蒼い蒼い夜に一人。
ただ、一人で月を見上げた。






Life Is Wonderful?、42





――チャン。
――
――マーマv
――
――なぁ。
――オイ。

――お前。



「っっっ!」


はっはっはっ……はぁ。
思わず、乱れた呼吸のまま、周囲を見回す。
そこは、いまだ慣れないダンボールの積みあがった自分の部屋で。
住み慣れた、あそこではない。
見慣れた、あの人の広い背中もここにはなかった。

嫌な夢を見て、夜中に目が覚めた。
かいた汗はただの汗なのか、冷や汗なのか、とにかくただ肌に纏わりついてくる。
ぬるまゆく温かい夜に、不快感は増すばかりだ。
その上、身体は全力疾走でもしたかのごとく、熱い。
心臓はひっきりなしに暴れ続け、耳の中を流れる血の音は煩いくらいだった。


「……夢、だよね」


わざわざ確認することで、とりあえず安心しようと声を出す。

あれは、夢だ。
怖い夢ではなく。
哀しい夢でもなく。
ただただ、嫌な夢。
現実にあった、嫌な夢。


「私は……。『 』」


なぁ、じゃない。
オイ、じゃない。
お前、でもない。

気がつけば、呼ばれなくなっていた名前。
でも、それが私。
今の私は
あの人と同じ苗字ではない、それが今の私。

自己確認しながら、何故こんな夢を見たのだろう、とちらりと思う。
……いや、思うまでもない。
あの人が出てくる夢を見るであろうことは、昼間の時点ですでに気がついていた。
そう。あの電話が掛かってきた、その時点で。

久しぶりに、懐かしい人から名前を呼ばれたせいだ。


「……馬鹿だなぁ」


その程度だ。
その程度で取り乱してしまった。


「絶対、三蔵さんに変な人だって思われたよね」


最悪、またも異動ということになるかもしれない。
よくよく考えてみれば、社長直々に推薦されてきた人間を、たった数日で辞めさせる訳がないのだ。
それでは、社長の面目は丸つぶれというものである。
異動も十分にアレだが、解雇よりは可能性がある。
今までも秘書を悉く飛ばしてきたあの支社長であれば、その位やってのけるだろう。

ここ数日見ていて、自分にも他人にも厳しい人間であることはよく分かった。
でも。


「良い人だよね……」


普通、プライベートであってもあそこまで醜態を晒した人間に対して、詰問しないなんてありえない。
けれど、あの玄奘 三蔵という人は、それをしなかった。しないでくれた。
きっと、詰め寄られていたら、自分はあそこで倒れるなりなんなりしてしまっただろう。
だから、そうしないでくれたあの人の株も上がろうというものである。
気になったに、違いないのだ。
人間は好奇心の塊で、あんな絶好の暇つぶし、見逃すはずがない。
けれど、見逃してくれた。
深く詮索せず、あの場から逃がしてくれた。
それだけで、あの人が案外気配りの出来る人間である事が分かる。


「……でも、流石に気持ち悪かっただろうし」


その内異動か、なんて考えながら、ぼんやりと立ち上がった。
すっかり目が冴えてしまったし、喉も渇いたしで、なら何か飲もうと思ったのだ。
暗闇に慣れた目には、蒼く冴え冴えとした情景が優しくて、電灯はつけない。
躓くほど何かがある部屋でもないので、まぁ、別に良いかと思う。
そして、ひたひたと裸足のまま、冷蔵庫へ向かう。
一人で生きていくのに、十分以上の大きさの、それだ。

ガチャリと、思った以上に大きな音を立てて開けられたそこには、ヨーグルトやらプリンやら。
ゼリー系のデザートが幾つかと、少しの野菜。
明るい灯りに目がくらんだのか、一瞬だけ、それがおかしく感じた。
どうして、こんなに物が少ないのか、と。
だって、前はもっと……――

けれど、その感覚は気のせいだと自分を納得させる。
何事もなかったかのように、私はそこからオフェオレの紙パックを一つ掴んで、取り出した。


「……どこで飲もうかな」


冷蔵庫の前でラッパのみは幾らなんでもアレだよなぁ、と思い、そのままテレビのある部屋へと向かう。
が、途中で思い直し、その部屋をそのまま素通りして、私はベランダに出た。
綺麗な、満月が出ていたのだ。
嗚呼、いや。
ほんの少しかけているから、十六夜かもしれない。


「綺麗」


黒い布に穴を開けて、そこから光を仰ぎ見たような、不思議な情景。
私は、昔から、この風景が不思議でならなかった。

どうしてお空には穴が開いているの?

そう問えば、大人は決まって微笑み。
友人はこぞって、笑い話へと変えた。
別にそれが嫌だったわけではないけれど。
誰か良い回答をしてくれないものかと、思っていた。


――そりゃあ、あれよ。


「!?」


――チャンみたいに、自分を見上げている奴がいないか探すためじゃねぇの?


「!」


不意に頭の奥で響いてきた声に、頭を振って逃れようと足掻く。
優しくて、温かい声から、必死に逃げる。
もう、あんな風に声をかけてくれる事はない。
もう、あんな風に優しい目を向けてくれる事なんてないのだから。
思い出しても苦しいだけ。
だから、忘れたい。


「……忘れよう?」


そう思うけれど。
でも、大切なものだったのだ。
大切な、ものなのだ。
捨てようとして捨てられるものではない。


「……忘れなきゃ、駄目なんだよ」


忘れたい。忘れたくない。
相反する想いが交錯する。
微かに、煙草の香りが香ったような、そんな夜。





蒼い蒼い夜に一人。
けれど、思い出の中では二人で月を見上げていた。






......to be continued