幸せってものは、転がりこんでくるものじゃなかった。





Phantom Magician、50





ハーマイオニーが部屋を出ていき、あたしは結局、半日をベッドの上で過ごした。
せっかく彼女が持ってきてくれた朝食は、いまいち食欲が湧かなかった為に昼食へと変更し。
ある程度お腹が膨れたあたしは、ごくごく自然に、


「行かなくちゃ……」


自室をあとにしていた。

寮を一歩出れば、ガーゴイルが出迎える、明るくも静謐な石造りの城。
カツカツと足音が反響する石の床。
廊下のあちこちには燭台があり、夜に火を灯されるのを待っている……。
談話室はおろか、城内に人気はなく、よってあたしの行く手を阻む存在もいない。
まぁ、今の時間は普通に授業をするべき時間なのだから、それは当然と言っても良いだろう。

初めてこの城を訪れた時とひとつも変わることのないその空気。
けれど、それは不思議とその時によって表情を変えていた。
いや、変わったのは寧ろ……


「あたし?」


心持ち、という奴なのだろう。
同じものでも、受け取り手が違うだけで、まったく別物になってしまうように。
無機物は、時に何よりも己を映す鏡となる。


「……鏡、ね」


己の思考に上った単語を、思わず呟く。
『みぞの鏡』。
『望みを映す鏡』。

そういえば。


「あたしの望みって結局、何だったのかな……」


スティアは『仕組まれていた』と言った。
なら、この前のあれはあたしの望みじゃないということで。
なら、本当のあたしの望みは。


「……まぁ、どうでも良いか」


世の中には、知らぬが仏といったものや、知らなくても全く問題のない無駄知識というものが存在する。
そして、今回のこれは考えるまでもなく後者である。
と、スティア辺りがいたら、『知識に無駄とかないんじゃない?』と水を差しそうなことを考える。
そして、考えながらも足を動かす。
すると、自分の直感ではなく、記憶に頼ったのが功を奏したのか、 あたしは気がつけば目的地である空き教室に苦もなく辿り着いていたのだった。
それは、まるで見えない何かに引き寄せられる・・・・・・・・・・・・・・かのようだった。

……半ば以上迷うのを覚悟していただけに、その結果は若干釈然としないものだが。
いや、普通に考えてあたしなら迷うところだろ。
夜中に1回だけ、しかも案内付きで談笑しながら行ったところだよ?
なんで辿り着くかな……。
嬉しいけど嬉しくない複雑な乙女心である。

と、あたしは、昨日とは一転、埃まみれで若干薄汚れた部屋に足を踏み入れる。
(うん、やっぱり日の光の下で見るべき場所じゃないわな。くしゃみ出そう)
神秘の雪明かりマジックがないせいか、その部屋はまるで違うものとしてあたしの目に映った。
そして、そこに置かれていた、鏡も。


「……なんか普通ー」


昨日は、意気込んでいたのと、突きつけられた映像に気が動転して、 得体の知れない不気味ささえ感じたそれだったが、 今はごく普通の、豪奢で綺麗な、ただの鏡にしか見えない。
もちろん、薄気味悪さなども特には感じられない。


「あー……ひょっとしてあれかな。
やっぱり心構えの違いって奴かね」


今のあたしはハーマイオニーに受けた助言のもと、 昨日と違い、『名もなき魔法使い』の写真をもう一度じっくりとっくり見る気満々である。
気分的には『幽霊の正体見たり枯れ尾花』とでも言えば良いのか。

が、まぁ、流石にいきなり見るのもあれなので、 とりあえず、まずはそれ自体をじっくり観察する為にも、自分の姿は映さずに横手から鏡を見つめてみる。
(どうも正面からじゃなければ効果を発揮しないらしい)


「ふわー……やっぱり趣味良いなーこれ。スティアは趣味悪いとか言ってたけど。
これってさー、つまりは華胥華朶みたいなものでしょ?
使い方さえ間違わなければ、害はないはず」


