私は逃げた。
全てを受け入れた振りをして。
開き直ったことを、受け入れたことと勘違いして。






Life Is Wonderful?、46





それは、酷く突然だった。
支社長はひたすら無言で書類をさばいていたし、私は新しくコーヒーを入れていたところだった。
私はせいぜい、支社長の邪魔にならないように最小限の動きと音でカップを置き、 無駄なく部屋を出て行こうとしていたのだ。
と、そんな私に、しかし、不意に支社長の声がかかった。



「はい、なんでしょう?」
「猿が今度カニクリームやらコロッケやらを、一緒に食いたいだのなんだのと言ってやがったぞ」
「……は?」


唐突で曖昧な言葉に思わず目が点になる。
がしかし、一瞬にして眉間の皺が1.5倍になったのを見て、その話の脈絡のなさは即座に頭の隅へとおいやる。

……えーと、カニクリームコロッケっていうと、この前食堂で食べた時のことだろうか。


「……ああ。悟空からのお誘いですか?」


ビックリした。
突然『猿』だのなんだの言いだすから、仕事のしすぎで頭が混乱でもしたのかと……。
が、まぁ、そんなことは流石になかったらしく。
支社長は仏頂面で「ああ」と答えた。


「この前、来るなら相手の都合を事前に確認しろと言ったら、早速人を使いやがった」
「……あはは。素直ですねぇ」


正直、その度胸には脱帽だけど。
この人を伝言板よろしく使えるのは、きっと悟空か観世音社長くらいに違いない。
と、乾いた笑いをしていた私だったが、そこで不意に疑問が生じる。


「あの、でもどうして悟空は自分で直接言わないんですか?」


そう。
悟空にはとっくの昔にメールアドレスを教えてある。
食事のお誘いなら、携帯でも何でも使えば良いのに。
どうして?と、首を傾げる私に、そこでようやく顔を上げた支社長は、若干の間を開けた。


「…………」
「……?」


気になる間だった。
この人にしては珍しく、言いたいことが喉につかえているかのような……。
もしくは、言おうとした一言の問題点に、直前に気づいて引っ込めたかのような。

そして、支社長はいつになく無表情のまま、ようやく口を開いた。


「……俺の許可が必要だとでも思ったんだろ」
「??」


何で悟空と食事するのに、支社長の許可が?
確かに、支社長は悟空の養い親かもしれないけれど、いちいち誰かと出かける許可を申し出てるとか?
そんなに過保護な様子でもないんだけどなぁ……。
放任ってワケでもないけど、ある程度は信頼して好きにさせてるって感じ。

と、余程私が妙な表情をしていたのだろう、支社長は更に補足説明を加えてくれた。


「お前が俺の部下だから、この前怒られたとでも思ったらしい」
「……はい?」
「部下を昼時に引っ張り出すには、上司である俺の許可がいると猿は学習した、とそういう事だ」


ようやくその言葉で事態を呑み込めた。
そういえば、この前悟空は予告なしにやってきて、一緒に食事をした時に、支社長にこっぴどく叱られたのだった。
確か、アポイントメントを取れだの、思いつきで行動するなだのといった内容だったと思うが、
言われてみれば、その中に勝手に人の部下を巻き込むなといったこともあった気がする。
で、悟空はきっとそれを聞いて、勝手に巻き込むのが駄目なら、断りを入れれば良いと解釈した訳だ。

なるほど、それなら私と約束してから許可を得るよりも、支社長を媒介にした方が手っ取り早い。
手っ取り早いが、しかし……。


「……的外れですね」
「……基本が馬鹿猿だからな」


はぁ、とこれ見よがしに支社長は溜息を吐いた。
その、何とも言えない様子に思わず笑ってしまう。
多分、支社長はまた嫌そうな表情をするだろうけれど、笑ってしまったのだから仕方がない。
そして。
私は、思わず溢れてしまった笑顔を怒られる前に、支社長室をあとにした。

