忘れてはいけないものがあった。 けれど。 忘れてしまっていた。 Life Is Wonderful?、29 仕事を休ませて貰って、俺はリビングにいた。 嫌な記憶から逃れるように、ベビーベッドを片付けてしまったリビングに。 すると、そこにが夕飯を作ってやってくる。 いつもと変わりないような自然な態度で。 もう、吹っ切れたとでもいうような不自然な態度で。 「はい、今日のご飯は春雨サラダです」 「……」 「なぁに?悟浄」 最初の頃に比べて、落ち着いたように見える。 もう俺の顔を見て泣き出す事も、謝りだす事もなくなった。 けれど。 「無理、してんなよ」 これは、嘘だ。 本当の、じゃない。 「無理なんかしてないよ?」 本当のは。 「してんじゃねぇか」 こんなすぐに笑えるようになる程、強くない。 「してないよ。ただ、いつまでも泣いてちゃ駄目かな、って思っただけ」 「…………」 「悟浄の方こそ、無理してない?」 「話、逸らすんじゃねぇ」 「逸らしてないよ」 「いーや、逸らしてる」 心底、分からないといった表情をするを、引き寄せて。 腕の中に閉じ込める。 無理すんな。 俺のせいで傷ついて。ボロボロで。 なのに、我慢すんな。 そんな事されたら、俺はどうすれば良いのか分かんねぇじゃねぇか。 「俺の知ってるは実はさらっとした表情して傷ついてて。 弱いくせに、平気で嘘つきやがるんだ」 「そんな事、ないよ……」 どんどん声の小さくなっていくに、追い討ちを掛けるように言葉を続ける。 「そんな事あるから言ってんの。今だって俺に気遣って泣かないじゃねぇか」 傷つけないように、傷つかないように、意識せずに笑ってしまう。 そんなが、酷く歯がゆい。 「泣いてたじゃない」 不意に、の声が僅かに震えた。 「私、ずっと泣いてたじゃない。でも、それじゃ何も変わらないから。 何も変わってくれないから泣くのを止めたのに、どうしてそんな事を言うの……?」 「堪えたって、何も変わんねぇだろっ」 「変わるよ。変わるから、泣かないの」 「っ」 頑なな彼女の態度に、ただ名前を呼ぶ事しかできない。 すると、は滅多にない事だが、目を吊り上げて俺を睨んだ。 「悟浄」 「……っ」 「あまり、私に優しくしないで」 ――自己嫌悪で吐き気がしそうだから。 これは、怒りだ。 俺に対してじゃなくて、自分自身に対しての、怒り。 俺と同じものを、は抱え込んでいる。 そんなもん、お前のじゃねぇのに。 と、息を呑んだ俺を一瞥したは、ふっとその雰囲気を変えた。 浮かんだその感情は、怒りではなく。 慈しみ。 「でも……」 でも? 「悟浄はもう、泣いて良いよ」 「……っ」 は真摯な瞳で俺を見ていた。 目が、離せない。 本当に、綺麗で。 俺が愛した、唯一つの瞳。 罪の意識からか、目を逸らしたいのに、逸らせない。 「私はもう、たくさん泣いた。でも、悟浄はまだでしょう」 「……俺、は」 俺には、泣く資格がない。 俺が殺した。 なのに、俺が哀しむ? そんなの、おかしいじゃねぇか。 「悟浄こそ、いつも溜め込んでると思うの」 けれど、そんな風に考える俺に、は言う。 本当の事なんて、知らないはずなのに。 いや……。知らないからこそ、彼女は言う。 「酷いよ。私ばっかり悟浄に甘えて」 「酷いって……」 「私ばっかり悟浄に格好悪い所見せて」 「格好悪くなんて、ねぇよ……」 「そう?じゃあ、ね?」 ――泣いてよ。 「泣いてくれなきゃ、不公平だよ」 そう言って、は呆然と腕を緩めた俺の顔を覗き込んだ。 その手は、そっと頬を包んで。 幼子を諭すように。 「悟浄が大好きだから、言うんだからね」 その言葉に。 何て言や良いのか分からない、感情が。 渦巻いて。 声にもならなくて。 「…………っ、っ」 痛いくらいを抱き込んで、俺は泣いた。 声を殺して。 彼女に顔を見られないようにして。 それでも、泣いた。 「哀しい、ね……」 大好きだと、言ってくれた。 俺が、欲しい言葉をくれた。 「凄く、哀しい……」 だから背中に回された、細い腕が優しくて切なかった。 + + + あの日、俺は涙がつきるまで延々と泣き続けた。 そして、そんなみっともない俺を、は見放さず。 ずっと抱きしめ返していてくれた。 ――俺は、の身体燃やしたくなんか、なかったっ。 ――うん……。 ――まだ、あんな小さくて。まだ、何も知らないガキで。 ――うん…………。 ――もっと、馬鹿みてぇに可愛がって。馬鹿みてぇに笑って……。 ――そうだね。もっともっと、一緒に……いたかった。 ――何もしてやれなかった。 ――そう、だね……。お誕生日も、まだだった。 ――たん、じょうび……? ――……うん。お誕、生日。 だから、言ったんだ。 君の、その言葉で思いついた、馬鹿みたいに幼くて些細な提案を。 ――。なら、祝えねぇかな……。 『命日』ではなく。 『誕生日』を。 毎年。毎年。 あの子と出逢えた日を。 あの子が生まれた、あの日を。 そう言った俺に対して。 あの時、はそっと微笑んだ。 ――じゃあ、約束だね。忘れたら、怒るから。 それが、と俺が交わした……最後の約束。 忘れてはいけなかった、哀しい決め事。 どうして、俺は。 こんな大切なことを? ......to be continued
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