人間の本質も想いも、完璧に理解することはできない。 だから。 Phantom Magician、102 靴音の反響する石畳の廊下から、絨毯敷きの廊下へと移り。 ――…… a っ……―― 言葉にならず、音にならず。 ――…… う ァ あ ……―― それでも響く、声が聞こえた。 「?」 これは、なんだ。 この、ひび割れたような、耳障りな声は。 誰かが泣いている? 大声で、喚くように。 周囲など何も気にせず、心の命ずるままに、泣いている。 どこかで聞いたことのあるような。 けれど、全く普段と違っているようなその声に嫌な予感を覚えつつ、 僕はそれが聞こえる抜け道をそっとのぞき込む。 そこは、別の棟へ行くための抜け道だった。 貴婦人と別れ、おざなりに探しにいっただけの通路で。 だから僕は、まるで心の準備ができていなかった。 「あ、ああああぁぁあ、ぁああああぁあぁぁ!」 そこで、の泣き顔を目にするだなんて。 そう、は、泣いていた。 誰かは知らない、金の髪の青年に縋るようにして。 脇目もふらず、泣いていた。 「…………っ」 予想もしていなかったその光景に、の背後で僕は棒を飲んだように立ち尽くす。 薄暗いそこの空気はひやりと冷たく、彼を浸食して小さくしてしまったかのようだった。 そして僕はそのことに、奇妙なまでの違和感と驚愕を感じていた。 驚愕。 そう、驚愕だ。 ……何故だろう。 僕は、この時までが泣く、ということがありえないことのように思っていたのだ。 だって、彼は、ずっとずっと、強かったから。 魔法の腕もそうだけれど、 僕にどこまで無視されても。 ジェームズに幾ら悪戯されても。 シリウスにどれだけ怒鳴られても。 彼の笑みが絶えることなんて、なかったからだ。 ちょっと情けない表情の時もあった。 泣きそうな声で話していることだってあった。 でも、いつだって彼は最後に笑うから。 なにを言っても、彼は本当には応えないのだと。 なにを彼にしても良いのだと。 心のどこかで思っていたのかもしれない。 「……?」 けれど、現実には。 子どものように声を上げて泣く、彼がいる。 恥もなく。外聞もなく。 心のままに悲鳴を上げている、が。 その悲痛さは見ていることも聞いていることもできないほどのものだった。 だから、僕は一歩だけ踏み出しかけ。 だがしかし、 「なら――を――…てしまおうか」 心の底からを案じるように見る青年の瞳に、足が止まる。 僕が行って、に一体なにができるっていうんだ? 寧ろ、今僕が出て行くことは。 必死に彼を慰めている青年の邪魔でしかないんじゃないだろうか。 「…………っ」 そしてそれは。 事実以外の何物でもなかった。 「――は辛くて、悲しくて、苦しいんだろう?そんな目に遭わせた存在を、君は許すのか?」 「……だって、スティアは!意地悪で嘘つきで変に細かいし、おまけに光る猫だけど! 朝は誕生日おめでとって言ってくれて。それに。リーマスに、逢わせてくれたんだ……っ 不器用なところあるけど、あたしにだけは優しいとこもあるし、 だから、止めて……お願い……」 「……そう。君がそれを望むなら」 そうして見る間にも、青年はの涙をあっさりと止めて見せる。 なにを言ったかはよく分からなかったが、たった一言。 たった一言で、彼はあの悲しい声を止めてしまった。 同じことを自分ができたかと言われれば、それは無理だと答えただろう。 「なんか、あたしケーの前でこんなんばっかだね。また泣いちゃった」 少し元気の出てきたらしいの声に、そう思う。 と、が一通り落ち着いたところで、彼はその場に膝をついた。 眩しい物を、愛おしい存在を見る眼差しで。 「僕が、君を守るよ」 「…………っ」 そしてその言葉を聞いた瞬間、僕は自分が道化になったような気分を味わった。 何故、を追いかけて来てしまったのか、数瞬前の自分を恨みさえした。 彼には、彼を大切に思う誰かがいる。 そんな当たり前のことに思い至らず、 こんなところへいそいそとやってきた自分の滑稽さを思うと、頭痛がしそうだ。 ねぇ、ジェームズ。 僕が向き合ったりしなくても、僕たちの関係は変わっていくよ。 きっとその内、彼は、僕に興味なんてなくすだろう。 永遠の想いなんてない。 一目惚れの、その場限りの想いなんていつか風化して消えていくさ。 