気がつけば、君は隣にいた。 気がついた時には、君は何処にもいなかった。 Life Is Wonderful?、1 「――は?」 何の変哲もない喫茶店。 其処で、かつて見たコトもない程呆然と奴はオレを見た。 「悟浄、貴方今……何て?」 いつもの奥様にウケそうな微笑みも忘れ、八戒はオレに問いかける。 午後のうららかな陽気とは全く噛み合わないその表情に、オレはふと笑みがこみ上げてくるのを抑えた。 ここまで反応を示すとは正直思ってなかったので、少し愉快だった。 ああ、でもそういえば……、 「だから、離婚届の書き方教えろっての」 コイツもがスキだったっけか。 、というのは昨日姿を消したオレの元奥サン。 ははっ。まだ届け出してねぇからとりあえずは『元』じゃねぇか。 そこそこの容姿に生真面目な処がとりえの、言っちゃあなんだが極々平凡な女。 いや、寧ろ平均より良く言や素朴。悪く言えば地味。 いつもつまらなそうに笑っている、変な女だった。 何であんなんと結婚したのか今ではさっぱりだ。 がしかし、そんなオレの心中など気付くはずもない八戒は珍しく怒りを顕わにした表情になった。 いつもなら笑顔で怒る処だが、それすらない。 どうやら本気でキレかけているらしい。 ……なぁに、熱くなってんだか。 「笑えない冗談はあまり好きじゃないんですけど?」 「冗談な訳ねぇだろ。ほれ」 そして、オレはピラリと間の抜けた音を立てる紙っぺらを八戒に突きつけた。 奴の目が大きく見開かれる。 オレはまだ何も書いていない。 だから、奴がそうした原因は、すでに書かれた几帳面なの文字と朱色の判。 昨日、仕事から帰ったら結婚指輪と共にテーブルに置いてあったモノだ。 それを見て、ゆっくりと息を吐き出した八戒は努めて冷静な声を出した。 出そうとした。 「……状況を説明して、頂けますか?」 「状況だぁ〜?ンなモン、がそれ置いてどっかいなくなった程度のもんしかねぇぞ」 今更こんなもん置いて出て行く方の気持ちなんて知らねぇし? 別に昨日何があったって訳でもねぇよ。 つまり、いつもどーり。 喧嘩もえっちもしてねぇもん。 一昨日辺りアイツがいつもどーりにつまんない表情で笑ってたコト位しか覚えてねぇな。 そう言ったら、激しく睨みつけられた。 「貴方って人は……っ」 オイオイ。何でンな表情オレがされなきゃいけない訳? オレがアイツを置いてったんじゃないんだぜ? 寧ろ状況的にはオレが捨てられたとか逃げられたとかに当たる訳で。 「悟浄が悪いとでも言いたそうじゃん?」 気分悪ぃな、畜生。 「どう考えても貴方の日頃の態度が原因じゃないですか?」 「ハァ?オレがこんなんなのは昔っからだろうが。何を今更……」 「いえ、貴方は充分変わりましたよ」 あー、煩ぇ。 そんなにあんな女に執着してたのかよ、コイツ。 「オレとあいつが別れりゃお前だって都合良いんじゃねぇの? 別にオレは気にしないからよ。探しに行けば? お下がりみたいな形になっちゃいるけどよ。まぁ、幾らでも譲ってやるよ」 頭をかく。 そう言い切った後、こっそり窺ってみた八戒の表情は何とも言えないモノだった。 ショックを受けたとしか言いようのない様子と、憐れみに満ちた瞳。 恐らく、オレが今まで見た奴の表情の中で最も痛ましいという表現がピッタリくるモノだろう。 そして、八戒は何も言わずに席を立った。 「オイ、八戒。まだ書き方教え……」 「なら、さらっていきますよ」 「あぁ?」 「貴方が泣こうが叫ぼうが知りません。 此処まで堕ちた人に彼女を任せた僕が馬鹿だったんですね」 だから、さっきから良いって言ってんだろうが。 さらおうが何しようが、オレには関係ない。 さっさと書き方教えてけっつの。 好き放題言いやがって。ったく。 何でオレがわざわざ泣いたり叫んだりしなきゃいけねぇんだよ? 疑問に満ちた視線を向ければ、目を合わせない八戒が口を開いた。 「悟浄。貴方、の笑った表情って覚えていますか」 「あ?ンなもん当然だろうが」 「言っておきますけど、彼女が本当に笑った表情ですよ」 何言ってんだ、こいつ。 笑った表情は笑った表情じゃねぇか。 あのクソつまんねぇのだろ。 何も言わずに、瞳だけでその意を告げると、 ――思い出せないのなら、貴方はもう駄目ですよ。 去り際にムカつく一言を残して、八戒は帰っていった。 一応、「受付のお姉さんにお訊きすれば教えて貰えるんじゃありませんか?」なんて言ってからだが。 「それが面倒だから手前ぇに訊いてんだ」というオレの言葉は奴の背中に黙殺された。 殺気だった空気のせいでそれ以上喫茶に居たくなくなったオレは、特に何もする気が起きず家へ帰った。 いつもの癖でチャイムを押しそうになって、手が止まる。 あ〜、そういや迎える奴がいねぇんだった。 鍵出すの面倒臭ぇな。 面倒でも出さなければ入れないので、しぶしぶ内ポケットに手を突っ込む。 ガチャリと無機質な音を立てて、ドアを開けた。 一歩踏み込んで、綺麗に掃除された玄関が目に入る。 別にいつも通りのはずだが、妙な違和感があった。 「?」 少し首を傾げつつ、リビングへと向かう。 上着を投げ出してソファーに腰を下ろし、テレビをつけた。 すると、大して面白くもない大衆番組が流れ出す。 まぁ、電源を入れて映らなかったら、お釈迦になったってコトになるからそれは良いんだけどよ。 いつも見ていないからか新鮮ではあるが、さっきから感じる感覚を消すには及ばない。 「……あー、面倒臭ぇ。八戒の野郎」 特にするコトもなくて、思わず漏れるのは先程の奴に対する不平不満。 オレがこんなんなのは最初から分かってたはずだろ? それを承知で結婚したくせに、今更オレの『日頃の態度』だぁ? キレてぇのはこっちだっつの。 段々言っていてムカついてきたので、冷蔵庫までビールを取りに行く。 そこでふと食器棚を見て、オレはようやく違和感の正体に気付いた。 「……どーりで」 の食器がなくなっていた。 ビールを開けながら、そこら辺をざっと見渡す。 そういえば、何処を見てもの持ち物がない。 片付ける手間がいらなくなって、用意周到な女だと久しぶりに感謝した。 消えた君の面影すら、見える範囲になくなった。 まるで最初から夢まぼろしだったように。 ......to be continued
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