っていうか、寧ろ、ちゃんと使えばあのトム=リドルでさえ更生させることが可能だったんじゃなかろうか。
と、うっかり思考が明後日の方向に逸れる。
が、その不意に思い浮かんだ魅惑の可能性に、「ダンブルドア、マジ使えねぇ」と思ってしまったあたしに罪はない。


「リドルはさー。正直、ただ愛情に飢えてただけの寂しー奴だと思うのね」


いきなり、世紀の闇の帝王を寂しがり屋呼ばわりする女。
まぁ、あたしのことである。
傍から見ればまるで脈絡がないが、知ったことか。

孤児院の人たちが嫌いで、自分が特別な存在だと思いこもうとして。
特別な自分と同じ魔法使いは特別だと考えて、失望して。
結局、自分大好き周りなんざゴミ、の俺様ナルシストになってしまった彼。
全ての悲劇は、彼が自分の望みをまるで分かっていなかったことにあると、あたしは思う。


「みぞの鏡見せれば、そのことに気付いたかもしれないのにね」


それか、そのことを気づかせてくれるような。
リドルの良いところも、悪いところもちゃんと見て、それでも傍にいてくれる存在が誰かいたら。
上辺だけを見るのでも、一部分だけ崇拝するのでもない、そんな対等な人がいたならば。
何かがどうにかなったんじゃないかと思う。

50年も前の話だ。
その当時、ここにみぞの鏡はなかったかもしれない。
でも、もしあったなら。
もしその存在を知っていたなら。
彼の異常に気づいていたダンブルドアなら、リドルを止められたかもしれないのに。


「まぁ、今更言ってもしょうがないんだけど。
そもそも、愛情に飢えてるとかあたしの勝手な推測だし」


散々、我らが校長を罵倒しつつも、結局そんな適当に話を締める。
本人が聞いていたら流石に噴飯ものだが、まぁ、いないからこその言葉だ。

と、あたしはぶつぶつと独り言を呟きながら、見事な金の枠の上部に文字が書かれているのを発見した。


「えーと、すつうを みぞの のろここ のたなあ……あーもう面倒臭い!
『私は貴方の顔ではなく貴方の心の望みを映す』!
……あたしには普通にひらがなに見えるけど、実際英語だとどう表現されてるのかね、これ」


スティア曰くこれは『夢』なので今まで特に気にしていなかったが、 話す言葉も見る言葉も日本語以外の何物でもなかったりする。
中には言語で苦労する夢ヒロインもいるので、夢様々だ。
えーと、皆が日本語喋ってるか、あたしが英語喋ってるのかって問題か。
(前者なら完全なるご都合主義で、後者ならあたし仙だな。間違いない)
流石に書く文字は日本語なんだけどね?
杖をぽんって当てると、あら不思議☆英語に変換されちゃったりする。
ロンとか、初めて見たときはぎょっと目を丸くしてたっけなぁ。
まぁ、今はどうでもいいことなので、やはり途中まで考えて思考を放棄する。
なに、人間何事も諦めが肝心だ。


「さて」


と、あたしはようやくここで、頭を一度切り替える。

脱線しまくったが、そろそろ腹を括らねばなるまい。
スティアは何故だかあたしに鏡を見せるのを嫌がってる様子だったが、 まぁ、映るのは例の写真だろうから、すでに見てしまったあたしとしては今更である。
なので、あたしは数秒目を瞑って息を整えると、えいや!とばかりに鏡の正面に体を躍らせた。
がしかし。


「……は?」


そこに映ったのは、昨日とはまるで違う映像だった。







結論から言えば、そこに映ったのは仕掛けられた映像などではなく。
みぞの鏡が、本来映すべき、もの。

みぞの鏡。
その人の望みを映し出す鏡。
そして、あたしの場合、鏡に映るのは――……


「幸せそうな、リーマス?」


独りじゃなく。
周りを大切な親友に囲まれて、照れたように笑う、彼。
視線がこちらを捉えることはなく、ただあたしだけがその姿を眺めていた。
それは、驚くほどに幸せそうで。
はっとするほど、見覚えのある光景だった。


