁぁあぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁー!!」 「「「っ!!」」」 雄叫びを上げながら、ケダモノは直りかけの窓を破って外へ飛び出してきた。 真の化け物か。 ......to be continued
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