君が存在を否定されて傷つくなら、僕は君を肯定しよう。





Phantom Magician、99





声が、聞こえる。


――……     a     っ……――


言葉にならず、音にならず。
それでも響く、声が聞こえる。


――……    う    ァ     あ  ……――


それは、魂切る心の断末魔。

正直、がシリウス=ブラックに辛辣なことを言われるのは、日常茶飯事で。
周囲の人間の誰もが、彼女はへこたれない人間なのだと思っていたのだと思う。
普段が普段だから、誰も、あの子を真剣に案じたことはない。
あのに甘いリリー=エバンズでさえ、徐々にあの子をそこまで心配しなくなっていたのだから。
が何かを言われても。
落ち込んだそぶりを見せても。
それは、ただの演技。
それは、ただの過剰反応。
きっと、皆が皆、そんな認識で。

だから、奴は己の安定を図る、ただそれだけのために。
毒を吐き散らかしたのだ。


「…………っく…」


この、人のいない場所でぼろぼろと泣く弱い彼女に。
酷いことを言われて平気な人間なんて、いるはずがないのにね。

ひび割れるような、あまりにも凄まじい心の悲鳴を聞いて駆けつけてみれば、
は誰も使わないような抜け道の奥に蹲って声も出さずに泣いていた。
痛い痛いと血を吹き出す心。
それを読み取った瞬間、紛れもない殺意が芽生える。

シリウス=ブラック。
馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで救いようのない男だったとは思わなかった。
できることなら、今すぐ奴の所に行って報復をするところだが、それよりもの方が優先だ
図書室では彼女が心を殺していなくなってしまったから、
きっと鈍感な奴はまだ気付いていないに違いない。
が、本当に、限界を迎えていたことに。


……」
「っ!!」


そっと呼びかければ、ビクリとの肩がはねた。
ゴシゴシと目を擦ると、彼女はできるだけ平静を装ってこちらを向き、 声をかけてきた人間を知って、きょとんと目を丸くする。


「あれ、ケー?久しぶり。どうしたの?」


そして、笑う。
少し嬉しそうに。
少し照れくさそうに。
空っぽの瞳をしたままで。

その笑みを目にした瞬間、追ってきたのは正解だったとそう思う。


「どうしたの、じゃないよ。
君は……どうしてそうなんだ」
「?なにが??」


だから、溢れる。


「なんで、我慢なんてする?
傷つけられて、なんで笑うんだ」
「っ!」


自分には、理解できない疑問が。

自分は、自分と自分の大切な存在が害されれば、眉一つ動かさずに敵を排除するだろう。
彼女の場合は、その敵が大切なものなワケだが、 そもそも、どうして自分を害する相手を愛する?
ワカラナイ。わからない。理解らない。
君の心は分かるのに。
君の心を理解できない。

怒りすら込めて発したその言葉に、の瞳からぼろりとまた涙が零れた。


「だって……気まずいの嫌なんだもん……」
「!」
「傷ついてるよ。でも、我慢しなきゃ、シリウスもっと怒るじゃんか」
「あんな奴、勝手に怒らせておけば良いじゃないか!」
「嫌だよ。ただでさえ、困、らせて、るのに……これ以上」

「きらわれたく、ない」


それが、限界だった。

は自身の言葉で、弱った心を谷底へ突き落とした。
ぼろぼろと、涙腺が決壊したように、彼女は泣き続ける。


「……ひっぅ……きらわれたく、ないんだよぉっ
シリウス、にも、リ……マスにもっ!」
……」


彼女は鈍くも、特別聡くもない。
だからこその言葉。
最初の出会いが出会いだったせいで、いまだにあの男はに対して口が悪い。
けれど、それは徐々に、条件反射に近いものになっていた。
心の奥底では、どこまでも周囲に対して甘いに対して、これで良いのかと自問している。
本当にコイツは自分が怒り憎み続けるほどの人間なのか?本当に??と。
意地で歩み寄れないだけで、芯からを嫌ってなど、いないのだ。
そのことを、普段の彼女は無意識に悟っている。
だから、今まではずっと笑って流すことが出来ていた。
独善的な意見に異論を唱え、立ちはだかることだって出来ていた。
けれど、今日は・・・、駄目だったのだ。


