カケゴト カチャカチャ―― 食器の触れ合う音が一つの家から聞こえてきた。 何人分かのその音は、家族の団欒を表すハズだが、 此処からはいつも、ソレ以外の話し声も、テレビの音声さえもしてこない。 リビングで食事をしているのは二人。 一人は気難しげな金髪の美丈夫で、もう一人は長く美しい黒髪を垂らした妙齢の美女。 お互いに相手を見ることなく、黙々と二人は食事をしている。 彼らは『夫婦』だ。 しかし、ソレは戸籍上のコトで、実質はただの同居人に過ぎない。 周りの人間と、特に本人同士がお互いの利益のために、望んで選んだ生活だった。 「お先に――……」 女性はそう言って立ち上がり、自分の食器を全て台所に運んだ。 彼女が彼に声を掛けるのは一日でこの程度、いや、普段は一緒の席に着かないから、口を開くのすら珍しいコトだった。 そして、彼女は自室へと戻っていった。 この家には家政婦がいる為、彼女が家事をする必要は全くない。 男性は、特にソレを見て何かを気に止めるコトも声を掛けるコトもせずに、上着を羽織って仕事に出て行った。 いつもと変わらない、結婚記念日の朝だった。 男性――三蔵がいなくなったのを完全に確認した後、その妻であるは家政婦に、 『具合が悪いので昼食もいらないし、起こさないで欲しい』と告げる。 そして、その言葉とは裏腹に、身支度を整え、髪を後ろで無造作に束ねた。 動きやすそうなパンツスーツ姿は、先程着ていたワンピースとはかなり印象が変わる。 一見すると、男性にも女性にも見える中性的な出で立ちだ。 だが、コレが本来の彼女だった。 「……さてと、行くか」 はそう言って窓枠から身を乗り出し、すぐ横に植わっている広葉樹に飛び移った。 ガサリ、と葉の擦れる大きな音がしたが、家政婦は気付かない。 気付くハズがない。 いとも簡単に、彼女は息苦しい家から抜け出すコトに成功し、一人、街の中心地へと身を躍らせる。 そして、その瞳には喜びの色が映り込んでいた。 目的地に着くと、を此処に呼び出した張本人はすでに席についていた。 人目を引くその人物を見つけ、彼女は僅かに目を細める。 「……久しぶりだな。捲簾」 「全くだゼ。2、3ヶ月ぶりってか?」 まるで子供のような笑顔で笑うのは、の古くからの知人――捲簾だった。 隠しもせずに彼女に猛アタックし続け、三蔵との結婚に最後まで反対していた人物である。 ――所詮、彼らは『政略結婚』だったのだから。 二人は1、2時間ほど他愛のない話をし、近況について報告しあった。 がしかし、が一番聞きたい内容を、捲簾は全くと言って良いほど口に出そうとしない。 ソレはまるでタイミングを計っているかのようだった。 「……とまァ、コッチはこんな感じだ。ソッチはどーよ?何か変わったか??」 「いや、全く」 「……やっぱそうか」 彼女達は夫婦仲が冷めているなんてモノじゃない。 元々、冷めるような『仲』なんて存在しなかったのだから。 捲簾が少し考えるような仕草をしていると、はふと口を開いた。 「……で?」 「んー?」 「私に本当は何か言いたいコトがあるんじゃないのか?」 よりによって『この日』に呼び出したからには何か用があるはず。 それも、この男だって馬鹿ではないのだから、結構な用事が。 何処までも見透かすその視線を受けて、捲簾はこっそりと苦笑した。 自分が心の底から溺れた眼差し。 強い意志を秘めた、今でも心躍らせるその眼差し。 だが、彼はすでにフラれた身だ。 は自分の手に入らない。 いや、おそらく誰のモノにもならないんだろう。 彼女の主は彼女自身なのだから。 ――他の誰にも縛れはしない。絶対に。 早く話せと無言で急かしてくる彼女に、捲簾は至極真面目な表情を作った。 「……。お前このままでいいのか?」 「……何がだ?」 質問に質問で返すのは卑怯だと思いながらも、彼は言葉を切らなかった。 「仮の夫婦やってて楽しいか?楽しくねェだろ」 「…………」 「別れるコトは出来ないにしても、一緒の家に住む必要はねェはずだ」 「…………」 「オレは……お前が笑ってればソレで良い」 「…………」 その後に何があろうと知ったコトじゃない。 