石凪 萌太。当時九歳。 所属、石凪調査室にして闇口衆。 ある日ある時ある場所――某私鉄の電車内ボックス席で。 仕事を終えて帰る道すがら、僕は見知らぬお姉さんと相席を果たした。 それが人生を変える出逢いだなんて夢にも思わずに。 君との出逢いは 五 里 夢 中 人が近づく気配に、僕の意識は覚醒する。 が、目を開くまでは至らない。 それは相手が明らかな気配の一般人であり、その魂に何の揺らぎもない事からの判断だった。 それはつまり、何者にも操られていないという事。 やってきた人物が自らの意思で、自らの思考において自分に近づいてくるという証左。 おそらく、席が他に見つからなかったのだろう、ガラガラと耳障りなキャリーバッグが音を立てて、僕の隣に止まる。 「…………」 気配は一瞬躊躇するようにそのまま停止したが、結局は僕の斜め向かいの席へと腰を下ろした。 靴音の軽やかさからいって、おそらくは女性だろう。 僅かに爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。 そして、その女性は何度か身体を揺すって、居心地の良い場所を発見したのか、動かなくなる。 やれやれ。これで少しは耳障りでなくなった、とはいっても、気にならなくなるまでには及びませんねぇ。 隠されることのない気配が、なんとはなしに鬱陶しい。 実際に外に出て『母』の仕事を手伝っているとはいっても、まだ未熟な点も多い。 時折、一般人の剥き出しの気配にうんざりしてしまうことがある。 そのうえ、今は仕事が終わったばかりで、ただでさえ少し気が高ぶっている状態だ。 無視してしまえれば楽なのに、気にしてしまったせいか気になって仕方がない。 しかも、である。 じいー。 そんな僕の内心などお構いなしで、どうにも視線を感じる。 おそらく、こんな平日の真昼間に、明らかに小学生と思しき子どもが電車に乗っている事に対する疑問だろう。 『母』がいれば、また反応は違ったのかもしれないし、まず相席しようなどという発想が浮かばなかったとは思うのだが。 あの『母』が自分を慮って一緒に帰路に着くなんて考えられないし。 なにより、そんな状況になったら息苦しくて仕方がない。 家族相手に息苦しいだなんておかしいのかもしれないが。 そもそも、あの人と僕って血繋がってませんしね。 だから、一人の不自然さは否定しない、できないので、狸寝入りをしてその場をやり過ごす。 すると、その思考に飽きたのか、女性の視線が外れた。 そして、聞こえてくるのは、カチカチと連続したプッシュ音。 ……どうやらメールをし始めたようだ。 無視できそうにもないので、その馬鹿みたいに早い、そして長い音に耳を傾ける。 今時の女性の携帯技術には、殺し名でさえも目を瞠るものがある。 それは、自分達の技術が殺しに特化しているせいもあるのだが、自分にはあんな風に素早くボタンを押す事などできないだろう。 まぁ、その必要もないと言えばそれまでなのだけれど。 そして、十数分に渡りメールのやり取りをした女性。 どうにもひと段落したらしい彼女に、興味をそそられて薄目を開けた。 「……あ」 驚きに見開かれた女性の目と目が合う。 予想に違わず、斜め向かいに座る彼女は、どこにでもいそうなありふれた女性だった。 大きな瞳に、健康そうに日に焼けた肌。 冬にも関わらず露出した足はすらりと長く、若さに満ち溢れていた。 多分、高校3年生か、もしくは大学1、2年生か。 今の時間帯を考えればおそらく後者だろう。 どこか遠出するのか、それともその帰りなのか、小振りなキャリーバッグが彼女の隣、つまり僕の前に控えている。 年齢で言えば、確実に自分の方が若いはずだが、目の前の彼女の方がよほど生き生きとしているように見える。 ……まぁ、仕方がないだろう。何しろ、自分は死神なのだから。 生きているかも怪しいものだ。 「えーと、あの……お、おはよう?」 そして、女性は目が合った居た堪れなさからか、戸惑いがちに口を開いた。 「おはようございます。お姉さん」 「お姉さんだなんて……っ!あ、いや、その、ごめんね?他に席開いてなかったから座っちゃって。バッグも」 「いえ、こういう場合はお互い様ですから」 おそらく下の兄弟がいないのだろう、『お姉さん』という名称にちょっと過敏な反応を示しながらも、女性は謝罪を口にする。 こんな子ども相手にもそんな礼儀正しい対応ができるところを見ると、相席を許しても良い程度の人物ではあるらしい。 