彼は言う。
家賊になんか似てやしないと。






零崎の人間、5





柵もなにもない住宅街の一郭。
自分が最後に見た時には紅蓮の炎で包まれた家があったものだが、 今ではその時の名残もない、ただの空き地に対して、は故人を偲ぶ。
彼は、零崎となった後から、毎年この日にはここに来ることにしている。
今のところ、一賊でやる(ということになっている)クリスマスパーティの他に、 にとっての恒例行事というと、頭に浮かぶのはこの墓のない墓参りだけだった。
たとえその日に嵐が来ようが、零崎としての用事がない限りすべからく、 彼は電車を乗り継いで、もしくは徒歩で、この田舎町まで来る。

もっとも、双識などは、のそうした行動を熟知しているので、 この日になにかあった場合、意地でも他の零崎に話を振ることだろうが。

案外その白羽の矢が立っていそうな末弟を横目に、思わず双識の過保護ぶりを思い出して辟易した。
自分でもこう……うんざりを軽く通り過ぎるのだ。
自分以上にあの変態に構われている人識には同情を禁じ得ない。
もっとも、そのおかげで、双識だけが人識の兄たりえているのだろうけれど。


「…………」


この弟は、決して零崎一賊を嫌っている訳ではない。
そのことは、言動その他諸々から恐らく確かだろう。
ただ、『家族』と認めているのは、あの家賊大好き人間だけなのだ。

それも一種の愛情だろうかと本人が聞いたら殺意でもって応えてきそうなことを思いながら、 綾識は、なにを考えているのかよく分からない末弟に対して問いかけた。


「なぁ、人識?お前学校行ってたんだろ?好きな子の一人や二人いなかったか?」
「いや、まぁ、確かに行っちゃあいたけどよ。俺に訊くかー?普通そういうの」
「ん?ああ……そういや、お前の行ってた中学、クラス全員死んじまったんだっけか」
「かはは、まぁ、そういうこった」


気楽そうに人識は笑う。
まぁ、確かに殺し名なんて物をやっていると、周囲が根こそぎなんて経験を持つ者も少なくはない。
がしかし、死んだのはあくまでも一般人で。
当時、その渦中にいた時のコイツはそんな風に気楽には思えなかったはずなのに。
それでも笑うのだ。この子どもは。


「そこに好きな子とかはいなかったのか?」
「いいや?いたぜ?榛名春香ってゆー、そりゃあ真面目な委員長とかな」
「僕が言ってるのは好意であって厚意じゃねぇよ」
「こーい、こーい、学歴ねぇくせに小難しいのな。リーダーは」


詳しい経緯なんてものは知らないが、それは少し、侘びしい物だと思う。


「そういうリーダーの好きな相手ってのはどんなんだったんだよ?告ったのか?」
「あのな、僕は当時、花も恥じらう小学4年生だったんだぜ?」
「今時ゃ、幼稚園児がバレンタインに勤しむ時代だろうよ?」
「マジか」
「マジだ」


今時は分かんねぇなー、と頭を掻きながら、今時を体現したような格好では頭を捻る。
どんな、と訊かれると、どう言って良い物やらという感じだ。

実を言えば、その顔の造作も少々記憶からは欠けている。
確か、やや癖のある髪をしていて、ピアノが上手で。
鈴木だとか佐藤だとか、まぁ、よくいる名字の少女だった。
クラスのアイドル、などという陳腐な物ではなかったが、それでもクラスの中では一番可愛くて。


「リーダー、面食いだったんか」
「違ぇよ馬鹿。顔もそうだけど、雰囲気全体が可愛かったんだったつの」


なんというか、とてもとてもお綺麗な世界で、何不自由なく幸せに生きてきたような。
健全で自然で、破綻した母子家庭の自分とはどこまでも隔たっているような。
そんな、娘だった。


――、くん?


やっぱり、その顔の造作は思い出せないけれど。
嗚呼、でも瞼を閉じればいつだってその表情が浮かぶ。


――きゃああぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁぁー!!