手に入らなくても良い。 ただ、その傍で支えさせてくれ。 心配なだけなんだ。 弱みを見せないお前のコトが。 それは、彼が彼女と出逢ってから差し出し続ける誠意だった。 「お前が望めば、何処へでも連れて行ってやる。今ならまだ一年しか――……」 「捲簾」 がしかし。 その誠意を、彼女は出逢ってから一度も変わることなく。 「私は今、『カケゴト』をしているんだ」 踏みにじる。 何処か必死に訴える彼を静かな声で遮り、は微笑を浮かべた。 その言葉に、捲簾の微かな願いは砕けた。 酷く儚く、それでいて美しい願いだった。 けれど。 彼女が断るであろうコトは予想が付いていた。 何しろ、自分は知っていたのだ。 彼女が、自ら臨んで政略結婚を受け入れたという事実を。 彼女が、どんな状況でも自身の望みを見つけることのできる人間だというコトを。 そう、だから、自分は彼女に惚れたのだ。 そして、捲簾はなんとか笑みを作って言葉を促した。 「……前に、言ってた奴か?」 「ああ。分は今のところ悪いが、負けるつもりもないし、勝算だってゼロじゃない」 ――だから逃げない。 きっぱりとそう言い切った彼女に、捲簾は呆れたような表情をした。 本当に、どうしてこうも頑固なのか。 捲簾には、今回が特別なのか、ソレともいつものコトなのか判断が出来かねていた。 「……あのなァー」 「でも、心配してくれたのは嬉しい。……ありがとう」 少し照れたように、満面の笑顔を彼に向けて、は立ち上がった。 一瞬、ソレに見惚れていた捲簾だったが、ハッと我に返り、彼女の服の裾を掴む。 「……まだ何かあるのか?」 「飯でも食ってけ」 「……奢りだろうな」 「とーぜん」 先程までの空気は何処へやらと言った感じで、二人はまた談笑に戻った。 しかし、はまだ気付いていない。 ソレを見て呆然とする男がいるコトに――……。 「……が?確かなのか??」 時間は一時間ほど遡る。 定時どおりに会社に到着し、いつも通り順調に仕事を片付けていた三蔵の元に、一本の電話が入った。 部下の一人である八戒からだ。 『ええ、おそらく彼女です』 「……少し待て」 三蔵は一度携帯を切り、自宅の番号を呼び出した。 最後に、此処に掛けたのは何時だっただろうか? 取りとめもなしに、そんなコトを考える。 仕事が遅くなっても干渉しない仮初の妻。 泣くコトも笑うコトも媚を売るコトもなく、結婚を承諾した仮初の相手。 面倒がなくて良いと思っていたが、彼女は浮気の可能性を考えなかったのだろうか? 何度目かのコール音の後、家政婦が電話口に出た。 『はい。玄奘でございます』 「オレだ。至急、アイツを出せ」 恐ろしく端的に用件だけを述べると、彼女は『畏まりました』とだけ言って、待機音楽が流れた。 中々聞こえてこない声に、ソレが憎らしく思えてくる。 三蔵という人物はとことん無駄を嫌う為、僅かな時間でもイラついてきた。 そして、ようやく音楽が途切れたが、聞こえてきたのは困惑気味の家政婦の声だった。 『も、申し訳ございませんが……、奥様はいらっしゃらないようです』 「……何?」 『本日は具合が宜しくないそうで、お部屋に篭られていたハズなのですが、お部屋にも何処にも――……』 彼女が話している途中で、三蔵は通話を切った。 そして、先程掛けてきた八戒にもう一度電話をする。 今の三蔵の心は、酷く気持ちの悪い感情が渦巻いている。 本人もよく理解できていないモノが、彼を蝕み始めていた。 『……どうでしたか?』 「家にはいないらしい。何処だ、其処は?」 『……駅前の喫茶店です。あの、三蔵』 「何だ」 『穏便にお願いします』 「…………」 その一言には応えず、三蔵はすぐに会社をあとにした。 彼の頭の中には、最初に八戒が電話してきた時の声が響いていた。 ――さんが、身知らぬ男性と一緒にいるのを見ました。 三蔵は、決して安全とは言えない運転で、駅前へと向かった。 そして、其処で見たモノは、彼に少なくない衝撃を与えた。 ……笑っている? 其処では、普段作り笑いすらしない自分の『妻』が、楽しげに何処かの男と話していた。 