大事な物はなくさなくても気づくことが出来る。





零崎の人間、6





その人は、ただひたすらに宙を見つめていた。
いや、見つめている、などと能動的な表現をしていいものかと言われれば、 ほとんどの人間が首を振ることだろう。
彼の目は宙に向けられていたが、その瞳には何も映っていなかった。

換気のために開けられた窓から風が入り込み、ぱたぱたと清潔なカーテンがはためく。
真白の空間に、空白の青年。
つい数分前までここにいた牧歌的姿の男の他に、訪う人もいない。
いや、もう、あの男ですらここに来ることはないのだろう。
彼は最後の最後、別れを告げにだけ、ここを訪れたのだから。
肉体的には生きているはずなのに、精神だけ死んでしまった家族に、また会おうと告げて。
零崎 軋識は、死地に赴いた。
その背を、見るともなしに、追う視線があったとも知らずに。


行くなっアス!


零崎 は、己が滅ぼすこととなった一賊の。家族の。
最後の一人の背に手を伸ばしかけて。
届かない声に、心の奥の奥で絶望した。

それは、彼をかろうじてこの世界に繋ぎ止めていた糸が、ぶっつりと切れた瞬間だった。







悪かったのは、一体なんだったのだろう、とぼんやりとした思考が問う。
間か?
運か?
行いか?
悪目立ちしすぎたせいか。

人を散々殺してきた自分だ。
まともな死に方はしないと、分かっていた。
けれど、まともな死にぞこない方くらいはできると、思っていたのに。

視界に揺れるは、圧倒的な暴力を強いた、小柄な体躯。
橙色の暴力。
それに真白の包帯。
そして、笑う狐面。


『零崎一賊の者だな?』
『は?』


いつもの一日だった。


『えっと、あれかな?百鬼夜行的な……??』
『“百鬼夜行的な”ふん。お前には俺が百の軍勢を率いているように見えるのか?』


いつもの墓参りだった。


『いやぁ、僕、霊感的なものないんで。ただ、なんかこう只者じゃないぜオーラが満載っていうか?』
『因果から外された身で率いれるのは……そうだな。精々10人前後といったところか』
『はぁ』
『もっとも、今現在ではその十数人にすら届かないんだがな』


それなのに、その帰り道は非日常に繋がっていた。


『そうっすか。で、僕に何か用なんですかね?』
『ほう……俺に物怖じしないのか』
『正直、今すぐおまわりさんに助けを求めたいくらいにゃビビッてますけど?』
『……“おまわりさんに助けを求めたいくらいにゃビビッてますけど?”ふん。
よく言えたものだな。そのワリには殺気が駄々漏れだぜ、お兄ちゃん』
『ええ〜、そう言うあんたこそ、生き物の気配が全然ないぜ?殺せる気がしねぇな』
『……中々に惜しい人材だな。殺すには惜しい。
お、そうだ。お兄ちゃん。いっそ俺のところに来ないか?』


逢魔ヶ刻には魔が通る。
丑三つ時には鬼が通る。
だが、鬼が出逢ったのは、善良な一般市民などではなく、魂を狂わす狐だった。


『はぁ??』
『狐さんっ!?アンタなにを言ってるのさ!?』
『“アンタなにを言ってるのさ”ふん。るれろ、当たり前のことを訊くな。
ごくごく真面目な勧誘だ』
『そんなことをしたら、計画が全部おじゃんじゃないのさ!』
『計画などあってなきが如しだ。そうなればそうなればで零崎一賊に導く新たな的が現れる。
それこそが代替可能ジェイルオルタナティブ。それこそが物語だ』




『おい、お兄ちゃん。俺と一緒に世界の終わりを見ようじゃないか』


少なくとも、その手を取っていれば、自分の心は死ななかったのだと思う。


『……イミフすぎる』
『“イミフすぎる”ふん。意味なんてものはな、お兄ちゃん。
世界の終わりさえ見れば全て理解できるのさ。
俺の手足となってくれるなら……そうだな。
お兄ちゃんには上等なモノクルの一つも買ってやることは吝かじゃない』


もっとも、その手を取った時点で『零崎 』は、この世から消えていたに違いないけれど。


『……はぁ。モノクルってあの片眼鏡的なもんだろ?
あいにく、ウチには眼鏡要員がすでにいるんでね。お断りだよ』


応えるや否や、飛び出した体。
躍動した筋肉。
言葉の端々から滲む優越感と、自分を呼び止めた言葉に、殺人を躊躇する理由は一つもなかった。
だが、の殺意は、狐には届かない。
なぜなら、そこに。
障害物のように小柄な体躯が滑り込んできたから。

相対した時は、まだ分からなかった。
けれど、その動きを見て。
けれど、その動きが見えなくて。
はじめて、目の前に化け物がいることを悟った。


「っ!」


しかし、自分は絶対に死ねなかった。
相手が化け物だからこそ、死ぬわけには、負けるわけには、いかなかったのだ。
家族を、守るために。

『一賊に仇なす者は皆殺し』

それこそが、零崎一賊が忌み嫌われ、恐れられるおぞましいほどの家族愛。
けれど。
勝てない相手に向かうとすれば、その金科玉条は呪い以外の何物でもない。

無我夢中で己の武器を、技術を、性質を総動員して。
先手必勝。相手のどてっ腹をぶち抜いたまでは、良かったのだろう。
けれど。
けれど。
けれど。
できたのは、それくらいで。
ズタズタの。
ボロボロに。
自分は生きてるのが不思議なくらいの傷を負わされた。
骨という骨が砕け、折れ。
筋肉が千切れ。
肉は裂けたし、血反吐も吐いた。
内臓も、ほとんどやられていただろう。