「あれ?え……『名もなき魔法使い』は?写真は?」


がしかし、いきなりそんなものを突き付けられても、 すっかり昨日と同じものを見ると思っていたあたしとしては、すぐにそれを受け入れることができない。
けれど、見れば見るほどに、頬が綻んでくるようなリーマスの笑顔を目にして、 数分後にはあたしも、自分が見ているものが自身の望みであることに思い至った。

けれど、思い至ったが故に、それに対して疑問が生じる。
これが仕掛けられたものでないとするならば、あたしの望みのはずだ。
でも。


「何であたしが、いないの……?」


完璧すぎる、その光景に、あたしがいない。
どうして。
どうして、あたしの望みのはずなのに、あたしが不在なのか。
どうして。
どうして。
どうして。
ドウシテ?





トックニワカッテルクセニ。





「…………っ」


心の片隅で、声がした。
そう、それはこの世界に来てから何度となく感じたこと。


この世界があたしの望んだ世界で良かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


知っているし、分かっている。
……あたしの望みは、『今』のリーマス。
あたしがいてもいなくても、彼が笑っている、この世界。

普段であれば、そんなことの意味は深く考えなかっただろうし、気にもしなかっただろうけれど。
この時、あたしは不意に悟ってしまった。
ぷかっと。
もともと沈めておいた考えが浮かび上がったかのように。
唐突に。
けれど、何の抵抗もないほどするりと。


「……ああ、そういうこと?」


ぼんやりと、独り言が漏れる。

そうと考えれば、今までのことがパズルのピースみたいにかっちり嵌った。
まるで意味のないような言葉や、意味不明の状況、全てが全て。
そう。


ドクン。


リーマスとの距離も。


ドクン。


シリウスの威嚇も。


ドクン。


ジェームズの意味深な笑みも。


ドクン。


ハリーの代わりにヴォルデモートを倒した『名もなき魔法使い』のことも。


ドクン。





『お前の両親の名前は?』





ドクン――っ!


そう、問われた意味も。
なにもかも。どこもかしこも。
分かっていなかったのは、あたしだった。

『恋』よりも深く深く、罪深いこの想い。

そう、あたしは、自分自身の気持ちさえ。
自分自身の想いすら履き違えていた。
リーマスとラブラブ?嗚呼、馬鹿げている。
あたしは思った以上に自己中心的で。
けれど、思ったよりも、利己的じゃ、なかった。

だからこそ、今まではピンとこなかったのだ。
核となるべきピースは――……


「……まいったな」


これじゃ、『名もなき魔法使い』のこと、殴れないや。


『……


そして、一気に全てを理解した頭が、必死に回転をしようとしているところに、声がかかる。
当然のように、背後に黒猫が佇んでいた。

嗚呼、そういえば、この黒猫だけは最初に言っていたのだったか。
この世界が、どういうものなのか。
あたしにとって・・・・・・・どんな意味を持つのか・・・・・・・・・・
この案内人だけは、最初に言っていた。
世界と自分の立ち位置をまるで分かっていなかったあたしに。


『ここは、君が望んだ世界だ。君がこうであれと望み、願った世界なんだよ』


あたしが世界の中心だと、告げてくれていた。
それを分かっていながら、理解しなかったのは、ただのあたしの不明だ。


「スティア……。全部、知ってたの?」
『…………』
「全部分かってたの?
あたしがこうしてここに来ることも、これから何をするかも、全部」
。やりたくないなら、やらなくて良いよ』


問いには答えず、スティアはまるで感情の読めない声で言う。
主語はない。
そんなものは、お互いに必要としていない。


「……無理だよ」


それはなんとも魅力的で、冗談みたいにくだらない一言だった。


『どうして?』
「あたしには、無理だもん」
『どうして。できないことはないんだよ?』


なんでもないことのようにスティアはあっさり言うが、あたしがそれをすることはない。
物理的には可能でも、心情的には不可能だからだ。
それを、スティアはもちろん分かっていて、だけど、言わずにはいられなかったのだろう。