そして、同時に耳に蘇る悲鳴。
次いで、鉄さびの匂いに、肉を断つ感触。
それらを、思い出さない訳がない。
仕方がない。なにしろまだ死に顔を見たのは3度目だった。
ましてや、それが悲痛で悲壮であまりに悲しげだったなら、尚更だ。







くん、今帰り?」
「ああ、うん。そうだよ」


今からだと、もう自分の半生以上も前になるが。
当時、小学校4年生だった時の――いや、以前の彼は、大変に真面目な人間だった。
脱色なぞと縁のない綺麗な黒髪を、一般的な長さで遊ばせていた外見的なこともそうだが、 宿題は毎回きっちり終わらせ、寄り道など一つもせず。
成績優秀、運動神経抜群。
母子家庭であることなど一つも匂わせない、完璧な優等生だった。
もっとも、給食費やら教材費やらは時折滞っていたようなので、あくまでも彼自身は、という注釈が付くが。

当時、今ほど下校時の安全に世論が騒がしくなかった時代、 一人で帰る鍵っ子なんて一つも珍しくなかったあの時。
いつも通り、一人で帰ろうとする彼に、声を掛けてきた存在がいた。


「なら、途中まで一緒に帰ろう?」
「……良いよ」


以前の想い人である、可愛らしい少女だった。
その日は、父親に貰ったのだという、大きな白いリボンでポニーテールをしていた。
ひらひらしているその端っこが蝶々みたいで、それはもう似合っていたと思う。

彼女とは家の方向が同じだったので、毎日ではなくとも一緒に帰ることがあった。
と言っても、寂れた商店街まで来れば全然違う方向にばらけてしまうのだけれど。
でも、その僅かな道程が、自分には本当に素晴らしい物に思えていたのだ。当時は。
初々しい限りだと、今のなら思う。


「あのね?聞いて聞いて!」
「うん。なに?どうしたの?」


彼女は、以前が母子家庭であることに対してなんの遠慮も持っていないようだった。
或いは、そのことを理解できないほどに恵まれていたのかもしれないが。
それでも、周囲の幼稚な連中が父なし子である自分を嘲笑する中で、彼女だけが父のいないことを憐れんでくれた。
彼女は父が好きだった。
だから、その存在がはじめからいない自分は、よっぽど可哀想だったのだろう。

寂しいね。
悲しいね。
でも、大丈夫。私が『お父さん』のことを教えてあげる、と。

捻くれた大人であれば、そこに例えようのない優越感を見いだし、時に怒り、罵倒したことだろう。
だが、なにしろ自分達は子どもだったので、彼女の申し出に純粋に以前は喜んだのだ。
彼女の本心から親切にしようという言葉であったから、なおさら。
嬉しそうに彼女が父について語るのを訊くのが、以前の彼の日課だった。


「それでね。今度お父さんがお仕事休んでピアノの発表会に来てくれるの」
「そうなんだ。良いね」
「だから、可愛い服をお母さんに買って貰うの。何色が良いかなー」
「ピンクは?」
「ピンクは前に着たもん」
「じゃあ、黄色?」
「別の子が着るって言ってたから嫌」
「それなら……真っ赤とか?」
「真っ赤?」
「うん。真っ赤なドレスに、白いリボンと靴下。靴も赤くすればとっても可愛いよ」


以前は、赤が好きだった。
正直、彼女の雰囲気に赤という色は少しも似合っていなかったが、 赤・白・黒という組み合わせが白雪姫みたいで素敵だと思ったのだ。
すると、少女は「とっても可愛い」に反応したのか、赤いドレスに前向きになった。
今度の土日にドレスを買いに行った時に母に頼んでみる、と。

そして、そこまで話した所で、いつもの分かれ道が来る。
「じゃあね」と言う彼女に「ばいばい」と彼は返した。
いつも通りに。
いつも通りだったからといって、その後もいつも通りの日常が続くとは限らないのだけれど。

一人で寂れた商店街を抜け、小川の横の細道を辿り。
駅から大分離れているくせに、ぎりぎり住宅地には入らない、という場所までひたすら歩き。
以前は、住み慣れたボロアパートに帰宅した。
一階であるために階段を上る必要はない。
アパートの中でも一番湿気が多くて、日当たりの悪い部屋の前まで少年は歩いた。
そして、鍵を取り出す前にいつもの日課をする。
薄くて、さび付いた扉に耳を当てるのだ。


「     ぁ    …  あ――


そして、聞こえてくる雑多な音と声に、溜め息を一つ。
残念。今日は外れの日だった。

仕方がなしに、以前はくるりとその場で踵を返し、 近場の小さな児童公園へ向けて足を踏み出した。
なんの変哲もないその公園は、シーソーやら滑り台やらという、まぁ、ありふれた物しかない。
5分もしない内に辿り着いたそこには、何人かの子どもがいたが、 彼はその輪に加わることもなく、ランドセルのまま木の陰に腰を下ろした。