なぜ、ソイツには笑う? オレよりも、その男の方が優れているとでもいうのか? 巨大な財閥グループに生まれた彼は、優劣、勝ち負けでしか物事を考えなかった。 ただ、信頼されているかどうかの問題だったのに。 見合いの席でもニコリともせず、感情の欠片も見せなかった『人形』が笑ったコトに、彼は酷く驚き、 同時にチクリと何かが痛んだ。 三蔵は、此処に来てようやく彼女が生身の人間で、感情があるコトを知った。 彼に対して媚びなかった初めての女性は、感情がなかったからそうしたのではなかった。 それは、彼女の意思表示。 『お前になんか、心は見せてやらない』という、彼女の意志。 問題があったのは、彼女ではなく自分。 その可能性に初めて思い至った三蔵だが、しかし、それを素直に認めることなど性格上できはしない。 苦々しい想いで、彼は遠く隔たる二人を、ただ見ていた。 そして、二人が少し真剣な表情で何かを話した後、は極上の笑顔を浮かべて立ち上がった。 そんな彼女を見て、三蔵は少しの間愕然とした。 ……知らない。 あんな表情をオレは知らない。 ソレは、己が知ろうとしなかったからだが、三蔵は無性に憤っていた。 身体に大きな穴が開いた心境になり、三蔵は男に引き留められまた席に着いた彼女の元へと歩いていく。 そんな彼にすぐに気づいたのはで、次の瞬間には無表情な彼女になってしまった。 見慣れたハズのそれが、やけに癪に障る。 「?どうし……」 「気安く話し掛けてんじゃねェよ」 を心配した様子の男の、気遣わしげな声が酷く不快で、三蔵は何時にも増して低い声を発する。 酷く驚いた表情をした男を他所に、はすぐ立ち上がった。 「じゃあ、捲簾。先に帰らせてもらうよ。代金は立て替えておいてくれないか?」 捲簾は、チラリと三蔵に鋭い視線を向けたが、不敵な笑みを口元に浮かべた。 「……了解。さっきのお誘いはいつでも有効だからな」 「遠慮しておく。じゃあ、また今度」 「ああ、また今度。」 またもや、は捲簾に笑いかけた。 口調も、態度も自分の時とはかけ離れた彼女に苛立ち、三蔵は力任せに彼女の細い腕を引く。 かなりの力を込めているのにも関わらず、は文句も言わず、感情も窺わせなかった。 自宅に向かう二人は、自動車の騒音とは裏腹に終始無言を貫いた。 バシッ! 三蔵は家に入るなりの頭を平手で打った。 そして、僅かによろめいた彼女の胸倉を掴み上げ、剣呑な眼差しで彼女を見つめた。 「……仮病を使って逢引とはいい度胸じゃねェか。しかも初めての結婚記念日にとはな!」 「…………」 しかし、彼女は罵声を浴びせられても、何の反応も示さない。 泣くコトも、怒るコトもなかった。 ただ、その澄んだ藍色の瞳が、怒気を振りまく三蔵を捉えるだけだった。 そのまま睨み合うコト数分、は三蔵の手を力ずくで振り払った。 そして、彼女は一瞬俯いた後、今まで彼に向けたコトのない強い眼差しを見せた。 僅かに眼を見開く三蔵は、かなり驚いているのだろうが、彼女は構わずに口を開く。 「私は……結婚する前に言いましたね?『お互い干渉しないように』と」 「…っ!」 「そして貴方は、『承諾する代わりに髪を染めろ』とおっしゃった……」 の元は瞳と同じ美しい藍色は、今では深い深い夜の色に変わっていた。 目立ちすぎるから、という理由だけで。 「ソレなのに仮初の記念日に拘るのですか? ……それから、捲簾の名誉の為に言っておきますが、私と彼が『逢引』をしたという事実はありませんよ」 ショックを受けたように立ち尽くす三蔵に、は綺麗すぎる『微笑み』を贈って言い放つ。 「今更、『夫』の面ですか?」 瞬間、鈍い痛みが左頬を走り、口の中も切れてしまったようだけど。 彼女が俯いた顔に浮かべていたのは心からの笑み。 分が悪いコトなど、初めから分かっていた。 それでも。 政略結婚でも幸せになりたいと。 愛されたいと願ったのは、紛れもない自分自身。 どうやら、分は此方にも回って来たらしい。 ――さァ、勝つのはどっち?
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