いけない、いけない 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない まして石を投げ込んではいけない 一滴の水の微顫も 無益な千万の波動をつひやすのだ 水の静けさを貴んで 静寂の価を量らなければいけない Phantom Magician、53 しん、と心地よい静寂が部屋を満たす。 針の落ちる音さえ聞こえそうなそれは、酷く優しく。それでいて切ない。 常に騒がしいホグワーツの中で、ここと図書室だけはいつも静かだ。 今も、そして、昔も。 「まぁ、これはただの感傷なのだけれど、ね」 瞳の裏に映る幻影を、かぶりをふって消し去る。 赤毛で闊達に笑う青年も、理知的に論じる女性も、穏やかに微笑む淑女も、ここにはいない。 自分だけが時間に取り残されたような感覚は、ただの気のせいだと自分に言い聞かせる。 それは『私』の記憶であって、自分の記憶ではないのだから。 懐かしがるのはなんとも不毛で、意味がない。 ならば、囚われることは、それこそ時間の無駄というものだろう。 「君は、きっとそんなことは言わないだろうけど……」 部屋の主がいないのをいいことに、ベッドの縁に腰かける。 そっと視線を動かしてみれば、そこには規則正しい呼吸を繰り返すが一人寝ていた。 貧血を起こしたのだろう、その顔は未だに青白い。 その顔にかかった黒髪をさらりと払いながら、そっと頬に手を滑らせる。 突然の接触に、の眉根が寄せられたが、彼女はいっこうに起きる気配がない。 その幼子のような姿に、漆黒の双眸が思わず弛んでしまう。 ここで彼女が起きたら一体、どんな反応をするのだろうと考えると、酷く楽しい。 至近距離に驚くだろうか、それとも寝起きで頭が付いていかずきょとんとするだろうか。 どうにも、彼女はこの顔がなかなかに気に入っているようだったから、照れて真っ赤になるかもしれない。 想像するだけで、嗚呼、なんて愉快な時間だろう。 実際には、彼女が戸惑うだけなので、今、顔を合わせることはできないけれど。 考えるだけなら、自由だ。 「…………」 早くその瞳が見たいと思う反面、このまま起きなければ良いのにと願う。 それは相反する想いでありながら、どこまでも真実だった。 「本当は、君に来て欲しくなんて、なかった」 ぽつり、と独白が漏れる。 どれほど君が願ったとしても。 ここにを連れてきたアレは、その願いを叶えるべきではなかったのだ。 この世界に来れば、彼女が傷つくことなど、たやすく予想がつくだろうに。 常に彼女の傍にいたくせに、そんなことも思い至らなかったのだろうか。 思慮深いような表情をしているくせに、妙なところで思い切りのいい奴だ。 「まったく。忌々しい」 何より忌々しいのは、面倒だと思いながらもアレの思惑に抗えない自分自身だ。 それをすれば、彼女がさらに窮地に立たされることが目に見えているだけに、動けない。 自身の知恵も。知識も。 この身に宿る途方もない魔力も、全ては彼女のために。 そう、決められていて。 そう、決めたのだ。 「誰に言われたわけでもない。自分自身で、決めたんだ」 を、守ると。 あらゆる万難を排し、あらゆる災厄からその身を、心を守る、と。 それは、今ここにいないアレには到底できないことだから。 たとえこの腕に、彼女を包み込むことがなくとも、そうすると、決めたのだ。 彼女が、自身の名前を呼んだ、あの瞬間に。 はそんなことは知らない。 覚えてすらいないだろう。 それで、良い。 「君はそこで、笑っていて?」 自分でも、自身の表情が穏やかに凪いでいることを感じながら、何度も彼女の髪を梳く。 それは邪魔者のいない間にしかできない、ほんの僅かな安らぎの一時。 そして、その時間がどれほど経った頃だろう。 かつかつ、と。 誰かの軽い足音が耳朶を打つ。 それに追われるように、そっと体を起こした。 「……おやすみ、」 彼女を起こさないようにあくまでも音は立てずに、姿を隠す。 離れた指は、どこまでも名残惜しげだった。 白い静寂の空間には、規則正しい彼女の呼吸と。 部屋に戻ってきた主の小さな呟きだけがあった。 「……誰かがいたように、思ったけれど。気のせいだったかしら」 応える声は、そこにはない。 「ん、うぅ……ん」 不意に、隣から聞こえてきたうめき声に、伏せていた体を起こす。 ようやく起きたのか、と期待を込めて見つめれば、視線の先での瞼が震え、やがて漆黒の瞳が現れた。 「…………?」 ぼんやりと、視線が天井を彷徨う。 そういえば、が医務室で起きるのは今日が初めてだったか、と思いながらひょいと彼女の顔を覗き込む。 