「…………」


が、気が変わって、ランドセルを背から外すと、そこから今日の宿題を取り出す。
やたらとチビた鉛筆に苦心しながら、彼は計算ドリルをそこで数ページ終わらせた。
今日が雨でなくて良かったと、鬱屈とした表情が語る。
この公園で雨宿りできるのは精々が藤棚の下くらいなので、天気が悪いと紙類が大変なことになるのだ。

早く家に帰りたいが、今帰ると母が怒ることを熟知していた少年は、公園で暇を潰すことを選んだ。
人がいる時は、できるだけ目立たないように隠れて。
人がいなくなれば、砂場でそれは立派な城を作って。
彼は、少しも楽しくなさそうに、公園で遊ぶ。

彼の母は、所謂夜の仕事をしていた。
夕方に出て行って、朝まで仕事をして。
昼過ぎまでは、ひたすら眠っている。
昼間に溌剌と活動している母というものに、以前は一度たりとも出逢ったことがない。
家庭訪問はひたすらに時間を調整してもらったくせにほんの数分で終わらせるし、 授業参観なんて、一度たりとも来てくれたことはない人だった。
だから、彼女に逢うとすれば放課後の帰宅時なのだが、出勤前に母も自分の時間を持つことがある。
その時、以前がうっかりと帰宅でもしようものなら、 二人きりになった時に激しい折檻が彼を待っていた。

「アンタなんかいなければ」それが母の口癖だった。

父のことはよく知らない。
ただ、一度父の話をしようとしたら、激怒した母に殴り飛ばされたので、 きっと触れてはいけないことなのだろうと理解していた。

けれど、彼は母を愛していた。
どれほど自分をストレスのはけ口にしようが、ロクに食事をさせてくれなかろうが、母は母だったから。
彼の世界は、ほぼ全てが母で構成されていたのだ。嫌うはずなどない。
だから、彼は勉強も運動も誰より努力した。
褒めて欲しかったのももちろんそうなのだが、母とよく似た顔に恥じないように生きたかったのだとも思う。
嗚呼、早く。


「早く、おじさん帰ってくれないかな……」


そして、母に逢いたい。
邪魔さえしなければ、『おじさん』と逢った後の母は、とてもとても機嫌が良いから。







やがて、公園に設置された時計の針が長短真っ直ぐになろうかという時間に、 以前の少年はようやく重い腰を上げて、再度自宅へ向かった。
いつもであれば、そろそろ出勤時間なので、『おじさん』ももうアパートにはいないのだ。

そして、薄くてさび付いた扉の中の音を拾うと、静寂が横たわっていることを確認して、 以前は今度こそ鍵を取り出した。
金属が、酷く素っ気ない音を立てて回る。
できるだけ息を殺しながら、以前はそっとドアを押し開け、玄関を見た。
そこには派手目なピンヒールが幾つか雑然と並んでいるものの、 立派な革靴は一つも見えないことを確認して、ほっと安堵の息が漏れる。

と、やはり音を立てないように気をつけながら扉を閉め、靴を脱ぎ、 以前の少年は、けれど、一縷の望みと共に「ただいま」と小さく帰宅を告げた。
「おかえり」という言葉が返ってきたことはないけれど、でも、彼は毎日これだけは欠かさない。
ここが自分の帰る場所なのだと、他の誰でもない自分に言い聞かせるために。
返事を期待することなど、なく。
と、しかし、この日はなんと奇跡が起きた。


「オカエリ」
「!」


真っ赤なルージュを引いた母の口がそう動いたのだ。
気怠げにこちらに顔を向け、滝のように流れる黒髪を流している母に、 嗚呼、そうか。赤は母の色なのだと、少年は悟る。
真っ赤な服に唇、靴。そして白い肌と黒い髪。
この見事なコントラストが、彼の脳髄には深く刻み込まれているのだ。

と、以前が絶句していることに、母は濡れたように輝く瞳を細める。
常ならば、返事をしろと罵倒されるのだが、本当に機嫌が良いらしい。
いつもの母ならぬ行動に驚きながら、しかし、彼は嬉しくて恐る恐る母に笑顔を向ける。
母は、そんな彼をなにも言わずに見つめ。
そのことに背を押されるように近づいてきた小さな頭に、細い手を伸ばした。


