ひとりぼっちの青年は、ひとりぼっちの少女を助けた。





零崎の人間、7





エレンはその時怒っていた。
許せない、と、心から吹き出す声がある。
だから、会ったこともない女の子を助けるために、誘拐犯の頭を叩き割った時も、 ミカサが誘拐犯の一人を刺殺した時も、罪悪感など欠片も持たなかった。

それよりはどうしようもないやりきれなさと、僅かな達成感。
少女の親を助けられなかったという過去に。
少女を救えたという事実に、彼の頭は支配されていた。


「…………」


だから、彼らはまだ、それに気づいていなかった。
なにしろ彼らはまだ子どもだったのだ。

人を3人も殺すことが、そう簡単にできるはずもない。
しかも、一撃で。一度に。

最後の一人を倒した、と思った時、エレンもミカサも失敗した。
3人目が現れた時と同じ失敗だ。
相手の状況も分からないのに、目の前の光景だけを見て、安心してしまった。


「……とりあえず、出よう」
「……ん」


そして、彼らが背を向けた瞬間に、 まだ死んでいなかった誘拐犯の一人は、ミカサに向かって凶器を振り上げた。
殺気に反応したミカサが振り返って見たのは、この世の物と思えない形相でこちらに襲いかかろうとしている男。
首からの出血で白い顔をしながらも、目は血走り、ミカサだけを見つめる復讐者がいた。
迎撃できるかと言えば、それはもう手遅れな状況だ。

今度こそ、死ぬかもしれない。

そう彼女の小さな頭に死の予感がよぎった時、


「…………っ」


死神の鎌は容赦なく命を刈り取っていった。


「ぎゃっ」


ただし、ミカサではなく、目の前の男の物を。
ぽかん、とエレンがそちら・・・を見ているのが、ミカサにも分かる。
男の首がボテっとくぐもった音を立てながら床に転がり、
不恰好になった体が、振り上げたナイフもそのままに崩れ落ちる。
そして、その後ろに黒衣の死神が立っていた。

ヒラヒラとした服装は上等なそれに違いないが、まるで見たこともない形をしている。
白い顔は血の気がないくせに、唇ばかりが艶めかしく紅い。

その姿はこの世の者でなくても、目を引いた。
精緻に整った顔の造作に、ではない。
均整のとれた肢体は細身ながらも引き締まっていたが、それ故にでもない。
ミカサとエレンの目をくぎ付けにしたのは、その瞳だ。
それは、闇の深淵を覗き込んだような、果てのない昏さの中に、 彼らが見たこともないような狂おしい光を宿していた。


「    か?」


そして、死神は問いかける。
彼の瞳には、なにも映っていないようだったが、 その問いかけがミカサに向けられたものだということは明白だった。


「無事、か?」


彼は、ミカサを救ったのだから。
ミカサは目の前の死神を知らない。
会ったこともない。
けれど、彼女はその切実な問いに応えていた。
そうさせるだけのなにかを、彼は持っていた。
そして、ミカサの返答と得た彼は、


「そっか……」

それは鮮やかに笑った。
綺麗で。
無様で。
それでいて、酷く滑稽な。
道化が浮かべるそれに、よく似た笑みだった。
と、ミカサたちが思わずそれに見惚れる中、死神は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。


「おいっ!?」


エレンが慌てて近づく。
どこか怪我をしたのかもしれないと思っての行動だったが、死神は健やかな寝息を立てているだけだった。
見た所、どこも怪我をしてはいない。


「なんだ?コイツ……」
「…………」


困惑気味に、エレンは青年を見つめることしかできない。
エレンの頭を占めていたのは、この青年が敵か味方か、ということだった。
敵なら今、トドメを指すべきだ。
だが、この男はミカサを助けて安否を気にした。
常識で考えれば、味方に決まっている……。