「……はは」 不思議なことに、小さく痛みを訴える心に、苦笑する。 想いに応えることなんて、できないけれど。 それでも、彼は悪い人間ではないから。 だから、だから好かれて、少しは嬉しかったのかもしれない。 そう、思う。 も、あの金髪の青年にさっさと乗り換えてしまえば良いんだ。 こんな脈もなにもない狼男なんかじゃなく、 ゲイだとかなんだとかに拘らず自分を大切にしてくれる、彼に。 そうすれば、僕たちは友達にだってなれるかもしれない。 彼らがやりとりしているのを見ていたのはほんの僅かな時間だったはずだが、僕には永劫の時間に思えた。 嗚呼、本当に。 どうして僕はこんなところにいるんだろう……? そして、これ以上、ここにいても僕にはすることも、 できることも、なにもないことに気づき、そっと足を引く。 ただ、やっぱり少しだけ気になって。 最後に見知らぬ青年の顔を見ようとして。 そして。 ゾクリ、と。 「っ!」 背筋が泡立った。 感じたのは、幼い頃に自分を咬んだ化け物から出ていたのと同じ、おぞましい気配。 ぎらぎらと、およそ人間の物とは思えない双眸がをすり抜け、僕を見ていた。 僕の考えを、非難するように。 それは恨めしげで悔しげで憎々しく、どこまでも冷たい眼差し。 一気に毛穴という毛穴から冷や汗が吹き出す。 けれど。 その意味することが、僕には分からない。 と、僕がそれを認識した直後に、彼はその表情を消し去り、に視線を移した。 それ以後、彼が僕をその宝石のような瞳に映すことは、ない。 やがて、彼らが移動する気配を感じ、僕は物音を立てないようにその場から立ち去ることを決めた。 いや、決めた、などと言うとそれは能動的な動作のようだけれど、 実際はふらふらと所在なく歩き出した、というのが正解か。 自分がこの後なにをするつもりだったのか、なにをしなければいけないのか。 そんなことも分からないまま、当て所なく僕は彷徨う。 「リーマス?」 ぼんやりと。 ただなんとなく、動かすに任せて歩いていた僕を、やがて呼び止める声がした。 いつでも凜としたその声に背後を振り返ると、走ってきたのだろうか、息を切らせたリリーが立っている。 「なにをしているの、リーマス?こんなところで」 「……こんなところって?」 「私、貴方をずっと捜していたのよ?今日は監督生の会合があるじゃない」 「……ああ、そういえば」 そんなものがあったような気がしなくもない。 すっかり、そんな日常的なあれこれが抜け落ちてしまっているが、確かにあった。 だが、今からそこに合流できるかと言えば、とてもそんなことのできる状態に僕はなかった。 と、リリーもそんな僕を見て取ったのだろう、 ジェームズに対しては天地がひっくり返ってもしないだろうが、 彼女は心配そうに眉根を寄せて僕の頬に手を添える。 「具合が悪いの……?顔色が悪いわ。熱はなさそうだけれど」 「そう……かな」 綺麗な翡翠色の眼差しに、少しずつだが意識が現実に向いた。 「悪かったね。探させてしまって……今、行くよ」 「……いえ。貴方は医務室で一度診て貰った方が良いと思うわ」 「大丈夫だよ。別に気分が悪い訳でもどこか痛い訳でもないんだ。 原因も多分……分かっているし」 「原因?」 「うん。なんて言ったら良いんだろうね。毒気に当てられたとか……そんな感じ」 普段であれば感じることなどない、殺気という名の毒。 それに、気力体力は根こそぎ削ぎ落とされてしまったのだろう。 あの時、僕は気づけば喉が干上がり、唾を飲み込むことさえできないほどのプレッシャーを与えられた。 あの瞳を、表情を、しばらく忘れることはないだろう。 逢ったことも、話したこともない、青年だ。 恨みを買うことも、接触すらない相手。 なのに。 どうして。 どうしてあんな。 今にも射殺さんばかりの瞳で僕を睨み。 泣き出しそうな表情で、僕を見た? と、己の思考にまたもや没しかけた僕を引き上げたのは、またもやリリーの柔らかい声だった。 「つまり、心理的なことなのかしら?」 「心理的……うん。そう、そうだね。なんだか、色々と疲れてしまったみたいで」 人を泣かせたことも。 威嚇されたことも。 ごちゃごちゃと思考したことも。 全部全部どうでも良くなるくらい、疲れてしまった。 