逃げて逃げて逃げ続け。 大切な物を置き去りにした。 Life Is Wonderful?、31 それからは、忙しかった。 いや、忙しくした。 八戒も店を開ける時間を長くしてくれ、なるべく家に帰らないように。 結局のところ、俺は逃げていたのかもしれない。 我が子の思い出の詰まった家から離れて。 愛しい妻から、距離を置いて。 何も考えなくてすむように……。 「ねぇ、悟浄?今夜……」 「お姉さん見る目あんねぇ〜。でも、俺ってばこう見えて既婚者よ?」 「良いじゃない。少しくらい」 「ダ〜メ」 そして、そつなく仕事をこなしていると、必ずと言って良いほど女共に声をかけられた。 それもまた、考え事をする暇を奪ってくれて丁度良い。 俺がこの店入ってから、確実に頭の軽っそうなお姉ちゃんやらお嬢ちゃんやらが増えたよなぁー。 まぁ、この髪は目立つに決まってるし? 社交辞令として、イイ女には声かけるし、サービスだってするし? 当然っちゃ、当然だよな。 「駄目なんて……私じゃ不満?」 「不満なんてこたぁねぇよ。お姉さん美人だし」 「じゃあ、どうしてよ?」 「愛妻家だからv」 「こんな時間まで家に帰らないのに?」 ずきり。と、胸が軋んだ気がした。 「……しゃ〜ないっしょ。お仕事なんだから」 「だったら、その『お仕事』の内だと思って……ねぇ」 甘ったるい声に、絡んでくる蛇みたいな冷たい腕。 軽口で逃げようとした俺に、なおもこの女は食い下がってくる。 普段なら、多少は良い気になる場面だったが、今日は無性に……気持ちが悪い。 すると、そんな俺の様子にいち早く気づいた八戒が、助け舟を寄越してきた。 「ああ、すみませんお客さん」 「あれ、なぁに?店長さん。まさか従業員と話しちゃいけないなんて規則でもあるのかしら?」 毒をまぶした視線と声。 これだから、女って奴は怖い。 だが、その程度、八戒にとったら何でもない事のようで、奴は『心底困ってます』といった表情を瞬時に作り出して、言った。 「いえ、そうではないんですが……」 「じゃあ、何よ」 「実は彼、今日は体調が優れないらしくて。早めに切り上げてもらう事になってるんですよ」 暗に『早く開放しろ』と言っている八戒に気づいたその女は、そこまで言われれば引き下がらない訳にもいかず。 数分振りに、俺の腕は自分の意思で動くようになった。 「……なら、仕方がないわね」 「ええ。本当に申し訳ございません」 完璧と言って良い笑顔。 それが酷く薄ら寒いように見えるのは俺の気のせいか? そして、俺は予期せず、早めに帰宅せざるを得なくなった。 早く帰るのは久しぶりで……少し怖かった。 家に着いたのは、大体、日付が変わる頃。 居間の電気はついていたけれど、そこにの姿はなく。 これは、俺が真っ暗い中帰って来る事のないように、という彼女の配慮。 適当に荷物を放り投げて、俺はのいるはずの寝室へ足を向けた。 月明かりの満ちる部屋は、思った以上に明るく。 俺はそっとベッドに近づいた。 聞こえてくるのは、規則正しい呼吸音。 どうやら、こちらの方を向いて、横に寝ているらしい。 寝てる、んだろうな。 は俺と違って早寝早起きな人間だから。 そして、ベッドのふちに音を立てないように腰掛けて。 の寝顔を覗き込んでみて。 「……っ」 俺は息を呑んだ。 規則正しい、呼吸音なのに。 その閉じられた瞼に光るものを見つけちまったから。 思わずベッドから降りて、彼女の顔を間近で見ようと、床に跪く。 手を伸ばせば、指先には僅かな水滴がついて。 激しい自己嫌悪に襲われる。 「悪い……」 「本当に、悪ぃ……」 「言えなくて、ごめん。……」 すると、その声が耳に届いたのか、小さく唸ったが羽のように軽い睫を震わせた。 「ん……ご、じょう?」 「悪い。起こしちまったな」 何度目の謝罪か分からないまま、目を瞬かせる彼女の髪を梳く。 それに、気持ち良さそうに目を細めながら、は柔らかく微笑んだ。 「お帰りなさい悟浄」 「……たでぇーま」 「今日は早かったんだね」 「あー…変な客にちょーっと絡まれたから早めに切り上げてきたんだワ」 「そう……。大変だったね」 「お疲れ様」そう言って、は身体を起こし。 俺を慈しむ様に手を伸ばした。 まるで幼子にするように、優しく頭を撫でられる。 この紅い髪が嫌いだった。 人と違う、血のように紅い髪が。 ひょっとしたら、この髪のせいで俺は両親に置いてかれたんじゃないかと勘繰った事だってある。 けれど。 「…………」 こうして、に触れてもらえる時は、この髪ですら喜びを与えてくれる。 だから、今ではこの髪も嫌いではない……。 こうして考えると、自分はこんなにもに与えられたものが多いのだと分かる。 何一つ、返せてはいないというのに。 それどころか、奪ったと言っても過言ではないと思うのに……。 馬鹿だな、俺は……。 「悟浄?どうしたの?」 不意に目を伏せた俺を伺うように、の瞳が不安で揺れる。 それを打ち消すように、彼女をそっと抱き寄せた。 相変わらず細い体。 妊娠したからかなり太ったと言っていたのに、その肉も全て落ちてしまったのだろう。 「何でもねぇよ」 「本当に?」 「何でもねぇっつの。それより、の方こそ何か怖い夢でも見たのか?」 「どうして?」 「さっき……」 泣いてたから。 そう言いたくて、でも言えなくて。 「うなされてたみたいだったぜ?」 本当に、俺って奴は情けない。 「よく、覚えてないんだけど……でも……」 「でも?」 「怖かった訳じゃないと思うの」 小首を傾げて思い出そうとする。 けれど、それをさせる気のない俺は、彼女の今だ涙の跡の残る頬に軽く口付けた。 何度も何度も。 唇で涙を拭う様に。 思い出さなくても、良い。 きっとそれはあの、哀しい記憶に他ならないだろうから。 どうせなら、これで悲しみも拭えりゃ良いのにな。 そう、心の中でひとりごちながら、ゆっくりと時は流れていく――。 逃げても、何もなくさないと思っていた。 それはただの幻想だったけれど。 ......to be continued
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