だが、それは本当か?
これは・・・常識で考えて良い生き物なのか・・・・・・・・・・・・・・・



エレンの本能ともいうべき部分が、異質な存在に警鐘を鳴らしていた。
そして、青年を凝視するエレンの意識をそらしたのは、誰あろうミカサだった。
彼女は唐突に表れた救世主を、酷く不思議そうに見た後、ふらふらと外に向かって歩きだしたのだ。


「あ」


それは、両親を殺した相手から離れたかったのかもしれないし。
自分が殺した相手から目を背けたかったのかもしれなかった。

エレンがそのことに思い当たり、慌てて後を追いかけた時には、 彼女はもう、亡羊とした眼差しで夜の闇を見つめていた。


「っ」


こんな時、どんな声をかければ良いのか、子どもであるエレンには分からない。
ただ、ひたすらに哀れだと思った。
泣くこともないその姿は、あまりに孤独だった。

と、エレンが次の行動を決めかねながらも彼女に向って手を伸ばしたのと、 まるでタイミングを計ったかのように憲兵を引き連れた父がやってきたのは、ほぼ同時だった。
彼は、嬉しげに顔を向けた息子と、生気のない心細げな少女の姿を認めると、 さっと少女を自分の上着でくるみこむ。
思わず安堵の息が漏れるが、それを噛みしめると、きっと鋭い眼差しを息子に投げた。


「エレンっ!!」


ビクッ


日頃穏やかに患者と接している父の、聞いたこともない怒号に、エレンの体が固まる。
だが、そんな風に強張ったエレンの体を、掻き抱くように父は腕の中に封じた。

子を心配する親として当然のそれを横目で見ながら、憲兵達は山小屋の中に入っていった。
子どもたちが外にいることで、当面の危機はなさそうだと思いながらも、 やはり警戒を解くことは職務上不可能だったのだろう。
彼らは、まさかそこで待っているのが、凄惨な殺人現場だとは思いもしていなかった。

しかし、流石に父であるグリシャは二人の子どもの手をドス黒く染めている物に気がついていた。


「っ……エレン……」


ここにいるはずのない息子。
その直情的かつ、衝動的な正義感。
別れ際の表情などから、グリシャは山小屋の中の光景を瞼の裏に描くことが出来た。
出来てしまった。


「麓で待っていろと言っただろう!なんてことを……っ
お前は……自分がなにをしたのか分かっているのか……!?」
「っ」


その為、エレンに対する口調が厳しい物になるのは必定である。
すると、それに対しエレンが感じたのはやはり怒りだった。
自分はそんな非難されるようなことなど、なにもやっていない。
それなのに、父の声は問答すら拒否する勢いを持っていた。
反発するように、エレンは叫ぶ。


「有害な獣を駆除した!たまたま人と格好が似てただけだ!!」
「エレン!!」
「こんな時間に憲兵団が来ても、奴らはとっくに移動していた!
憲兵団じゃ間に合わなかった!!」
「もしそうだとしてもだ!エレン!!お前は運が良かっただけだ!!」
「っ」


がしかし、すぐに父に痛いところを突かれる。
彼は決して馬鹿ではない。
自分が、ミカサと妙な死神に助けられなければ、とっくに息をしていないことは理解していた。
助けられると思ったし、助けたいとも思ったけれど。
相手の力量、人数、その他の諸々を見誤ったのは、変えようのない事実だ。

そして、父から続けられた、己の身を案じる叱責に、ぐっと涙がこみ上げる。


「早く……助けてやりたかった……」


動機が問題なのではなく。
その手段が、正しい物ではなかった。
しかし、他の方法では、少女を助けられなかったことも、また事実だった。

そのことは、グリシャとしても否定できるものではない。
彼は、焦点の定まらない瞳を虚空に向けているミカサに、そっと声を掛けた。
もっとも、憐れな少女は反応こそしたものの、彼の姿はまるで見えていなかったのだけれど。


「イェーガー先生。私はここから……どこに向かって帰れば良いの?」
「「!」」


一族の印を腕に彫り込んで。
それをお医者様に診て貰った後は、ささやかなお祝いをするはずだった。
いつも通りの一日。
いや、いつもよりほんの少し鮮やかな一日。
しかし、それはほんの一瞬で寒々しい単色の世界に切り替わってしまった。

悪かったのは、一体なんだったのだろう、とぼんやりとした思考が問う。
間か?
運か?
行いか?