と、そんな僕の密やかな溜め息に、リリーはすっと目を細めると、ゆっくりとやがて口を開いた。 「それは、が関わることね?」 「…………」 それは、問いかけではなく、確認。 あくまでも柔らかい口調だったが、あまりにも鋭いその言葉に、僕は改めて彼女という人間の凄さを感じる。 多分、僕の態度や細かい情報で、なにかしらの確信を抱いたのだろう、それは揺るぎない声だった。 惚けることも面倒で、億劫ながらも僕は問い返す。 「だとしたら?」 それは言外に、君には関係ないよ、と距離を置く言葉だった。 聡い彼女がそのことに気づかないはずはない。 だが。 「リーマス。お願い、をちゃんと見てあげて」 彼女はまるで、どこかの誰かのようなことを言うのだった。 「貴方がの想いに応えられないというならそれでも良いの。 それは貴方の自由だわ。でも、その前にお願い。 男だとか、告白してきたとか、そういうことを一度忘れて、自身を見て頂戴」 「男とか、告白とか、それを含めての彼だと思うけれど?」 「……だったら、人間としてのを、貴方はどう思う?」 「人間として……」 「ええ」 その言葉に思い浮かぶのは、不敵な表情でも、愉快そうな笑みでもなく。 弱くて、脆くて、無様に過ぎる、あの姿。 小さい、小さい、幼子のような泣き声。 「……多分」 ――嫌いじゃあ、ないよ。 「!」 「そう、嫌いじゃない。でもね、リリー。 彼のことは苦手だし気持ち悪いし鬱陶しいと、僕は思う」 そして、なにより、恐ろしい。 なにを考えているのか、本当の気持ちがまるで分からないから、怖い。 僕が好き? 嗚呼、それはきっと、嘘じゃないんだろう。 でも、周囲を欺いて、人を恐れてきた僕には分かる。 その気持ちは嘘ではなくても、真実でもないのだと。 まぁ、真実の愛、なんて言葉、薄ら寒くて仕方がないけれど。 「ね?ちゃんと、見てるだろう??」 「……なら、言い直すわ。を知って頂戴」 彼がなにを見てなにを思い、どう感じてなにをするのか。 それを知って欲しい、と彼女は言う。 縋るように。懇願するように、どこか、必死な表情で。 「分からない物に対して、人はどこまでも恐怖を覚え残酷になれる。 だから知って頂戴。=っていう子のことを」 「それで、僕の気持ちが変わるとでも?」 「それは私にも分からないわ。ただ、関わって欲しいの。貴方に。貴方達に」 あまりにもエゴに満ちた言葉に、うんざりとする。 知っている。リリーはの友人だ。 だから、ああも彼を粗雑に扱う僕のことが許せないんだろう。 僕だって、ただのクラスメートと親友の間に優先順位はあるのだから、彼女にだって当然それはあるだろう。 でも。 それでもそのことを不愉快に思わない訳じゃ、ない。 「……僕にそれをするメリットがないとは思わないかい?」 その気持ちを取り繕うこともせず、普段であれば見せることのない陰のある笑みでリリーに対する。 と、彼女はしかし、そんな僕の浅はかさを嗤うように、それは鮮やかに口の端を持ち上げた。 「ええ。思わないわ。だって、貴方もホグワーツにいたいでしょう?」 「…………っ」 彼女らしくない、黒い物を含んだ物言いに、はっとする。 そう、彼女は同学年で、誰よりも賢い魔女だ。 そして、その彼女の言葉には、抗うことのできないものが混ざっていた。 「ねぇ、リーマス。月に一度具合が悪くなるのでは、他の学校もなかなか受け入れが難しいと思うの。 だったら、慣れたこの学校で、より良い人間関係を築いた方が建設的だと思うわ」 「…………」 「もちろんさっきも言ったけれど、無理に仲良くしろとは言わない。 知った上で、それでと距離を置くのならそれで良いわ」 「……リリー、君は」 「なに?」 「セブルスより、よっぽど緑のタイが似合ったかもしれないね」 「……ふふ」 可愛らしく笑いながら脅しをかけてくる彼女に、この時僕は苦笑を返すことしかできなかった。 と、強制的に彼と関わることを約束させられた僕だったが、 「え……が、倒れた?」 その心の準備の時間は、どうやらまだあるようだった。 人は誰かの新しい面に、いつでも驚くことができるのだろう。 ......to be continued
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