「ねぇ、。母さんが好き?」
「うん。好き」


そこには躊躇いはなく。
以前の少年の返答にも躊躇はない。



そして、少年の答えを聞くや否や、繊手は少年の頭蓋骨を鷲づかみにし、卓子にそれを叩き付ける。



「  っ  !!」
「なら、死んで」


ゴツ、と尋常でなく危険な音がして、卓子はその衝撃に堪えきれず、 上に載っていたボールペンやらリモコンやらを吹き飛ばす。

けれど、少年はそのことではなく、側頭部を襲う熱と、爪が頭に突き刺さる感覚だけを知覚していた。
卓子の場所がずれて遠くなると、母は畳に向かって我が子の頭を叩き付ける。
ガンガンと、骨から響く音が、以前の思考を奪っていく。


アンタは邪魔だ アンタさえいなければ 死んでしまえ 私は幸せになるんだ  媚びるお前が憎い 放っといても育つって聞いたのに すましやがって  金も手もかかるじゃないか ガキなんざ嫌いだ 大嫌いだ 邪魔なんだ


怨嗟の声で、母は泣いた。
それはいつもの癇癪による物とは少しばかり違っていて。
そう、明確な殺意が、そこには含まれていた。
抵抗することもできず、頭を断続的に襲う痛みと熱で、体はぐったりと弛緩する。
けれど、それでも彼はのろりと目玉だけを動かして、母を見た。


「か……さ…」


本当は、言葉で伝えたかったのだけれど。
もう口もいまいち動かなくて。
だから、目で己の心を語る。



ごめんね、母さん。



幸せにしてあげられなくて。
邪魔をして、ごめんなさい。
悪い子でごめんなさい。
役立たずでごめんなさい。
出来損ないでごめんなさい。

死んで欲しかったなら、言ってくれて、良かったのに。
そうしたら僕は、自分で死んだのに。

母にとって自分は邪魔で、不必要な存在なのだとは知っていた。
けれど、母は自分に居場所をくれたから。
出て行けと言わずに、この部屋に入れてくれたから。
いつか、「好きだ」「愛している」と言ってくれるかもしれないと、夢を見ていた。
夢は、叶わないからこそ夢なのだと、誰かが言っていたのに。

そう思うと、自然と涙がぽろぽろと零れてきた。
涙が頭から流れ出た血と混ざって小さな水たまりが出来ていく。


「かー……ん」


思考は霞み、ばらけてちぎれる。
己の最後を悟ったのだろうか、いまいちよくは分からないながらも、少年は最後、 もはや、掠れ切って音にもなっていなような声で、母を呼んだ。


「!!」


と、まだ息のある我が子に、錯乱した母は鬼のような形相でのしかかり、 細い首を容赦なく締め上げる。


「かっ……ふ……っ」
「死ね。死ね死ねしねシネ死ねしねシンジマエ……っ」


彼は、死ぬつもりだった。
母に殺されるなら、ある意味本望ですらあった。
けれど、次に母の華の唇から漏れた言葉に、彼の目は限界まで引き開けられる。


「お前を殺してあのヒトのところにイクんだ……っ!」
「!!!!!!」


彼はどんな母をも愛していた。
母に殺されるなら、ある意味本望ですらあった。
けれど。



己を捨てるのならば、それは最早『母』ではなかった。



その後の展開は、大方の人間の想像の通りだろう。
零崎の覚醒など、お定まりのパターンしか存在しない。


「        ――……!」


彼は、手近に転がっていたコンパスを手に掴み、まるで考えることなく母の左目を潰していた。
「ぎゃあ」と母であった女が獣のように咆吼して彼から離れようとするが、それには委細構わず、 彼は煩いその喉にひしゃげたコンパスの先を再度突き立てる。
「がっ」とさっきより短い声がした。
いつの間にか上にあった邪魔な物体が消えていたので、彼は体を起こすと、 今度はもっともっと目の前の獣を静かにしやすそうな物を見つけたので、 カチカチとその刃を出して、血で斑になり始めた首を切り捨てる。

その間、不思議なまでに世界はスローペースで。
飛び散る鮮血が、夕日に煌めいて綺麗だな、と思った。

そして、以前――否、新たな鬼がヒト並の思考を得た時、息をしていたのは彼だけだった。


「あ?」


ぱちり、と瞬きをして、目の前にあるぐちゃぐちゃの肉塊を見る。
なんだろう、これは?
それが、彼の最初に獲得した思考だった。
そして、その肉塊が母であった女であり、自分がさっきまで損壊していた物体だと気づいた瞬間、 鬼は、渇いた唇で「どうしよう」と呟いた。