「もう……ヤダぁ」


手を伸ばせば、彼女がイヤイヤするように後退る。
そこにあるのは……ただの闇だ。


「もう、ヤダよぉ……」
、大丈夫だよ」
「こんな、こんなのもう、ヤダぁっ!
かえりたい、帰りたいよ……っ!お母さんっ!!」
「!」


それは、彼女が今まで決して口にすることのなかった、家への渇望。
ずっとずっと、心の片隅にあった、彼女の弱音。
突然、本の世界によく分からない存在に連れてこられて。
それでも必死に適応して。
努力して。殺してきたもの。
そして、それが今この場で出てきてしまった理由を、自分は知っている。

実際、彼女はよく頑張っていたと思う。
どこまでも現実的なこの世界で。
彼女は様々な人間の人生を背負い込んだ。
本当は夢でない、と確信しているのだ。
何十人も人を平気で殺せるヴォルデモートなど、怖くて仕方がないはずなのに。
正直に言ってしまえば、自分の一挙手一投足に不安で、迷っているのに。
それでも。
本気で彼女が愚痴を零したことなど、ないのだから。
泣きべそをかいたって、酷い言葉を言われたって。
彼女は己が望む未来を手に入れるために、必死で足掻いている。
足場も帰る場所も定まらない自分を、誰の目からも隠して。


!」


だから。
こんなことは駄目だと思いながら、その細かく震える身体を掻き抱いた。


「ごめん、……。本当に、ごめん」
「っく……ふっ……」
誕生日くらい・・・・・・、会いたいよね。
それができるなら、やっているけれど。できない。ごめん、
「!!」


何日も前からカレンダーを眺めて、楽しみにしていたはずの日。
家族はいないけど、友人に祝って貰えるかもしれないと、彼女が期待したとして、なにが悪い。
もしかしたら、あまり仲の良くない人間にだって「おめでとう」くらいは言って貰えるかもしれない。
そう期待して、なにが悪い?
しかし。
誰からも祝福されるはずの日に、彼女は存在の消失を願われた。
それは、一体どれほどの衝撃だったことだろう。
よりによって一番最悪のタイミングで、もっとも効果的に傷つける言葉を投げかけたことを、 きっと一生シリウス=ブラックは知らない。


「……う、あ、ああああぁぁああぁぁ!」


頑なに誰にも縋ろうとしなかっただが、僕の言葉にとうとうローブを掴んで声を上げる。
幼子が、声にならないなにかを訴えるかのように。


「っ」


その感情の奔流に、一瞬だが、意識が持っていかれそうになる。

イヤダ イヤダ かなしい クルシイ かえりたい カエリタイ
このセカイはあたしにやさしくなんかしてくれない
アイタイ あいたい オカアサン おかあさん
ドウシテアタシガこんなヒドイめにあわなきゃならないンダ
モウイヤダ なげだしタイ くるしいのにダレもわかってくれナイ
だれガあたしをこんなメに ああスティアのせいだ
あたしはタダねていたダケなのにつれてきたからダ
ヒドイ ヒドイ ひどい アタシがいったいナニをしたってイうんだ
モウイヤだ イヤだ いやだ 嫌だ!!


強い感情は、接触していればいるほど鮮明に、怒涛のように雪崩れ込んでくる。
その久しぶりの感覚・・・・・・・に、背中に粘つく汗が浮かび上がった。
これ以上は、自分も、そして、彼女も耐えられない。
ならば、と歯を食いしばり、苦心しながら言葉を搾り出した。





「だったら、その『スティア』を、消してしまおうか」
「…………え?」





帰してあげたい。
でも、それは自分にはできないことだから。
だから、せめて。
表面上でも、君が望むのなら。


「消してあげる。そうすれば、が楽になるのなら」


ゆったりと微笑めば、驚愕に満ちたの唇がとっさに「ダメ!」と叫ぶのが分かった。


「そんなの、ダメだよ!」
「でも、は辛くて、悲しくて、苦しいんだろう?
そんな目に遭わせた存在を、君は許すのか?」
「……だって、スティアは!意地悪で嘘つきで変に細かいし、おまけに光る猫だけど!
朝は誕生日おめでとって言ってくれて。
それに。
リーマスに、逢わせてくれたんだ……っ」