もし、あまりに常識外れな人間だったら笑顔でお引取り頂く予定だったので、事が荒立たなくて良かった。 そんな風に、さっさと会話を打ち切りたい僕だったが、彼女はそうでもなかったようで。 何故か口をぱくぱくと金魚のように開閉させていた。……言葉を選んでいるらしい。 「あの……」 「はい?」 「ひとりなの?お父さんかお母さんは?」 「僕はおひとりさまですよ」 ホラ、きた。 当然予想されていたその一言に、僕はにっこりと人好きのする笑みを貼り付け、それ以上の詮索を避ける。 こうすれば、勝手に想像を膨らませた大人たちは、その表情に同情を浮かべてその口を閉ざす……。 それはいままでの経験から、絶対と言い切れる光景だった。 だから。 「ああ、そうなんだ?凄いねぇ」 そう言って、まさか微笑まれるとは思ってもみなかったのだ。 それはそれは、春の陽だまりのように穏やかで。 同情の欠片もないほどに、綺麗な微笑みだった。 「ひとり旅って事なんだ。私、その歳でそんな事できなかったなぁ。本当に凄い」 「…………」 思わず、目の前の人間を凝視してしまう。 それは、今まで返ってきた事のない反応だった。 あくまで、彼女は自然体で。 ひとり旅がまるで快挙のように、心底から感嘆していた。 僕としては、そんなもの褒められる類だなんて思った事もないのに。 そんな両手ばなしで褒められたら、正直、どう返すべきか困る。 「別に……大した事じゃありませんよ?」 「そんな事ないよー。私なんか、高校入るまで一人で電車乗った事ないもん。 まぁ、主な交通機関が車だったってのもあるんだけどさ」 「はぁ。そうなんですか」 「そうなんですよー。それに比べたら、すっごいよー」 にこにこと機嫌よく笑う女性。 その笑顔を見て「それは比べる対象がアレなのでは」という一言は、可哀想なので黙っていてあげる事にした。 「お姉さんもひとり旅ですか?」 「んー。旅っていうか……実家に帰るだけなんだけどね。学校冬休みだし」 その少し早い「冬休み」という単語に、彼女が大学生である事を知る。 予想はしていたが、そうなると、自分より10近く年上だ。……見えないが。 「おばあちゃんとかが帰らないと煩いんだよー。ウチって、結構親戚多いんだけど、皆で花札とかするの。 人数少ないと盛り上がらないからって、呼ばれちゃうんだよねー。まぁ、その分お年玉増えるから良いんだけど。 あ、花札って知ってる?日本版のトランプって言ったらちょっと違うけど、そんな感じの」 「ええ、知ってます。賭け事に使う奴ですよね」 ペラペラと楽しげに語る彼女に、とりあえず話を合わせておく。 まぁ、旅は道連れ世は情けなんていう言葉もある位だし、少しくらい、この変わった女の人に付き合うのも良いだろう。 気が付けば、僕はそんな風に考えていた。 もしかしたら、彼女との会話が自分とはあまりに無縁のもので、興味深かったのかもしれない。 そして、僕のその言葉に彼女は笑顔で頷いた。 「そうそう。コイコイとか坊主めくりとか色々遊べるからお勧めー。 特に親戚で馬鹿みたいに強い人がいてねー。絶対負かしてやるって思っててもいつも負けちゃって」 「楽しそうですね」 「うん。楽しいよー!なんていったって家族だし。気心知れてるからねぇ」 「……家族……」 家族?気心が知れている? まるで御伽噺のような話を、彼女は幸せそうに語る。 本当に、別世界の住人なんだな、と目の前にしながら、思う。 けれど。 「私、自分が結婚しても、絶対ああいう馬鹿騒ぎできる家族作りたいなーと思ってて」 当然のように語られる夢に。 「今時ってご飯だって一緒に食べない家多いじゃない?それって寂しいかなって」 「寂しい……」 「うん。屋根の下にひとりは、寂しい。一緒にいるのに、いないのは寂しいよ」 自分でも手が届くような気がしてしまう。 「だから、頑張ってあったかーい家にしたいんだー」 「……良いですね。お姉さんならきっとできますよ」 自分には、幻想にしか過ぎないのだけれど。 欲しいと、望んだ事はあった気もするけれど。 とうの昔に置き去りにした、夢。希望。幻想。 人に期待する夢と書いて、儚い幻。 それをあっさり手に入れられる彼女に、嫉妬さえ浮かんでこない。 僕と貴女じゃ、立っているステージが違う。 だから、掴めるものも。 叶えられる夢も。 何もかもが違って当たり前で。 羨むだけ、無駄なのだ。 その事を知っている僕は、だからとっさに答えられなかった。 