自分は自分を産んだ存在を殺した。
それは犯罪で、人殺しという悪いことだ。
悪いことをしたら、警察に捕まって牢屋に入るのだ。
自分を産んだ存在を殺したら、一体どれだけの罪になるのだろう?
死刑になるのだろうか。

怪我のせいで煩雑とした思考の中、そうなったら『おじさん』にはもう逢えないな、と思う。
『母』でない女など自分はどうでも良いが。
あの女を愛して、迎えようとした男がいたのは確かだ。
その時、ヒトでなくなってしまった鬼はその男に純粋に申し訳ない想いで一杯だった。
可哀想に、愛した存在がいなくなってしまったのだ。
その気持ちを痛いほど理解していた鬼は、だから、彼にきちんと話をしなければと思った。
あの女はもういないのだと、知らずにいたら可哀想だ。
警察に捕まったら、あの女の最後を知らせる人間がいなくなってしまう。

そう考えた鬼は、ふらふらする頭を抑えながら、荒れた室内で唯一一番綺麗な鏡台へ向かう。
なんだかカラフルな化粧道具は、少年の記憶にある限りいつだってすました顔で並んでいた。
今も、目の前の惨劇のことなど知らぬげに、それらはキラキラと夕日の中で光を反射する。

と、二番目の引き出しを漁ると、そこには適当に放り込まれたと思しき名刺の束があった。
客から貰ったものだろう、裏には携帯番号が書かれてる物が多い。
その名前を一つ一つ確かめながら、目当ての物を見つけた。
特に特徴のない名前が書かれた名刺だったが、裏返すと携帯番号の他に、 母であった女の丸文字で、閑静な住宅街の住所がメモされていた。
それをパンパンに膨らんでいるポケットにねじ込んで、彼は薄暗い街へと繰り出していく。








「……で?」


彼女と自分の馴れ初めを話していたはずが、いつの間にかただの誕生譚になってきたところで、 零崎一賊で一番の洒落者は人識からにやにや笑いを寄越された。

あの時とは違う青い蒼い晴天の下で、はくるくると日傘を回す。


「で、って?」
「つまりは、その『おじさん』とやらが初恋相手の父親だった訳だろう?
リーダーはそれを一体全体、どの段階で知ったんだ?」
「ああ、そりゃあもちろん、その『おじさん』を見た瞬間さ。
ありふれた名字だったから名刺じゃ分からなかったが、なにしろ彼女は父親似だったからな」


そして、『おじさん』も血塗れで尋ねてきた少年が己の不倫相手の子どもだと、 その顔を見た瞬間に悟ったことだろう。
なにしろ、彼は母親であった女と、それはよく似ていたから。


「向こうも驚いただろうさ。早めに帰宅したから気前よく来客に対応したら、 不倫相手の子どもが血塗れで立ってたんだからな」
「殺されそうになったのか?」
「いいや?どっちかって言うと、僕が虐待の被害者だと思ったらしくてな?
救急車を呼ぼうとしてくれたよ。良い人だった」


緊迫した声で奥の妻を呼び、頭の傷を診てくれようとした壮年の男。
どこにでもいそうな平凡で、人の良さそうな人間だった。
その一連の流れを見て、鬼は彼に「あの女は死んだのだ」と早く告げなければと思った。
けれど、彼は鬼が告白する前に言ってしまったのだ。


『くそっ。あの女、馬鹿なことを……っ』


女を悼むでもなく。
心から厄介事を疎む、その言葉を。

だから、鬼は「なんだ」と呟いた。
なんだ、コイツには言わなくても良いのか、と。

そして、呟いた次の瞬間には、ポケット一杯のカッターやら彫刻刀やらで、 あの女と同じように首を切ってやっていた。
なにしろ、あの女が不憫だったのだ。
子どもを殺してまで一緒になろうとした男が一顧だにしてくれないだなんて。
なら、同じように殺してやれば、あの世とやらで逢えるかもしれないだなんて、思った。