自分の姿が瞳に映り込んだのを確認した後、いつも通りに口を開いた。 『おはよう、。気分どう?』 「うん……?うん、まぁ、ふつー?」 ぱちぱちと、不思議そうに瞬く彼女は、どうやらまだ状況が掴めていないらしい。 「どっこらしょっ」と、乙女にあるまじき声で体を起こしつつ、彼女はしきりに首を捻っていた。 「ええと、ここどこ?医務室??」 『16年前のホグワーツ、かな。悪戯仕掛け人が5年生になる年だよ。 本当はもっと前に遡りたかったんだけど、逆転時計が耐えきれなくてね』 『まったく、今どきのアイテムは根性がなくて困るよ』そう言えば、 は困ったように「いや、アイテムに根性求めるなよ」とつっこんだ。 そこには、気絶する前に浮かべていた、妙な潔さなどはない。 いつもの、どこかおちゃらけた彼女がいた。 そのことに、内心どこかほっとする。 が、そんなことをおくびにでも出せば後が面倒なので、わざとそっけなく彼女の頭に猫パンチを繰り出した。 「あたっ!?」 『まったく。気付いたら気絶してるとか、君何様のつもり?』 「うぇえ!?何様とか言われても!しょうがないじゃん。 気を失ったのは悪いけど、だって、あんな長時間立ちっぱだったことなんてないもんよ」 まぁ、確かに健康そうに見えて、は案外に体の各所が繊細だ。 しょっちゅう胃痛を起こすし、案外貧血も起こしやすい。 そのことは僕も重々承知している。 でも。 『おかげで、あの管理人に抱きあげられた挙句に、無理矢理、猫用栄養ドリンク飲まされたんだよ、この僕が。 どう責任とってくれるつもりなのさ?』 そんなこと知ったものか。 思い出しただけでも、口の中に独特の苦みが蘇ってきて、思わず表情を顰める。 猫好きなのは結構だが、実際には猫でない自分にあれはただの拷問だ。 おまけに、ミセス ノリスがピーチクパーチク煩いことこの上なかった。 おかげで、一時の傍を離れて逃げ回る羽目に陥ってしまった。あれは屈辱である。 と、その言葉にはきょとん、と目を見開いた後、なんとなく事情を察したのか、 なんとも生暖かい視線をこちらに寄越してきた。 ……何故だろう、もの凄い勢いでその頭をもう一度ひっぱたきたい。 「管理人って……フィルチだよね?ええと、ど、ドンマイ☆」 『同情するなら金おくれ』 「いや、無茶言うなよ!?」 歴史に残る名ゼリフで返せば、徐々にテンションが上がってきたのか、が思わず声を上げる。 と、その瞬間、騒がしい声を聞きつけたのだろう、 奥に引っ込んでいたマダム ポンフリーがせかせかとこちらに歩いてきた。 ちなみに、はまだそれに気づいていないようだ。 彼女はもう少し、自身の周囲に気を配るべきだと、常々思う。 「医務室ではお静かに!」 「うひゃぅ!?」 そして、は予想通りに、(彼女にとってみれば)突然かけられた声に飛び上らんばかりに驚いていた。 白黒とさせている表情が、傍で見ている分には酷く面白い。 「まったく。ようやく休みに入って静かに仕事ができると思ったものを。 一体どこから紛れ込んだものやら……」 「わわ、ええと、その、すみません……」 「謝罪は結構です。それで、気分は?」 「は?」 ぴしゃり、と叩きつけるようにの言葉を撥ね退けたマダムは、 てきぱきと脈をとりながら、自身の仕事を全うしようと、質問を開始する。 がしかし、その切り替えにはついていけなかったのだろう、間の抜けた声をあげてポカンと口を開けていた。 「気分はどうか、と訊いているんです」 そして、マダムは判然としないの態度に苛々としつつも、 その開いた口を覗き込み、尚も視診を続ける。 あくまでも、校医としての態度を一貫して崩さない彼女の姿はいっそ見事だ。 医者――いや、この場合、癒者の鏡といって過言ではないだろう。 どう考えても、不法侵入の不審者以外の何者でもないに対して、 特に追及することもなく接するなんて、普通はできない。 僕としては、それはどうなんだ?と首を傾げざるを得ない、というのが正直な感想なのだけれど。 まぁ、こういう後ろめたい人間にしてみれば、彼女の態度は地獄に仏、といったところだろう。 なにしろ、色々つっこまれては答えようがないのだから。 やがて、もそう感じたのか、若干戸惑いつつも素直に頷いて彼女に応じ始める。 「ええと、気分は悪くないです。はい」 「そうですか。顔色も大分よくなったようですね。 これならアーガスに知らせても良いでしょう。もっとも、今日は医務室に泊まってもらいますが」 「へ?」 「何を不思議そうな表情をしているのです?