分かっているのは、父も母もいない世界は、ミカサにとって残酷だということ。
両親を殺した男達も言っていたではないか。
この世界にミカサの同類はすでに亡く、残されたミカサも虐げられるだけだと。


「寒い……」


襲ってきた男を殺した時に感じた万能感はすでにない。
と、ミカサが実はさっき、自分も死ぬべきだったのではないかと考え始めた時、 彼女に些か乱暴で、しかし、温かな手が伸ばされた。


「やるよ、これ。あったかいだろ?」
「!」


それは、エレンがしていたマフラーだった。
不器用な手つきで巻かれたそれは少しごわついていて。
けれど、残されたエレンの体温で、酷く酷く、優しくて。

差し出された手を、ミカサは拒まなかった。







と、少女の行く末が決まった直後、山小屋から憲兵達が現れる。
アッカーマン家を襲った輩の死亡を確認した彼らは、小屋の中にいた唯一の生存者を引っ立てていた。


「イェーガー先生!息があったのはこの男だけです。お知り合いですか?」
「……いや」


両側から腕を取られ、引きずり出されてきたのは、あの死神だった。
まるで意識がないらしくぐったりとした青年を、グリシャは険しい眼差しでじっと見つめる。
顔立ちは、ミカサのそれと近い。
東洋人特有の肌の色だ。
だが、夜目にも鮮やかな赤茶の髪が、純粋な東洋人ではないことを示していた。

まさか同じ東洋人が東洋人を売り払おうなどと悪辣なことを考えたのか、そうグリシャが考えた時、 ミカサがきっぱりと口を開いていた。


「従兄弟」
「!?」

「従兄弟だと?」
「そう。私の、従兄弟の、お兄ちゃん」


あまりにはっきりした言葉に、一般兵は強烈な圧力を感じて口を噤む。
そして、目線でグリシャに向かって、少女の言葉を確認してきた。

彼女の言葉は本当か?と。

あの人里離れた家に住んでいたのは、親子3人だけのはずだ。
他ならぬグリシャ自身がそう言ったのである。

だが、真っ赤な嘘というには、少女の瞳には迷いがなかった。
グリシャは、一般兵の視線に応えて、ミカサにまっすぐ目を向ける。
彼女は疑惑の眼差しに小揺るぎもしていなかった。
彼女はを知らない。
従兄弟でもなんでもない。
ただ、彼の笑み。



――良かった。



あれは、今の彼女にはあまりに痛いものだった。
見捨てるなど、論外だった。
そこにいるのは悪魔かもしれない。
けれど、例えそうであったとしても、やっぱりミカサは放っておけなかっただろう。
それほどに、彼の孤独は、彼女のそれと酷似していた。

そして、無言の内に滲む彼女の決意に、グリシャは目を細め。


「ああ、そうだ。そういえば、歳の離れた従兄弟がいると言っていたんだったね」

素知らぬ表情で、偽りを口にした。


「確か、遠くの街に住んでいたんだろう?遊びに来る予定があったのかい?」
「……今日、来る予定だった」
「なるほど。では、私たちよりも早く、アッカーマンさんの家の異変を知って、ミカサを探していたのかもしれない」
「助けて、くれました」
「そうか。なら、彼はエレンの恩人でもある訳だな。ここではなんだし、彼も家に連れて行こう」


街の大恩人であるイェーガー先生の言葉だ。
一般兵は少しの引っ掛かりを覚えながらも素直に従い、意識のないの体を運んで行った。





そして彼らはふたりぼっちになった。





......to be continued