突然、彼女の心に一滴の雫が落ちた。
そして、その瞬間、彼女の心が急速に落ち着きを取り戻していく。


「不器用なところあるけど、あたしにだけは優しいとこもあるし、
だから、止めて……お願い……」
「……そう」


その言葉が、聞きたかった。
甘い彼女。
そんな君なら、こんな言葉を掛けられて、自分の思考に酔っていられるはずがない。
それを知っていて。


君がそれを望むなら・・・・・・・・・


こんな言葉を紡ぐ自分は間違いなく、スリザリンの血統だと、そう思う。

名残惜しげに、そっと彼女を解放する。
あまりの言葉に驚きすぎたのだろう、その瞳からもう涙が零れることはなかった。


「……別にいくら泣いても、構わないけど」
「え?」
「いや、こっちの話」
「……ケー、さっきの、わざと?」
「さぁ?なんのことかな」


極上の笑みで微笑めば、は頬を染めながら固まってしまう。
酷く微笑ましい光景である。
けれど、その目は真っ赤に充血してしまっていた。
嗚呼、また・・きちんと冷やさないと。

思わず目元に手を伸ばせば、その意味するところを悟ったのだろう、 はそこで硬直を解き、照れたように苦笑した。


「なんか、あたしケーの前でこんなんばっかだね。また泣いちゃった」
「別に僕は構わないよ。嗚呼、目を擦っちゃ駄目だ。余計酷くなる」
「や、駄目だって言われても……」
「それより、鼻かんだ方が良いよ。鼻水出てる」
「うっそ!?ちょっ、そういうことは言っちゃ駄目でしょうが!」
「言わなきゃこのままじゃないか」


ティッシュを差し出しながら、よしよし、とその形良い頭を撫でる。
そこには労わりと、心地よい距離があった。
そして、彼女が落ち着いたのを見届けたところで、僕は彼女の前に跪く。


「……ケーっ!?」


僕の性格からその行動があまりに考えられなかったからだろう、 は最初呆けていて、僕が彼女の手に唇を寄せたところで、ようやく素っ頓狂な声を上げた。


「ちょっ、なにして……!?」

「!」


不器用で、弱くて、それでも前を向ける人。
ただひとりの、僕の生きる意味。


「この先、君はきっとたくさん傷ついて、嫌な思いもすると思う。
それでも、これだけは決して忘れないで」
「…………」
「僕が、君を守るよ」
「!」


だから、一人で泣かないで。
辛いことは辛いって言って。
僕は、それだけで生きていける。





「生まれてきてくれて、ありがとう」





その言葉に、止まったはずの彼女の涙が、また溢れた。
でも、今度は止めてやらない。
他の人間に見せてもやらない。
これは、多分。
彼女が最初で最後、流してくれた僕だけの涙だから。

そっと、手の中に隠していたプレゼントを彼女の耳にはめる。
しゃっくりを上げることに夢中な彼女は、きっとしばらく経ってから気づくのだろう。
そして、気づいた瞬間、嬉しそうに、照れくさそうに、お礼を言ってくれるのだ。
それは、なんとも幸せで甘い予感。
こちらを伺っている愚か者・・・・・・・・・・・・には、決して得られないもの。

一瞬だけ、彼女にそうと気付かれないように、の背後に殺気を飛ばす。


「っ!」


分かったか?リーマス=ルーピン。
お前がをどう思っているかは知っているが。
いつまでも、こんなことが続くようなら、彼女はボロボロになっていく。
もし、これ以上、はっきりしない態度でを傷つけるなら。
僕はお前を許さない。







「あなた、は?」


完全に落ち着いたを見送った後、では姿を消そうと思ったその時、不意に声をかけられた。
聞き覚えはない声のはずだったが、妙に馴染みがある気がする。
そのことをいぶかしみつつ、ゆっくり背後を振り返り、自分の身体に衝撃が走った。