けれど、私は気づいていなかった。
……背後に迫る、足音に。



それは、私に追いつこうとする、過去という名の足音だった。



気づけば、何かが違っただろうか。
気づけば、何かを変えられたのだろうか。
嗚呼、いや、分かっている。
きっと変えられたのだろう。
良くも悪くも、全く別の展開に。
けれど、私は気づいていなかったのだ。

だから、今更何を言ったところで。
私が行きついた先は変わらない。
変わって欲しくなど、ない。







時間は流れて。
お昼には少し早い時間、私は支社長と共に外へと出ることになった。
とはいっても、楽しい用事ではない。
取引先の会社に、午後から出向くことになっていたのだ。

支社長自らとなると、ただごとではなさそうだが、何のことはない。
その取引先の人が元々支所長の知り合いで、どうせなら直接やり取りをしてしまおうというだけである。
本当だったら、もう少し遅く、食事を早めに済ませてから出向くのでも十分なのだが、 午後いちでの会合予定だったので、ついでに食事もどうか?というお誘いを受けてしまっていた。
この玄奘 三蔵という人は、仕事に私情を挟むタイプの人間ではないのだが、 まぁ、利用できるものなら利用してしまえ、ということらしい。

それなりに乗り気で行こうとする支社長と。
秘書として付き合わざるをえない私。
個人的には、全く気は進まないが、仕方がない。
これも仕事だと諦めて、私は支社長とともにエレベーターへと乗り込んだ。

がしかし、私は断固拒否するべきだったのかもしれない。
拒否して、持参したお弁当でも、秘書室でつついているべきだったかもしれない。
そう、思う。

その、燃えるような真紅の髪を目にして。
そう、頭の隅で思った。


「ぁ……」


思わず、声が漏れる。
けれど、唇以外の部分の感覚は瞬時に消え失せ、私の身体は凍りついていた。

そして、そんな私を隣にいた三蔵さんは訝しげに見つめてきた。
その事に気付いたけど。
その事に気付いたのに。
私の心境はそれどころではなかった。

逢いたかったと、声高に叫ぶ自分がいて。
逢いたくなんてなかったのに、と泣き叫ぶ私がいた。

見慣れた玄関ホール。
行き交う、私に無関心な人の群れ。
そこに、一輪の薔薇が。
真紅の薔薇を思わせる、長身の青年が。
唐突に。突然に。立っていた。

彼は、受付嬢にごく親しげな笑みを見せながら、話しかけていた。


「ご…ょ………」


知らず知らずの内に溢れた呟き。
すると、まさかそれが聞こえた訳ではないと思うけれど、悟浄はこちらに視線を移した。
紅い瞳が見開かれる。

気がつけば私は、逃げる事も向かう事もできず、じりじりと後退っていた。

止めて。
来ないで。
嫌。
怖い。
お願い。

お願い。


っ!」



――私を呼ばないで。



人目も憚らず、悟浄はその長い足で駆けだした。
私と彼の間にはかなりの距離があったはずなのに、彼はもうすぐ近くまで来ていて。
足が震えた。
冷や汗が噴き出している。


「い、や……」


声は、掠れて消えた。
そして、瞬く間に悟浄は私の前に来て、その大きな手で肩を掴んできた。


!ようやく見付けた!!」


止めて。


「何だよあの言葉!?あんなもんでオレが納得すっと思ってんのかよ!」


やめて。


!聞いてんのか!?」


ヤメテ。

大きく目を見開いて、私は悟浄を凝視する事しかできない。
何を言ってるの?
何て言ってるの?
声は聞こえる。
言葉も聞こえる。
でも、それを言葉として認識できない。

頭の中は真っ白で。
ただ、悟浄の声だけが木霊する。


――


好きだった。
温かくて、優しいその声が。
頼りになったその大きな手が。
男らしい仕草も。
幼い寝顔も。

悟浄の全部が好きだった。

でも、大好きだったからこそ。
もう、聞きたくなかったのに。



「……ウゼェ」



そして、悟浄の言葉が理解できず、思考に埋没していた私を。
一瞬にして覚醒させたのは、三蔵さんが発した低い呟きだった。


「消えろ」


彼は悟浄の手を私から振り払っていた。





逃げても逃げても。
自分からは逃げられないのに。






......to be continued