当然のことですよ」 と、僕が感心している間にも、置いてけぼりを喰らっているを無視する形で、 マダムは見るからに不味そうな液体(ドス黒い墨汁的なそれ)をその場に残して去って行った。 「…………」 『…………』 思わず、二人で顔を見合わせる。 が(嫌だ嫌だありえないなんだこの色脱狼薬も大概だったけどこれも相当だろ)云々カンヌン思っているのが、 それはもう、手に取るように分かった。 なので、僕は。 「ええと、とりあえず逃げて良いかなっ!?」 『うん、まぁ、構わないんじゃないかな。その薬さえ飲み干せばね』 爽やかな笑顔と声で薬を指し示す。 え、だって、僕だけ不味い薬飲んだんじゃ、不公平じゃないか。 「〜〜〜〜っ!この鬼!悪魔!! こんなあからさまに人外の飲み物をこのあたしに飲めってか!?」 『いやだなぁ。僕はの体を心配しているだけだよ。大丈夫大丈夫。成せばなるさ。 君はやればできる子だよ。きっとね』 「うわぁ、超適当っ!?え、ヤダよ!?絶対嫌だからね!」 『まったく、困った子だなぁ。子どもじゃないんだから薬如きで駄々こねないんだよ』 「如きってレベルじゃねぇだろ、コレ!明らかに異臭放ってるだろ!?」 『仕方がない、そんなのために僕が一肌脱いであげよう』 「ひぃっ!?体が動かないっ!!手前ぇ、スティアあたしに何しやがった!?」 『はい、こわくなーいこわくなーい』 「や、ヤダヤダヤダ!やめっ!?スティアさん、マジ勘弁……っ〜〜〜〜〜〜〜!」 声にならない悲鳴を上げるに、内心ほくそ笑みながら、 さて、まず何をすべきかな、と僕は一人、今後の対策について想いを巡らせるのだった。 『…………』 さきほど確認してきた結果、入学手続きは何故だかきっちりすんでいた。 ならば、後は放っておいても自分達の元にホグワーツから手紙が届くことだろう。 どこかの誰かの、思惑通りに。 あまり気に喰わないが仕方がない。今はそれに乗っておくのが利口というものだ。 『……まったく。といると本当に波乱万丈だね』 無理矢理口に入れられた薬のあまりの味に悶えているを、ちらりと見やる。 その、これから先待ち受ける困難さを、まるで分かっていないような恍けた姿に、 苦笑が浮かぶと同時に、どこか安堵している自分がいるのは確かだった。 もちろん、彼女は分かっているのだ。 そうでなければ、あの時。 みぞの鏡の前に立ったあの瞬間。 どこか悲壮な表情を彼女が浮かべたはずはない。 あんな表情、僕は嫌いだ。 には似合わないにも程がある。 だから、くれぐれも鏡を見るな、と言い含めておいたと言うのに。 見れば、どうなることか。 僕は事前に、聞いていたのだから。 この世界に来る前に。 あの、世界の挟間の空間で。 ――一応、忠告しておくけれど。できることなら『鏡』は見せないで欲しいかな。 どこか切なげに漆黒の瞳を揺らした、あれに。 聞いていた。 聞いていたんだ。 あまりに情けないその表情に、 思わず張り倒したくなったのは仕方のないことだろう。 ――じゃあ、彼女を頼むよ。 今ではもう、その気持ちが分かってしまっているから、できないけれど。 嗚呼、でも、もう少しあの時きちんと話を聞いておくべきだったかもしれない。 と、僕が回想に浸っている間に、ようやく浮上したらしいは、 それはもう鬱陶しいくらい恨みがましい瞳でこっちを睨みつけてきた。 が、涙の浮かぶその表情でそんなことをされても、まるで効果がないことに彼女はいつ気付くことやら。 「……嗚呼、マジ最悪。ありえない。なんだこのドロッと加減。覚えてろよ、この野郎」 『はいはい。よく頑張りました。えらいえらい』 「うぅ。もう、本気でリーマスの勇姿を思い出したわ。あの飲みっぷりは惚れ直すしかないよね、実際」 『君、何度あれに惚れれば気が済むの? あー、後でアイスクリーム奢ってあげるから機嫌直しなよ』 「……っ!マジか!言ったな!?言ったな!!その言葉忘れんなよっ! どうせなら、あたしの勇気を称えてトリプル奢れよ!?」 『お腹壊してもしらないよ?』 「そん時はそん時だ!」 けれど、それでも彼女はこうして、いつものように笑っている。 そういうところが、どうも自分が彼女を見捨てられない一番の原因なのかもしれない。 『まずは、老け薬とグリンゴッツかな……』 当面の目標を定めつつ、僕はぽん、ととりあえず空になったコップに水を呼び出した。 この澄みきつた水の中へ そんなあぶないものを投げ込んではいけない ......to be continued
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