それでも、殺されなかった自分を、は呪う。


「『殺せ』。ふん」


せめて、と願う自分に、遥か高みから返された言葉は無情だった。


「お前を殺そうが殺すまいが、全ては同じことだ」


せめて。


「零崎一賊はこれで、こちらに報復を開始することだろう。
一人害せば続々駆けつけてくれるなど、好都合以外の何物でもない」


せめて、死んでいれば。
自分のせいで死んでいく家族を見なくて済むのに。

には分かっていた。
目の前の橙は、化け物だと。
決して、敵に回してはいけなかった存在なのだと。
例え零崎一族の力をすべて結集したとて、どうにもならない、どうしようもないものなのだと。
だって、そうじゃないか。
どれだけ強くとも。
蟻が象に勝てるはず、ないだろう?



薄れゆく景色の中で、ゆっくりとゆっくりと世界が壊れる音を聞いた。



そして、はそのまま一般人の通報により病院へ搬送された後、無様に生き延びてしまい。
ベッドで目を覚ました時には、家族の何人かがすでに鬼籍に入った後だった。
せめて、もう少し早く目が覚めていれば。
家族に悟られる前に、このズタボロの姿を隠せたはずなのに。
死ぬこともできず、隠し通すこともできず。

己の無力を噛みしめた瞬間、の心は死んだ。
その後は、誰にどんなことをされても反応一つ寄越さなくなった。

が生ける屍と化して数日後、 家族の状況を彼にメッセージで残した軋識の後悔はどれほどのものだっただろう?
あれは、優しい男だから。
頭の良い、馬鹿だから。
自分のメッセージがにトドメを刺したことも、分かってしまったのだろう。
だから、殺されるのが分かっているのに、のこのこと化け物の前に行ってしまった。
情報を拡散した責任で、あいつは自ら死ににいく。

止めたくて。
でも、止められなくて。
軋識が病室の戸をしめたその瞬間に、 いつまでも未練がましく体にしがみついていた、という存在は絶望の底に堕ちていった。

やがて、巡回の看護師がその個室を訪れた時。
部屋にあったのは、風もないのに、ぱたぱたと清潔なカーテンがはためく音だけだった。







一体、どれほどの時が流れただろう。
熱いような冷たいような。
寒いような暑いような。
感覚とも呼べないものを感じながら、の意識は長いこと彷徨っていた。
生も死も、意識せず。
己も他も、認識せず。
薄暗いトンネルを、ただただ歩き続けている。
時間の概念がないそこは、気が遠くなるような流れも、瞬きの間も、全てが等価だった。
これが地獄だというのなら、無間地獄とでも呼ぶのが相応しい。

だが、永い刹那もやがては終わる時が来る。

それは唐突だった。
真っ暗闇で、五感もろくに働かない中、彼が感じたのはただ一つの慣れ親しんだ気配。
幾つもの雑多な殺気の中にたった一つ混じる、純粋な殺意。

それを感じた時、は我知らず涙を流していた。
もしその姿を見ている者があったとしても、おそらくは分からないに違いない。
がどれだけその気配に触れたくて仕方がなかったかを。
がどれだけ家賊に逢いたくて仕方がなかったかを。

ふらふらと、覚束ない足取りで、光に引き寄せられる蛾のようにそれに近づいていく。
目の前には窓があったが、それも彼はおそらく認識しないままに越える。
そして。
そして、彼の目に映ったのは、小柄な体躯の子どもに襲い掛かろうとする男の姿。


「  っ!」


それが誰かなんて、には見えていなかった。
拡散していた意識が、ようやく形になった程度なのだ。
まともな知覚能力がある訳もない。
ただ。
ただ、襲われる子どもの瞳に、家賊を見ただけだった。

その瞬間、彼の体はまるで息をするように自然に動き。
息をする間もなく、転がっていた刃物で男の首を跳ね飛ばしていた。


「ぎゃっ!?」
「「!」」


断末魔の悲鳴と、息を飲む音が二つ。
だが、の耳には、そんなものは少しも入ってこなかった。
周囲に転がっている3つの死体も、子どもの無遠慮な視線も、噎せ返る血の池ですら眼中の外だ。


「    か?」


やがて、音になるかならないかという程の声量で彼は問いかける。
それを訊くのが、怖くて怖くて仕方がない、そういった声だった。


「無事、か?」
「!……は、い」


唐突に現れ、自分を助けてくれたを少女はもう一人とともにぽかん、と見上げる。
そう。
目の前の少女――ミカサ=アッカーマンはなど知らない。
当然だ。
彼女はの姿など、未だかつて見たこともないし、会ったこともないのだから。

だが、己の無事を知った青年が次に見せた表情は、彼女の心に深く深く刻まれた。


「そっか……。良かった」


それは迷子が寄る辺を見つけたような。
ずっと探していた宝物をようやく取り戻したような。
そんな、酷く幸せな笑みだった。





気づいたからといって、なくさないでいられる訳ではないのだけれど。





......to be continued