それはただの確認作業のようなものだった。





「だって、やらなきゃ、『』はどうなるの?」





『今』は。
色々不可思議な部分はあっても、それでも平和そのものの、この時代は。
この、あたしの望む通りの世界・・・・・・・・・・・は。
この、『名もなき魔法使い・・・・・・・・が世界の中心にくる世界・・・・・・・・・・・は。


「なくなっちゃうんじゃないの?」


疑問符がついていても、ほとんど確信があった。
今、ここであたしが選択を間違えれば、確実に一つの世界が消える。
当然だ。
この世界はあたしがこうであれと望んだもの。
望んで・・・つかみ取った世界・・・・・・・・

黒猫はそれを否定しなかった。


『どうしても、やるの……?
。君は、それが一体どういうことなのか本当に分かってるの?
“今”を見れば分かるだろう?“名もなき魔法使い”はいない。
つまり、君はあちらの世界で間違いなく辛い思いをして。
間違いなく彼の前からいなくなるってことなんだよ?』
「……それでも」


それでも、あたしは。


「知らなきゃ、知らないでいられたけどさ。知っちゃったから。もう、無理だよ」
『…………』





――あたしは、世界を変えに行く――





「このあたしが闇の帝王を倒すなんて、ほんと冗談も良いとこだよね」


わざと陽気にそう笑えば、スティアはわずかに目を伏せた。


『君がそれを望むなら』


その、絞り出すような声に、僅かな笑みを浮かべ、あたしはその手をみぞの鏡へと伸ばした。
幸せな光景に手を伸ばすように。
幸せな光景を、愛でるかのように。
そっと、その鏡を撫でる。


『目を、閉じていた方が良い。あまり見ていて気分の良いものじゃないから』


そして、スティアはそう言って、あたしの足元に金色に輝く鎖を這わせる。
それは、やはりキーアイテム。
まだ活躍するはずのなかった、金砂の砂時計。


「嗚呼、ひょっとして今日の用事ってそれのことだったの?」


となると、やはりこの案内人は、あたしの今後を知っていたことになる。
けれど、不思議と嫌悪感は起こらなかった。
それは多分。
彼が最初にあたしが鏡を見るのを、止めたから。
あたしに何度も何度も、意志を確認してくれたから。
多分、そうだと思う。


『……まぁね。逆転時計タイムターナーは流石にホグワーツにもないから』


やはり沈んだ声を出す彼に、あたしは微笑む。
あたしは、ダメな人間だけど。
でも、大丈夫だと告げる為に。
どこかのチェシャ猫のように忠実な彼のためだけに、笑ってみせる。

そして、その笑みをスティアがちらりと見上げたことを確認して、あたしはようやくその瞳を閉じた。
閉ざされた視界は、どこまでも暗くて。
けれど、きっとこの黒猫はそんな闇の中でも輪郭を保って、あたしを導いてくれるのだろう。
いつかと同じに。
いつものように。


「君は……やっぱり馬鹿だ」


優しい優しい響き。
どこか切なさを含んだそれを洩らしたスティアは、やがて自身も鎖の内側へ入り、逆転時計タイムターナーに杖を突き付ける。
と、次の瞬間、時計は猛烈な勢いで回転を始めた。
きっとスティアの目には、凄まじい勢いで巻き戻る時間が、見えていることだろう。





――





小さく、あたしを呼ぶ彼の声が聞こえた気がした。
そう、瞼の裏で最後に想ったのは、優しい、どこか戸惑いを含んだ笑み。

自分がこれからすることを考えると、泣きたくなるし、きっと後悔だってすると思うが。
でも、きっとあたしはその笑顔がある限り、やり遂げることができるんじゃないかと、そう思う。

そして、気の遠くなるほどの長い時間、あたしはその場に佇んでいた。







しん、と教室は静まりかえっていた。
針の落ちる音さえ聞こえそうなその静寂に、動く影はない。
ただ、そこに美しい姿見が取り残されるだけだった。





幸せは自分でつかみ取るものなんだ。





The first part is the end.
......to be continued