おそるおそる玄関を覗きに来た少女と母親の目の前だった。


「で、可哀想だったから、母親も女の子も殺してやったんだ。
一応一撃だったから、拙いながらも痛みはあんまりなかったと思うぜ」
「親切心で?嫉妬とかじゃねぇのか?」
「嫉妬?」
「ああ。アンタと違うまっとうで幸せな家庭だったんだろう?
一般的には妬んで嫉んで当たり前じゃねぇのか?」
「おいおい、人識。妙なことを言うなよ。まっとうだからって幸せとは限らないし、 まっとうじゃないからって言ったって、幸せじゃないとは限らないさ」


少なくとも、僕は幸せだった。


「…………」
「ただまぁ、いよいよやらかしちまったからな。
好きだったはずの人間を殺してもまるで罪悪感がない自分に気づいた瞬間には絶望したもんさ。
嗚呼、こりゃあ駄目だ終わってるってな?」
「終わってる……」


段々神妙になってきた末弟が面白いのか、は逆にどこか楽しげに口の端を上げる。


「で、とっととこの世とおさらばしようとしたら、どこぞの変態に盛大な邪魔をされてなー。
神も仏もいないっつーのを僕はあれで思い知ったね」


よりにもよって、あの変態だ。
普通にイケメンな軋識やちょっと天然入ってるもののやはり良い男な曲識でなくあの変態。
もちろん、が零崎入りを盛大に蹴ったのは言うまでもない。
結局、拘束されたり軟禁されたり懐柔されたりで、いつのまにか彼は零崎と名乗っていたけれど。

と、その時の諸々を思い出して、思わず渋面を作ると、 なにか勘違いしたのか、人識はなにも映していない混濁した瞳でを見つめた。
けれど、その色を、はあの夕暮れ時の血飛沫同様、綺麗だと思う。
零崎の極端こと、零崎の申し子。
「究極の殺人鬼」と「絶対の殺人鬼」の間に生まれた忌み子は、 その可愛らしい顔からは想像も付かないほどの虚無を抱いて問いかける。


「……兄貴を恨んでるのか?リーダーは」


嗚呼、コイツの問いは自分探しをしているようだな、などというのが、の感想だった。
分からないことを問いかける。
それができるのは、酷く幸運で、自分にはできなかったことだった。
そう、あの時自分はきっと母を呼ぶのではなく、問いかけるべきだったのだろう。
何故、と。
どうして僕を殺すの?母さん、と。
或いはそうだな。
それ以前に、どうして自分を愛してくれないのか訊いておくべきだったのかもしれない。
まぁ、死人に口なしとはよくぞ言った物で、もはや答えは永遠に分からないのだけれど。

己と同じ、母のない弟を見る。
母もなく父もない。
いるのは唯一無二の兄と、零崎という不思議なコミュニティーを共にする変わり者ばかり。
今の人識は――中学生という表の身分を失った後の人識は、 いつでもどこでも、触れれば切り刻まれるくらいの危うさを抱いていた。
安定しているようで不安定。
居場所があるようで根無し草。
それは、ある意味、落ち着いていないようで誰よりも落ち着いているとは正反対だった。

そして、そのことが分かっているからこそ、コイツは全国を放浪し、 近しい誰かとの差異を測ることで己を定義しようというのだろう。
彼曰く、『なにかをどうにかしてくれそうな相手』に出逢った時のために。
ならば、先を歩む者として、誠心誠意応えてやろう。


「ああ、兄貴じゃなければ殺しているさ」


もっとも、兄でない双識など、未だかつて見たこともないけれど。







子どもを捨てる母は最早『母』ではないと断じたと。
兄を殺す弟がいても、弟を殺す兄は最早『兄』ではないと語る双識。

その両者の思考の類似性と差異はどれほどの物かは知らないし、知りたくもない。
というか、別に知る必要性もない。

ただまぁ、それは他者からしてみれば同一と言って良いくらいよく似ていて。
だから、という男は、あれと実は気が合うんじゃないかと軋識あたりは思っている。
本人にしてみれば、実に業腹に違いないが。
人間性はさておき、変態性のせいで同一視されることを忌避されるような奴なのだ。双識というのは。
だから、


「零崎一賊の者だな?」


少なくとも今夜はその空き地にいるというに対し、 こんなところで野宿は嫌だと主張した人識が別れ。
しばし時間が流れて、人っ子一人いなくなった丑三つ時。

見たこともない狐面の不審者に眼鏡を勧められたの答えは決まっていた。


「あいにく、ウチには眼鏡要員がすでにいるんでね。お断りだよ」





彼らと同じ表情で、微笑むくせに。





......to be continued