「ありがとう!あ、そうだ。君は?」 「はい?」 「結婚とかしたら、どんな家族になりたい?」 当然のように、僕に返ってきたその質問に。 言い淀む僕に、彼女は「あ、君にはまだ結婚とかは早いかな?」などと言って、眉根を寄せた。 ……早いにも程がある。 僕はまだ十にも満たない子どもなのだから。 けれど、殺し名である僕からしてみれば、そんなものはどうとでもなる、唯の区分に過ぎない。 「いえ、そんな事ありませんよ?」 ならば、死神は。 そんな区分、バッタバッタと鎌で切り裂いてしまいましょう。 「そうですね……。お姉さんと同じように、楽しい家が良いです」 「うんうん。それで?」 弾むようなその相槌に、徐々に心が晴れていくのを感じた。 人に期待するなんて、自分はなんて子どもだったのだろう、と思う。 そんな受身でいて、何かがどうにかなるなんてあるはずもない。 ならば。 「僕、妹がいるんですけど。妹も一緒に暮らせれば良いですねぇ」 「お兄ちゃんなんだね。良いねー。家族はいつも一緒だもんね」 目の前の彼女のように、『家族』の元へ自分から向かうのも、良いかもしれない。 幸せそうな彼女。 貴女のように自慢できる家族ができたなら。 僕も、同じように笑えるはずだから。 やがて、電車が次の駅の名前を告げる。 すると、彼女は乗り換えがあるらしく、上着を着込んだりと降りる準備を始めた。 時計を見てみれば、時間は思った以上に経過していたようだ。 珍しくも有意義な時間に、名残惜しさがこみ上げる。 しかし、電車は容赦なく速度を落とし、フェンスに囲まれた駅のプラットホームが見えた。 彼女は、キャリーバッグを掴み、席を立つ。 その背に。 「あ……」 思わず、手が伸びる。 けれど。 その愚かな行為を自覚すると共に、その手は空を切って元の位置へと戻っていった。 引き止めて、どうしようというのか。 せめて、別れの挨拶位はしようと、ほんの少し俯いていた顔を上げる。 「あ、そうだ」 すると。 ふと、彼女は気付いたように鞄を開けた。 そして、疑問符を浮かべる僕に向かって、オレンジ色の物体を放る。 反射的に手を伸ばし、受け取ったそれを確認すると、彼女は悪戯っぽく笑った。 「それあげる。おじさんの所で作ったみかん。美味しいよ?」 爽やかな柑橘系の香りの正体は、それだった。 僕は馬鹿みたいに一瞬呆けて、それと彼女を見比べる。 そして、とっさに出てこなかったお礼の言葉を言おうとしたその時、彼女は手を振って電車から降りてしまった。 「待……っ」 「ばいばーい。美少年のひとり旅は危ないから気をつけてねー!」 追いかけようとした瞬間、無情にもドアが閉まる。 彼女の言葉だけが、車内には残された。 僕は、もう言葉も届かない、別世界の彼女に。 口だけで感謝と別れを告げる。 伝わるかどうかなんて分からない。 けれど、そうしないではいられなかった。 すると、彼女もそんな僕の様子に気付いてくれたらしく、振り返りざま口を開いた。 やがて、電車は滑るようにホームを出る。 馬鹿みたいに僕に向かって手を振り続ける彼女が、徐々に遠ざかる。 「……僕もまだまだ、ですかねぇ」 ひとり、ボックス席に取り残されて。 みかんを両手で包み込んだ僕は、紅くなった頬を自覚した。 ――どういたしまして。 硝子越しに返されたとびきりの笑顔を、瞼の裏に思い描きながら。 僕の夢が決まったあの日から、もう5年近い月日が流れた。 僕はあの日思い描いたように、崩子を連れ出し、本家から脱走を図り、逃げ延びて現在に至る。 崩子あたりはひょっとすると、『父親』のせいで僕が飛び出さざるをえなかったとでも思っているかもしれないが。 そうではない。アレは、ただの契機だ。 ただ、あの男がやってきたせいで、ほんの少し『家出』が早まった、だけである。 結果、京都に辿り着いたのは偶然か必然か。 もちろん、偶然などではない。 僕自身が狙ってやった事だった。 そして、現在。 僕の前には、いつの日かの幸せそうな女性。 「綺麗なお姉さん。貴女のお名前は?」 「へ、あ、私っ!?えーと、はじめまして? と申しますっ」 「そうですか。では姉、これから末永く宜しくお願いします」 貴女が覚えていなくとも。 貴女との出逢いは僕にとって人生最良の出来事でした。 ......to be continued
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