「っ!」
「あの方に似た魔力の気配……。貴方は、誰なのです?」


そこにいたのは、背の高い女のゴーストだった。
理知的で、聡明で。
どこか気位の高さを髣髴とさせるその顔は、遠い日の過去を思い出させる。
確か。
確かこの娘は。
今は、レイブンクローで『灰色のレディ』と呼ばれていたはず。


「君は……」
「私は生ある時はヘレナ=レイブンクローと呼ばれていた女。
どうか、お答え下さい。サラザール様に限りなく近いあなた・・・・・・・・・・・・・・・・は、何者です」


応えずとも、答えはとうに出ているだろうに。
美しい娘の姿をした彼女は、真珠色の涙をその瞳に溜めていた。
彼女がゴーストになった理由を訝しんでいた自分に、彼女はその表情でそれを伝える。


「……ずっと。ずっと、お待ち申し上げておりましたっ」


そして、彼女は激情のままにこちらを抱き締めにかかってきた。
懐かしさと、憧れと。
幼い頃に向けられたのと全く同じ眼差しを、避けることなどできようはずもない。
けれど、悲しいかな。


「……僕は、サラザールじゃあ、ないよ」


その想いを向ける相手を間違っていた。
その事実を指摘すれば、喜色に彩られていた彼女は、目の前で行動を停止した。


「……え?」


その表情が雄弁に彼女の声を教えてくれる。
嘘でしょう、と。

当然だろう。
彼女は――ヘレナは、ただその想いだけで、現世に留まったのだろうから。
……彼女がホグワーツに残っていることを知って、まさか、とは思っていた。
けれど、これほどに喜びを示されれば、嫌でも確信する。
幼い日の想いのせいで。サラザールのせいで、彼女はここにいるのだ、と。
自分を愛おしく思う男に殺されても。
尊敬と嫉妬、そして後悔を抱く母が死してなお、何百年も。
思い出にしがみつくように。


「けれど、貴方は――
「考えてもみてごらん。そんな遥かな昔の人間が、こんな風に生きているはずがないじゃないか。
賢者の石を作るか、時の流れを変えるか、嗚呼、いっそ別の世界にでも行くしかない」


呆然とする彼女の追及をかわそうと、畳み掛けるように言葉を重ねる。


「見た目が違う。話し方が違う。考え方も、生まれた理由も。
全てが全て、別物で別人だ」
「そんなはずはっ!あなたから感じる魔力は間違いなくあの方のものです!
姿が変わろうとも、話し方を変えようとも、私には分かります。
あなたはこのホグワーツの創始者、サラザール=スリザリンその人でしょう!?」
「いいや、ヘレナ=レイブンクロー。それは聡明な君らしからぬ勘違いだ。
恋は人を盲目にするというが……。
僕は、サラザール=スリザリンでも、ましてや人間ですらない」


きっぱりと断言し、彼女を見やる。
好ましくないわけじゃない。
懐かしくないわけじゃない。
けれど。
『僕』にとってヘレナは、初めて逢う赤の他人だった。


「っ!!」
「君なんて、知らないよ」


その視線が、なによりも今の言葉を裏付ける。
すると、彼女はその美しい顔を覆って、その場に膝から崩れ落ちた。


「どうして……どうしてっ!
私は、私はずっと待っていたのに!
帰ってきて下さると、逢いに来て下さると、信じていたのにっ」


慟哭というには足らず。
呪詛というには悲しすぎる。
そんな声で、彼女は泣いた。


『サラザール様……行ってしまわれるのですか!?
何故です!?どうして、お母様たちを置いて……っ』



それはね、ヘレナ。


「どうしても、叶えたい願いがあったから……かな」


彼が、彼女に伝えなかった答えをそっと口にする。
その密やかな呟きに、はっとヘレナは顔を上げた。
けれど、その瞳に自分の姿が映ることは、もうない。
誰もいない空き教室に辿り着き。
これからセブルスと逢う時には彼女に逢わないようにしなければと思う。


「悪いけれど。初恋は実らないと相場が決まっているんだ」


この僕を含めて、ね。





たとえ、自分の想いを否定しようとも。





......to be continued